高森市尻〜中山峠 |
この区間は寄り道が多いので迷子にならないようご注意を!!
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高森市尻の天満宮から西へ約300m下がると藩政期の久原村と長野村境の小川があり、ここから約600mのところ右手に、かって醤油醸造をしていた山田商店西角に北へ向けて小路があるが、これが古道「鳴川道(成川道)」の高森側起点である。旧山田商店は普通の民家と間違いやすいので、この先約80m、下相津の斎宮神社参道の80m手前と思ったほうが判りやすい。ここからも斎宮神社の赤瓦を遠望できる。「鳴川道」はここから岩徳線と国道二号線付近で斎宮神社参道を横切り、ほぼ現在の国道二号線沿いに長野の鳴川を経由して旧熊毛郡熊毛町の樋口(今市)・呼坂へ通じていた。「新道越」が開拓されるまでは、「椎木峠越」とともに中長距離道として重要な道であったとおもわれる。
右中央、山田商店 | 山田商店西角の「鳴川道」起点 |
西長野相津の斎宮(いつきぐう)神社は大同二年(807)三月、時の大神宮斎宮が京都から倭姫神を勧請したのが始まりと伝えられる。鎌倉時代初期頃までは大社の構えを保っていたという。街道沿い参道入り口から国道を横断し往復20分弱程度の道程。
斎宮神社参道 | 下相津の斎宮神社 |
県道144号線を西下すると島田川桜並木の土手道と合流する所に米川橋がある。ここまで来ると街道正面(西)に駱駝のコブのような形の城山(じょうやま)と平家ケ峰が見えてくる。左側城山(三尾山)山頂に大内氏配下の三尾城(三ツ尾城)があった。さらに手前の島田川左岸に真近かに見える山が狼煙場があった徳王山である。
中曽根徳王山初ルつふ狼煙場(熊毛宰判)は島田川左岸中曽根の徳王山にあった。米川橋付近街道から前方斜め左に見えてくる。 山頂から北西に下った浴が中曽根の徳王と呼ばれる地である。井上 佑氏によると「つふ」とは小ピークのことで、「つぶ」の書き間違いで、最初のピークが「初つぶ」だそうだ。この「初つぶ」の山容は周東千束から高森付近にかけて眺めれば台形状山頂の北側(右側)に当たるので判別しやすい。上、下中曽根で徳王の地を知る古老に徳王山を聞いても首をかしげる。徳王の地にある山の意だろう。地元T氏(屋号を徳王山という)の話では頂上は広く、今は枯れたが一本松があったそうである。徒然なるまま、何回かこの地を訪ね、T氏に出会い徳王山を確定するまで半年ぐらいはかかったとおもう。
「調査報告書」に「寛政四年(1792)『萩赤間関間狼煙場覚』によると、竈は三〜四畳程度のものを設け、焚草を準備する。かねてから村中に知らせておき、他所の狼煙を見付け、地下役人へ届けた場合は褒美として一貫文を与えることになっていた。」とある。
徳王山の左背後の山は大黒山である。古道「椎木峠越」は、この大黒山西山麓椎木峠を過ぎて筏場付近で山陽古道「相ノ見越」と合流することになる。
米川橋と西に中曽根徳王山初ルつふ狼煙場 ・城山を望む | 長野村米蔵跡(旧米川村役場跡) |
この先、米川小学校の裏、岩徳線の北側の「鳴川道」に通じる道の左側に小学校のプールがあるが、ここは旧米川村役場跡、すなわち藩政期の長野村米蔵跡である。ここは寄り道せずに街道を西下したほうがいいだろう。
米川小学校前の島田川土手道は往還と無関係。通り抜け不可で途中から県道に出られないため、最初から通らないほうがいい。米川橋から掛ノ坂手前付近にかけては、現在の県道がほぼ街道筋である。
米川小学校付近川土手(通り抜け不可)から西を望む |
米川小学校を過ぎて老人ホーム「高森苑」の手前の末法川(現、末石川)左岸角地には半目塚(半里塚)があったらしい。末法川から約600m西下すると、長野の中村と差川の村境である。ここは掛ノ坂と呼ばれ山の岩盤が川に突出し、堅板のような急坂で山陽道の難所であった。今は岩徳線と並行して新道(旧国道二号線)が切割って通っているが、昔は川にせり出した岩の上を人馬が難儀をして越していた。掛ノ坂の手前のカーブする地点から北東に長野村米蔵跡(旧米川村役場)経由鳴川道へ接続する道があるが、この角地山側に往還松が一本あった。
往古はこの付近から下差川の十字路交差点一体は湖水であったようである。(詳細は上記略図メモ参照。)
掛ノ坂の直ぐ傍らに、「孝行塚」と呼ばれる義奴碑がある。この碑は差川村百姓三右衛門の下男六松が、生涯妻帯もせず独身を通して主家の没落を救い、忠節を遂げた義奴の顕彰碑で、文政元年(1818)藩命により建立された。基壇と玉垣は大正四年五月六日百回忌の際地元有志により作られた。
下差川の古老T氏やY氏の話では、孝行塚は昔の川沿いの低い位置にあった旧道からみれば、少し山の手に入った位置にあったそうである。
掛ノ坂の切割り | 孝行塚 |
掛ノ坂、孝行塚付近から東方向遠望 |
掛ノ坂の先、桜並木が続く付近の島田川対岸正面に中曽根徳王山初ルつふ狼煙場(熊毛宰判)を真近かにみる事が出来る。ここ正面からは「初ルつふ」の形状は判別しにくいが、JR米川駅前から下差川丸子坂付近にかけて「初ルつふ」の山容を確認できる。徳王山北側山頂の狼煙場から北西に下った浴が中曽根の徳王と呼ばれる地である。
兼付の川土手旧道筋への分岐点 |
掛ノ坂から約1.5Km進むと下中曽根へ架かる蛍橋があるが、この60m先、上差川兼付の県道左側に広場がある。ここから街道は河川改修で堤防化された島田川沿いの土手道を進む。この土手道は、河川改修によって高上げされているが、当時の旧山陽道筋のまま改修されている。この三叉路付近一帯は昔は竹薮でレベルはかなり低かったそうである。旧道進入口広場には桜の木が二本ある。
旧道土手道に入って少し先に差川兼付の一里塚「安芸境小瀬より是迄六里。赤間関より是迄参拾里。」があった。「調査報告書」にある水路は今も渓流となって島田川に注いでいるので、当時の水筋が変わっていなければ、塚山の位置は容易に推定できる。石橋が架かっていたといわれる渓流は、西日本フード株式会社敷地の東側を心地よい音をたてながら流れている。この付近真西に古城三尾城があった城山(じょうやま)と源氏に追われ西国に逃げる平家が、一時立てこもった平家ケ峰が見える。(「調査報告書」には地図上プロットに古城跡三ツ尾城とあるのみで、文中説明はない。)
土手道はJR米川駅を過ぎた辺りで県道と合流するが、この先、井堀橋を過ぎたところのカーブ付近川側に往還松があった。
JR米川駅のプラットホーム左側の鉄道北側には、コンクリートブロック製の祠に淡海和尚請願の西国三十三番観音のうち、三十一番石観音がある。(後述、淡海道参照。)
(想)差川兼付の一里塚跡と城山(三尾城跡) | 米川駅側新道合流点から東方面をみる |
JR米川駅構内左の鉄道北側に淡海和尚請願三十一番石観音 |
「盛光越」の岩徳線跨線橋(旧道)と竹薮(米蔵) |
上差川兼付の広場に戻って、川土手旧道筋分岐点から北に向けて岩徳線を跨線橋で渡る小道があるが、これが兼付から杵ケ迫・城を経由して「鳴川道」と合流する古道「盛光越」である。「盛光越」の道沿いには南から順に、差川村御米蔵跡、慈眼寺、三尾城(三ツ尾城)城番で天文二十年陶晴賢謀反のとき陶軍と戦い、杵ケ迫で自刃した蔵田治部(倉田治部)(注)の末裔で、大野毛利氏給領地差川村差川の庄屋田中家、金盛山南山麓に蔵田治部嫡男田中教意夫妻墓、金盛山に田中教意創建の金盛神社がある。この古道は金盛山北山麓沿いに杵ケ迫へ通じていたが現在は通行困難である。
(注):「差川風土記改訂版」では倉田治部は弘治元年鞍懸合戦の翌々年三月、元就公に敵対自刃。
差川村御米蔵跡は「盛光越」の岩徳線跨線橋(旧道と新道がある)を渡って、慈眼寺の真下、蔵の用人であった蔵本家墓所横の竹薮の低地付近にあった。今でも竹薮西側に古い石垣が残っている。
慈眼寺(じげんじ)は、大同年間(806〜810)、弘法大師が唐から帰朝の途中、この地に立ち寄り創建された。午王ノ内の通化寺と並び古く由緒ある寺であるが、のちに黄檗宗に改宗し檀家は少なく、当時の面影はない。境内右に淡海和尚請願の西国三十三番観音(後述、淡海道参照)のうち、「二十七番石観音」がある。前面に「天保六未春」と刻まれている。
当寺の鰐口は応仁元年(1467)の作で岩国市(旧周東町)指定文化財である。現在は周東図書館に保管展示されている。保管場所が不明で半ば諦めていたのだが、サーバー転送の前日偶然出合った。
上差川の慈眼寺と淡海和尚請願二十七番石観音 | 慈眼寺の鰐口(周東図書館所蔵) |
金盛神社は、もとは京都、祗園神社の祭神が祀られ祗園宮と称していたが、三尾山(城山)城主蔵田治部の末裔田中治郎左衛門尉多々良教意が出雲大社を合祀して差川の鎮守とした。嘉永六年(1853)神殿再建。のちに金盛神社と改称した。地方の鎮守としては非常に立派で格式があり、石段は三段に分かれていて長い。以前は上差川地区の人が交代で毎晩常夜燈を灯していたが、今は一日ごとに各家を御灯明回しをしているそうである。
(蔵田治部と田中教意、金盛神社関連事項については通化寺の「通化寺窯」参照。)
金盛神社の約80m先、左に向けて山道があるが、これが金盛山を北へ迂回し、杵ケ迫・城を経て「鳴川道」へ接続する「盛光越」である。この道は杵ケ迫側の桟道の崩落多く通行不能である。掛ノ坂の西、杉の原からも山裾伝いにこの道に通じている。これは、この付近が湖水、あるいは低湿地であったことを物語る。
金盛神社の常夜燈と最初の石段 | 金盛神社 | 金盛神社80m先の「盛光越」分岐 |
街道に戻って、JR米川駅前の島田川沿い土手道旧道から県道へ合流して西下し、長野川に架かるかっての土橋「隅名橋」を渡ったところから下差川で、右側に天王社(羽賀社)がある。永正十年(1518)大内義興によって造営されたと社伝にある。椙杜氏のちに高森泉山の椙杜八幡宮の末社とする。また、この付近から左前方に周防国道前の古城三尾城址があった城山(じょうやま)と平家ケ峰(城山の出丸)が真近かに見えてくる。
下差川石河原の天王社 | 城山(三尾城址)と平家ケ峰 | 下差川の十字路、直進 |
この先下差川の十字路があるが、街道はここから宗泉寺坂を熊毛郡境中山峠を越え、呼坂宿へ向けて真直ぐ西下する。県道144号線は島田川沿いに南に向けて周南市(旧熊毛町)兼清、光市小周防(こぞう)、浅江に至る。小周防には野口駅家を過ぎて周防の駅家が置かれていたと推定(呼坂説もある)されている。藩政期には熊毛宰判勘場が置かれた。
ここで、コース外であるが少し北方向の
下差川の十字路を右折し、県道142号線を長野川に沿って約1.1km(徒歩早足約20分強)北上したところが旧下差川杵ケ迫である。岩徳線が開通してから、下差川の鉄道線路で分断された北側地区は新たに大字中差川になった。
建長年間(1250頃)、二王清綱が久原村の山陽道筋(周東千束)に移り住む前に杵ケ迫で鍛刀していた鍛冶屋敷跡は、この地区最山手の細長い現状田で、所有者のY氏は屋敷町の田と呼称している。田の西側石垣の傍らには、清綱が鍛刀を冷やした水池といわれる二王池跡があるが、現在は石垣沿いの細い溝になっている。田の石垣を補修した際、金くそが多数出てきたそうだ。この横の畦道状の道が上差川杉の原、あるいは兼付から、金盛神社のある金盛山の裏を経由して鳴川に通じる「盛光越」である。長野川の杵ケ迫に架かる橋の約100m上流には、清綱が当地で鍛刀していたことを裏付ける地下の伝承にある二郎淵があるが、河川改修されているので当時の面影はない。当初、何故、二王清綱がこんな所で鍛刀していたのか疑問に思っていたが、「差川風土記改訂版」に出合ってからこの疑問は払拭した。詳しくは略図の引用メモと重複するので省略する。
二郎淵、後方は城地区の新幹線 | 鍛冶屋敷跡と石垣下の二王池跡 |
杵ケ迫の鍛冶屋敷跡から古道「盛光越」を東に向けて上差川の兼付方向に約100m進むと、金盛山の北西山麓桟道に、大内氏配下の三尾城陥落時、この地に逃れ自刃した三尾城在番蔵田治部の供養墓がある。墓の形状から、後に新たに建て替えられたと思われるが、墓の側面には「倉田氏」の名がみられ、周りを五輪塔のかけらや、自然石墓のかけらで囲まれている。正面右端には「蔵田」と刻まれた墓石のかけらもみられる。
蔵田治部の詳細は「通化寺窯」の項、あるいは「上差川兼付」の項で述べたので省略するが、反逆陶軍と戦い敗戦逃避の彼は南の広末(三丘)、石光方向に逃避せず北東方向の杵ケ迫で自刃している。
「差川風土記改訂版」によると、 三尾城攻めの主戦場は城山の西隣の平家ケ峰で、ここに千人塚があるという。また、平安末期源氏に追われ、一時、平家ケ峰に立てこもった平家が、西側の今市側から攻めた源氏と戦い敗れた古戦場が平家ケ峰の西方にあるらしい。
蔵田治部は下差川に居住していたものと思われ、匿われた嫡子の左留坊(のち、田中教意)は、金盛山南山麓の上差川兼付に居を構え庄屋となる。
この地で無念の最後を遂げた蔵田治部の墓は、杵ケ迫の人々によって手厚く守られ、毎年八月五日に高森浄泉寺の住職を招き供養が続けられている。墓石群は十四、五年前の台風豪雨で全て沢へ崩落したが、地区民総出で現状修復したそうである。墓の後部の大きな窪地は、そのとき大きな樹木が根こそぎ沢へ倒壊崩落した痕だそうだ。過去何回かは、こうしたことが繰り返されてきたのかもしれない。供養墓から上差川兼付方面への古道「盛光越」は桟道の崩落はなはだしく通行不能である。
また、この地から差川方面に出るには、明治三十五年(1903)の新道開通までは長野川の左岸川偏道を通るしかなかった。
杵ケ迫の盛光越(蔵田氏墓手前付近) | 蔵田治部供養墓、右端に蔵田姓の欠片 | 中央墓石の側面に倉田氏とある |
杵ケ迫の直ぐ北隣りに山陽新幹線周東トンネル出口があるが、この付近から北が旧長野村の城(じょう)とよばれる地である。トンネル出口山手のT宅の北隣りには地区の人々が明神様、あるいはお宮様と呼ぶ古城址があるが、名刀好みの城宇源太重盛という武士の居城であったという。(二王清綱と城地区との関係詳細は略図メモ参照。)
新幹線の東北側には、城徳庵と呼ばれる小山があり、ここには御大師様、観音様、文殊様、と呼ばれる三つの祠があり、毎年八月二十四日には高森浄泉寺の住職により供養が行われているそうである。
城地区には今でも「盛光越」の南から北へ向けて前述T氏所有の隠居屋敷の田(現状竹薮)、K氏宅の当時の米蔵跡、また屋敷町の田と呼ぶ地を確認できる。(「差川風土記改訂版」記載の士屋敷の名がついた田畑は確認できなかった。)
城徳庵、右は新幹線周東トンネル | T宅横の城跡(お宮様) |
鳴川の国道二号線沿いの「いろり山賊老松店(周東店)」には城徳庵にあった樹齢三百年を越す老松を大黒柱に使用している。店内に入るとその姿に圧倒される。「周東町文化協会報」(平成10年9月)や地元の人の話によると、松食い虫の被害が出始めたこの老松は、昭和四十六年ごろ早期に伐採され、大雨の日に長野川を下流に向けて大型トレーラーに積み込み可能な場所までワイヤーで引っ張り流したそうである。樹齢三百年というと、西暦一六七〇年ごろ、延宝年間に植えられたものと思われ、二王清綱の時代とは四百年も後の事になる。
いろり山賊老松店 | 店内中央の老松 |
奥長野の淡海和尚「クヅシ坂」石畳道(コース外) |
(廃)宗泉寺馬場先の観音石仏四体 |
再び街道に戻って、下差川十字路を西に宗泉寺坂を進むと、右側路傍(廃)宗泉寺参道上り口(馬場先)に四体の観音石仏がある。この石観音は天保二年(1831)僧淡海が地元民を激励し、島田川の西岸川偏道にかえて、人馬車通行可能な山之内新道(淡海道)を開拓した際、淡海和尚の「速やかにこの業をなさしめ給へ。成功の暁にはその道辺に三十三体の観世音像を建立し奉る。」という切なる誓願により、完成後地元の人々によって建てられた西国三十三番観音のうちの四体である。
熊毛宰判に属する高森・米川・長野地区の人々にとって勘場のあった小周防や島田・浅江方面との交通は重要であったが、島田川の急流西岸川偏道は水増の度に危険で、氾濫することも多く、難所であった。文政のころ三丘村弘末(広末)の貞昌寺客僧淡海和尚は自ら率先して鍬を取り、村民を励まし城山(じょうやま)の島田川右岸の絶壁を切り崩し、血みどろの努力の末、約二キロに及ぶ新道の開拓に成功した。これにより今市経由で小周防に出るしかなかった差川・長野地区や、玖珂郡北部、川越地区方面からの諸物資は駄馬によって三丘村に運び、同村筏場から川船または筏に積んで島田・浅江へ輸送されるようになった。これにより奥地の経済に活気をもたらし、交通のうえでも大きな便益をうけるようになった。
淡海道標は、村人たちが淡海和尚の偉業をたたえ新道開拓の翌年淡海道の傍らに「彰徳碑」を建立したもので、二重の台石の上に約1mの花崗岩で、正面に「新道開拓淡海和尚碑」、横に「天保二季卯三月落成」と刻まれている。「調査報告書」に「淡海道標」とあるが、「道標」というよりは、「淡海和尚碑」または「彰徳碑」というべきだろう。地元の人々は大分県本耶馬渓青の洞門を切り開いた禅海和尚の偉業に匹敵すると称える。
別に、西長野には元外務大臣安倍晋太郎揮毫による「淡海和尚遺徳之碑」があるが、ここは完全にコース外。
「淡海道標」(淡海和尚碑)の背後にも淡海和尚請願の石観音が五体ある(うち、一体は台石のみ現存)。この淡海和尚誓願の観音石仏は、上差川慈眼寺とJR米川駅裏井手沿いの各一体を含み、淡海道に沿って終端の貞昌寺まで続く。この先、島田川絶壁を削った桟道区間に六体、筏場橋の右側路傍に一体(別に番外一体あり)と左方向貞昌寺手前付近の路傍に一体、貞昌寺旧参道付近には七体、山門右側に一体、合計二十七体の石観音(うち、十九番は二基ある)が現存確認でき、その遺徳が如何に大きかったかが偲ばれる。そのほとんどが天保六年の建立であるが、三十三体石観音(梵字石碑・台石のみを含む)のうち七体(山陽自動車道高架橋下付近の二体を含む)は不明である。上差川の慈眼寺と米川駅裏に各一体の石観音があるのは、上差川の I さんの話では下差川の長野川から慈眼寺東付近の田へ向けて岩徳線北側山沿いに淡海和尚が井手を作ったそうである。あるいは、ここは差川の有力者である田中氏の居住地区であったためかもしれない。
淡海道標と観音石仏五体(一体は台石) | 淡海道標を過ぎた付近の沢崩れ箇所 |
淡海和尚は獺越(おそごえ)村白口(周東町)の生まれで、旧藩時代に山口・萩への裏街道として利用された奥長野の「クヅシ坂」の石畳道(文政九年・1826改修・コース外)など、各所にこのような道の開拓改修の業績を残し、晩年は伊予国に赴いて没したといわれる(一説に帰国の途中死亡)。クヅシ坂を上りきった先には、裏街道の名残りである「御上使峠」と呼ばれる峠がある。この萩へ向けてのルートは三田尻経由よりも短距離であった。
左側は島田川への絶壁 |
天保二年三月開通の淡海道は、明治三十四年(1902)、島田川左岸に差川〜小松原間県道が開通してからは、荒廃して世人の記憶から忘れられようとしている。
淡海道標から約100m先の沢渡り箇所は、一部崩落し、これを飛び越せば通行可能とおもったが、左下は島田川への絶壁となっているため、踏破は断念した。
「淡海道標」(淡海和尚碑)は、丸子坂入り口から往復10分弱なので、ぜひ立寄ってみたい。(後述、丸子坂略図参照。)
欲をいえば、「淡海道標」から最初の沢渡り箇所まで足をのばせば、2分程度なので、桟道の雰囲気を味わうことができる。淡海道は「指川大橋」北詰めからも進入可能である。
淡海道を踏破(2009.10.22) |
最初に淡海道を探査した平成20年2月時点では、最初の沢渡り箇所が通行不可能であったが、平成21年9月14日、「通化寺窯」の田村氏と訪れた際には、崩落箇所は完全ではないが補修されていて通行可能となっていた。後日、淡海和尚請願の観音石仏調査を兼ねて淡海道踏破を実施した。
広末の筏場橋付近からの進入は判りにくいので、差川方面丸子坂手前から進入することにした。淡海道標を過ぎてから、島田川沿いの城山絶壁を削った桟道区間のうち、「差川湖水説」にある堰のあった白滝付近は、今なお巨岩が川面に露出し急流となって音をたてているのが眼下に確認できる。桟道部分にも巨岩(弁慶岩)が道をふさぐようにある。桟道区間を過ぎて、山陽自動車道高架橋下の道は一部消滅し舗装されているが、側道を約40m進み、ガードレールの切れ目から階段を下り、島田川右岸沿いに作られた井手の少し右側道筋を進めば筏場橋の手前に到達する。(途中から低い笹が密集して足元が見えないので、井手の島田川側に沿って進んだ方がいい。)
(注):広末側から淡海道への進入は道筋が分りにくい。毛利元就公歯廟正面の道が淡海道と思われるが、この先は消滅し進入できない。毛利元就公歯廟横の道路を西進し、山陽自動車道西側の側道を迂回経由して自動車道高架橋下から桟道に進入する。
白滝付近の巨岩(弁慶岩)と桟道 |
白滝付近の20番 | 同 16番 |
下差川の山本 武氏が昭和62年調査した文献では、桟道区間に八体の石観音があり、このうち、山陽自動車道が高架横断する手前の沢付近に九番、十番の二体があったらしいが、今回確認できなかった。一応、二体は自動車道工事の際か、崖の崩落によって消失したものとして、桟道区間は六体現存として整理することにした。桟道区間の各石像台石には寺番、寺名が明瞭に確認でき、筏場の寄進者が多い。石像傍らには竹製の小さな寺番表示札が建てられている。
城山の島田川沿い絶壁を削った桟道には沢渡り(常時水はない)が三箇所あるが、「沢止め」がないため、豪雨のあとの沢渡りには注意を要する。
桟道区間の15番 | 同 14、12番(右) | 桟道区間終端の11番(頭部が欠落) |
自動車道高架下の側道を40m進み左折 | 井手沿いの笹薮を進めば筏場橋が見えてくる |
区 間 | 個数 | 寺番 ・ 記事 (数字は寺番) |
---|---|---|
上差川 | 2 | 慈眼寺境内27. 米川駅裏31 |
(廃)宗泉寺馬場先 | 4 | 32.29.33.30 |
淡海和尚碑(淡海道標) | 5 | 23.24.25.26.19 (24は梵字、25は台石のみ) |
桟道区間(白滝付近) | 6 | 16.20 ・ 14.12.15 ・ (9).(10) .11 (9.10は今回確認できず。) |
筏場橋左右路傍 | 2 | 右側4(傍らに番外1基あり) ・左側貞昌寺手前付近6 |
貞昌寺旧参道付近 | 7 | 旧参道左19.3 旧参道右8.2.5.18 (19.2.5は梵字) 新参道22 |
貞昌寺山門前 | 1 | 17 合計27基(このうち19番は二基ある) |
筏場橋右側路傍の4番(一体は番外) | 貞昌寺手前路傍の6番 | 貞昌寺旧参道右側の18番(風化が顕著) |
この他にも、秀吉が「島津氏征伐」のときに「椎木峠越」を下った際(推定)、休憩し喉を潤したといわれる兼清の「桜井(桜井戸)」跡があったが、これは最近になって畑の持ち主が、危険と称して埋めてしまい、おまけに縁石まで撤去してしまっているのが残念だ。日頃の巡回指導・啓蒙業務は地味だが重要である。どうなっているのだろう。史跡標識はあったのだろうか。 秀吉が「椎木峠越」経由「相ノ見越」を下ったとされる唯一の証跡なのだ。 慶長五年(1600)関ケ原合戦後の十一月領地再配分によって、慶長八年(1603)毛利元政(元就の七男・右田毛利の祖)が三丘領主となって入部したが、城山(じょうやま・前述)はその時廃城となっていたため入れず、その麓の弘末に城を築いた。これが三丘城で後の貞昌寺である。曹洞宗久岳山貞昌寺は、寛永二年(1625)一斉領地替えにより三丘領主として右田村領主宍戸広匡が入封してきた際、この地に菩提寺として移された。 毛利元政墓所は筏場橋を渡って正面、やや左側の山麓にある。元政の子毛利元倶(もととも)が建立。右側は元倶の妻(宍戸元続の娘)の実母(元続の前妻)の墓で、織田信長の娘と伝えられる。元倶のとき一斉領地替えで右田毛利となる。 新たに毛利家一門筆頭として一万三千余石を領した三丘領主宍戸氏は、ここから南西の安田下に居館を構える。安田の宍戸氏居館跡・宍戸氏建立の徳修館等詳細については、次頁「中山峠〜勝間峠」今市付近で後述。 |
貞昌寺山門前の11番石仏 | 旧参道左側路傍の19・3番 | 同 右側の5・2番 |
広末の淡海道の近くには毛利元政が三丘領主として入部した年が、父元就の三十三回忌と生母乃美の方(元就の側室)の三回忌に当たったため、元政がこの地に両親の供養塔を建立した墓所がある。元政が常に肌身を離さなかった父元就の遺歯が納められているため、毛利元就公歯廟と呼ばれる。石面に「奉為日頼洞春大居士三十三造立之時慶長八年六月十四日」と刻まれている。左側が夫人の宝篋印塔である。 この元就夫婦廟の道を挟んだ真向かい西南方向には、宍戸家初代三丘領主から四代領主までの墓所があり、この直ぐ下には宍戸家家老末兼家歴代の墓がずらりと並んでいる。三丘領主五代以下の墓所は貞昌寺境内左上の丘にある。 |
毛利讃岐守元政・宍戸元続前妻の墓所 | 宍戸家墓所(初代〜四代) | 宍戸家墓所(五代以下・貞昌寺境内) |
宍戸家家老末兼家歴代の墓 毛利元就公歯廟 |
ここから街道に戻ります。
旧道は(廃)宗泉寺馬場先を左折 |
浄土宗(廃)宗泉寺は、天正十五年(1587)島津氏征伐では「椎木峠越」を下った豊臣秀吉が5年後の朝鮮の役(1592)では中山峠越え(新道越え)にあたり、休んだところと伝えられ、江戸時代には大名等の参勤交代の折の休息所になり、特に薩州島津候のお気に入りで住職の点茶をいたく賞でられたといわれる。天障院篤姫もここで休息されたかどうかは知らないが休息したことにしておこう。それの方がロマンがある。
天保五年(1834)、毛利二十五代斎元公の二女孝姫が下向した際の記録には「孝姫様、基之進様(三男)御下りニ付高森御泊、関戸呼坂御昼休、柱野金名寺、差川宗泉寺御小休ニ付御待受」とある。現代の旅人もこの辺りで小休止されては如何?
近辺きっての古刹で、寺格も高く、高貴の人々との係わりも多かった宗泉寺も幕末には廃寺となっていたようで、明治三年高森の浄念寺と合併し、両寺の一字をとって浄泉寺となった。杵ケ迫の蔵田治部墓や城徳庵の供養に高森浄泉寺住職の話がでてくる意味がようやく判った。
(廃)宗泉寺馬場先から真直ぐ中山峠へ向かっては、明暦三年(1657)往還道巾二間の令により作られた丸子坂新道で、のち明治八年拡幅改修された。丸子坂旧道は、ここから宗泉寺坂を左へ下って、160m先の丸子坂へ向かう。この区間は淡海道と重複している。
丸子坂を踏破する「百街道一歩」氏 |
余談になるが、「百街道一歩」氏に千束の二王屋敷前で出会ったのは平成19年12月29日の午後。その後、「道中記」サイトをみるのが楽しみになったが、「一歩」さんは、出会った翌日、この丸子坂で雪の降る中を大迷走し、時間の関係もあって踏破を断念している。早速、現地へ車を走らせ付近を徘徊したが市販地図に丸子の地名もなくよく判らない。メールで「一歩」氏に問い合わせると「歴史の道調査報告書 山陽道」を紹介された。これが旧道・街道歩きの泥沼にはまり込むきっかけとなった。
丸子坂の詳細については、丸子の竹薮所有者である古老T氏に現地案内をしていただき、丸子坂瀉血場を特定することになる。(詳細略図メモ参照)
いよいよ丸子坂踏破の段階になって、ここは「一歩」氏に踏破してもらうことにした。旧道にこだわる彼は、後ろ髪を引かれるおもいで赤間関を目指していることだろう。厚狭方面を西下中の氏に連絡をとると早速Uターンするという。平成20年3月2日のことであった。
丸子坂踏破の詳細は、「百街道一歩の道中記・祭探訪」⇒「山陽道」⇒「山陽道32厚東〜厚狭」参照。
【追記】 「一歩」氏と踏破した時、笹藪の西側は地元のY氏が伐採中であったが、現在は中断された感じで進捗が遅い。相変わらず笹藪が行く手を阻む。
丸子坂全線開通、通行可能に。
笹薮通行不可区間は、Y氏によって段階的に伐採され、平成24年(2012)3月末に全面開通、通行可能となった。倒木や雑木も除去されて広い道になっている。
(本項、2012.04.19追記) 詳細、「徒然草独歩の写日記」参照。
(注):通行不可時期の記事は、そのまま抹消せず掲載しています。
丸子坂の東側入り口に猪防護ネットが張られたが、左側と右側から張られたネットの中央付近に横に擦り抜け可能な隙間があり、通行可能である。防護ネットを痛めないよう通行する。万一通行不可能な場合、標柱の東側@のルート(推奨)で迂回通行可能である。(2013.02.05追加更新)
防護ネット中央付近に すり抜け通行可能な隙間がある。 |
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丸子坂の急坂は、「調査報告書」に、「坂の手前20mばかり、農家の裏口路傍に瀉血場があり、急坂に喘ぐ馬の粗暴を防ぐため、3リットルから6リットルの血を抜いた。」とあり、『周東町史』の「中山峠の今昔」には、「当時の丸子坂は一枚の板を立てたような急坂で、上り下りの旅人は大いに難儀をしていた。」とある。丸子(丸小)の竹薮所有者T氏の幼少の頃からの記憶を含めた説明で、農家跡とその裏の瀉血場を確認することができた。昔は一枚岩板が架かっていた細い渓流付近はかなり低かったが、道路改修に合わせ東側に橋が架けられ、水路も拡幅されてかなり高上げさているそうだ。
丸子坂入り口には、平成24年5月17日元岩国市教委周東支所長M氏の厚意により標識柱が設置された。
丸子坂手前の瀉血場(電柱の右) | 丸子坂入り口の標識(2012.05.17) | 丸子坂急坂 |
丸子坂竹薮の二又と石垣跡 |
T氏は丸子坂の竹薮まで案内してくださったが、竹薮の中間付近に二又があり、その中央にこんもりと小高い崩れた石垣跡が見える。この石垣跡のある場所は昭和の戦後一時期、芋畑にしていたが、石垣は昔からのもので、城山の三尾城に関係する屋敷跡だそうだ。地元の人は「屋敷跡」と呼んでいるらしい。街道はこの二又を直進するが、二又を左折すると井戸跡があり、現在は大きな穴状の水溜りになっているが今でも水が湧き出ている。ここから城山へ向けて山道があるが巨岩が二つ、道の両側にあって、まるで大手門のように見える。この先は、現在は荒れて途中から行き止まりになっているそうだが、ため池があり、住居跡の石垣や自然石の無縁墓が七基あるそうだ。昔は三尾城へ通じていたのかもしれない。城山への登山道は広末(弘末)の貞昌寺側か、清尾石光の三光寺・高水神社側夫婦岩縦断の二ルートがあるが、尾根伝いに相当の距離がある。ここからなら勾配は別にして距離は短い。これが当時の本道であったか?後に詳細が判明した三尾城番蔵田治部(倉田治部)は、この道を下り「丸小」の古道から杵ケ迫を金盛山へ向けて逃避しようとしたのではあるまいか。下差川居住の蔵田治部にとって、この山道は通用口であっただろう。下差川の倉田・山本・川口・櫛部姓は一族か配下の末裔といわれる。
ここは一度、「通化寺窯」の田村悟朗氏を案内してみようとおもう。「徒然草独歩」が感慨に耽るよりは、彼に耽ってもらったほうがロマンがある。
(2014.03.29) 丸子の老人Y氏談によると、
「丸子坂竹薮の「屋敷跡」石垣を左折した山道は、下差川から城山への唯一の登山道で、子供の頃山遊びで何回も使用したが現在は使われることがない。大手門風の石垣の両脇には屋敷が昭和初期まであった。300M先のため池手前の住居跡石垣には、明治末か大正頃まで民家が三、四件あったと聞いている。供養墓碑がある先には炭焼き小屋が二件あった。この山道はかって馬も通い、荒れているが登山可能である。「屋敷跡」石垣は蔵田氏が居住していたのではないかとうわさで聞いた記憶がある。中山峠郡境碑付近から平家が峰経由の登山ルートがあるが、中国電力高圧線保守ルートとして開拓されたもので比較的新しい。」
二又(石垣跡)を左折した城山への山道と、途中両側の大手門?様の巨岩 |
丸子坂旧道はこの二又を直進するが、竹薮を過ぎると目の前に笹(当地では女子竹という)が群生していて、行く手を阻む。ここから先は通行不可能だ。笹の群生している旧道の左側の山裾には水路(渓流)があり、玖珂郡と熊毛郡の郡境になっている。念のため左側の山裾に上がり、右下の水路と笹藪(旧道)を見下ろしながら約60m進むと右下に中山峠側の旧道が見えた。峠側は笹がきれいに伐採されている。この付近から旧道に降りると迂回通行可能だ。樹木を手で掴める箇所があれば斜面を下ることがができそうだ。この間約60m弱。水路の状況は大小の石ころがあるが、水量も少なく真砂土でぬかるむ感じではない。水路に倒木を何箇所か確認したが、雑木で大木はないようだ。問題は、潜るも跨ぐもできない中途半端な高さの倒木であるが、山裾か笹藪側へ身をかわせば何とかなりそうだ。山裾の上側を迂回するよりは水路を通った方が踏破したことになる。水路部分は実質50mぐらいしかない。後日、長靴と鉈を用意し完全装備で水路(渓流)を突破することにしたが、ここは前述のとおり「百街道一歩」氏に初踏破してもらうことにした。長靴のない方は山裾の迂回か新道を通行するしかないだろう。(地元の伐採作業の進捗により、笹薮区間は適宜短くなっている感じなので、渓流沿いに運動靴で強行突破し、上流側の渓流で靴を洗えば問題ないと思うが...。)
丸子坂笹薮通行不可区間は、平成24年(2012)3月末全線開通し通行可能となった。(前述関連)
上段の写真は開通前、下段の写真は、女子竹や雑木が伐採され通行可能となった区間。
山裾迂回か水路を旧道沿いに踏破 | 山裾上側を進めば眼下に旧道 | 水路を踏破(「一歩」氏撮影) |
伐採され、通行可能となった旧笹薮区間(2012.04.19撮影) |
丸子坂笹藪(水路)を突破して、中山峠側旧道をしばらく進むと旧道左側の畑の畦に野面角柱が見える。「調査報告書」に「根元から188センチ、畦畔上91センチ、一辺35センチばかりの半花崗岩質の角柱」とある。地元ではこの地を石仏の田(現状畑)、あるいは「境の石仏」という。「地下上申」に、「此のところ西は樋口村、南は小松原村、北は当村(差川村)三ケ村の境なり」とある。
中山峠側の丸子坂旧道 | 野面角柱 |
中山峠側からみた丸子坂旧道と新道合流点 開通した丸子坂を踏破中の横浜の「白髪閑人」氏(2012.04.21) |
新道合流点に標識新設 (2012.05.29) |
野面角柱から30m進むと新道と合流するが、この付近から「さいの神」へかけては丸子坂以上の急坂で、昭和の一時期、木炭自動車が途中でエンストしたり、単車がエンコして転倒する急坂悪路で、戦後も舗装整備されるまでガソリントラックが難儀する道であったが、現在はその面影は無い。 合流点にはM氏作成の標識杭を新設した。(2012.05.29追記)
新道合流点から200m西へ進むと左路傍、小高い丘に「さいの神」と呼ばれる「道祖神」がある。以前は周囲に老松群生し神々しかったが枯れて今は無く、朽ち果てた道松を一本確認するのみである。祠の傍に賽神社と刻まれた石柱があり、。「差川風土記 改訂版」に、『多くの塞の神にみられる「塞の神」とか「道祖神」、若しくは「猿田彦尊」とか刻んだ文字はみられない。道祖神は行商の神で旅人を守護し、又一方辺境を守護する神ともいわれ、村境に祀って敵の侵入を防いだ訳でもあった。この神はわずかな物を献じてもすぐご利益があると信じられて居たから、通る人は石ころ、柴の小枝、何でも献じて行った。昭和五十五年七月光市の篤志家、大西氏によって祠が建立された。』とある。
神様にとって、石ころよりは賽銭のほうがいいだろう。祠の建立時に塞が賽となったか?
ここは、街道筋であるが雑木が生い茂り確認しにくい。真向かいにかって猪を飼っていた小屋がある。
中山峠御駕籠建場跡 |
左から中山峠・御駕籠建場跡・狼煙場跡 |
御駕籠建場は中山峠の手前の右側にあった。路傍に米川公民館作成の案内板がある。
昭和の一時期までは平坦な草地であったという。
中山峠北ノ方狼煙場(熊毛宰判)は中山峠の北方向約300mの郡境ピークにあった。高さ170mで、岩徳線中山トンネルルートの少し上付近になる。直ぐ東に158.2mのピーク(三角点)があるが、徳王山は見えるそうだ。御駕籠建場跡の少し手前から北北西方向を見ると高圧線鉄塔の左上方向にピークを確認できる。北東には向か峰(232m)、街道の南には城山(318.8)がある。ここから街道真上を西に向けて大河内村之内 弓矢か迫山狼煙場(熊毛宰判)をはるか遠くに見通すが、あくまで「益田家文書」による陸路狼煙場である。
井上 佑氏の調査文献「防長の山陽道陸地狼煙場」(山口県地方史研究第73号別冊)に、『この区間は直線距離にして一里二十七町もあり山陽道の陸上狼煙場間で二番目(注:一番目では?)に長く遠い。』とあり、地図上直線距離では約7Kmもある。
また、調査文献の冒頭には『山陽道の最初の線としての狼煙場は天正十四・十五年島津征伐の時だと推定するが、(省略)....。毛利藩の狼煙場は山陽道・瀬戸内海上・萩往還の三線共、慶長十年頃(1605)設置されたのだろう。瀬戸内海上は慶長十二年三月に朝鮮通信使の来朝、萩往還は初代藩主秀就の初入国の十六年十二月、山陽道は翌十七年十一月初御国廻りでこれらの狼煙場が最初に使用されたと推定。』とあり、さらに「慶長十年頃(1605)設置の山陽道狼煙場」として、『「地下上申」(注:18世紀、享保・宝暦年間の報告)に、今市正覚寺上山の「寺山」というところに狼煙場の記載があるが、「地下上申」に狼煙場の記載はここだけであり、上申項目は無かったのであろう。元文三年(1738)には狼煙がすでに忘れられた存在であったことがわかる。−−−。近世前期には、幕府上使・長崎奉行の上下や諸大名の参勤・帰国はほとんど海路であり、正徳・享保(1711〜1736)からこれらのうち陸路に転ずるものが増加してくる。−−−。「益田家文書」「注進案」に記載の狼煙場は元文三年(1738)以後の物であり、これをあえて追求すれば、宝暦六年に海路の御参勤は最後となっており、同一〇年(1760)頃の設置と考える。』とあり、さらに調査文献の巻末には『宝暦三年(1753)藩主重就の諮問に「三老上書」が提出され、これには冗役を廃し、行政の簡素化、規模の縮小が説かれていた。この後に行政改革があり、瀬戸内海上狼煙場では七箇所(地名は省略)。萩往還線では一村・一狼煙場の原則で三箇所の山(同省略)が廃止されている。』とある。
慶長十年頃設置の狼煙場と「益田家文書」記載の狼煙場との相関関係の記載が不明で、「中山峠北ノ方」と「弓矢か迫山」の中間点として今市正覚寺の裏山に当たる「寺山」(後述)が一体的に使われていたのかどうかは、文献からは明確に解読できなかった。一応、相関関係無しと解釈した。浅学非才の者には、現代の歴史文献にも苦労する。
(参照)付2:「益田家文書」(他見不可)記載の山陽道陸路狼煙場一覧
御駕籠建場跡から約100m進むと、中山峠(110m)頂上右側路傍に郡境塚がある。東側に「従是東玖珂郡」、西側に「従是西熊毛郡」と陰刻されている。この塚は、玖珂郡、熊毛郡の境界であると共に、差川村と樋口村との境目塚でもある。現在の碑は、明治十九年、日本の地方制度が確立した当時に建てられたものだそうだ。
この中山峠郡境塚については、「調査報告書」には「地下上申」に郡境塚の記載。「差川風土記改訂版」には『元文二年(1737)「差川村境目書」や熊毛宰判「玖珂郡差川村風土記」に郡境塚の記載がある。郡塚は正徳二年幕命により統一的に設定した一里塚と異なり、郡境により塚の大きさや、碑文、建立の時がそれぞれ違っている。「従是」があれば、丁寧な表現であり、「郡」以外にも「国」の表現もある』とある。領地の境界である領境塚には「領」の表現もあるようだ。
そういえばこの先の郡塚は「東 周防之国熊毛郡」・「西 周防之国都濃郡」となっていて、大相撲の「呼出し」の呼び上げに似ている。過去に「郡」の四股名がついた力士がいたのかどうか定かでないが、熊毛郡の光市小周防の隣、束荷(つかり)には「力士隊」を率いた「伊藤公資料館・旧伊藤博文邸・生家(復元)」がある。西午王ノ内の通化寺から中山湖経由、車で15分程度だ。差川十字路からだとさらに近い。明治維新・文明開化により東京府の「裸体禁止令」等、一時途絶えた大相撲は、明治天皇の意を受けた伊藤博文らの尽力により再興している。
吉田清水山にある「高杉晋作顕彰碑」冒頭の「動けば雷電の如く−−−。」ではじまる伊藤公の撰文は、電光石火・稲妻のこととおもっていたが、かっての大横綱のことだったのだ。
当初の一人旅の予定は此処の土俵下で「従是千秋楽」であったが、他愛の無いことを考えていて、郡境塚の親切、丁寧な呼び上げに、つい足を踏み入れることとなった。
〜「従是西熊毛郡」〜 |