周防国の街道・古道一人旅
徒然草独歩の
写日記

(ホーム

(日々是見聞録)
周防国西部 〜 赤間関ルート図

付1:旧山陽道防長路一里塚一覧 ・ 付2:「益田家文書」記載、防長の山陽道陸路狼煙場一覧
  
付3:吉田松陰全国遊歴略図 ・ 付4:長州藩(萩藩)領内地図(各宰判・支藩別)(巻末に掲載) 
            
注: ・このページのルート図は、区間毎にドラッグ選定し、A4横85%印刷が推奨です。
    
   各宰判、支藩属村領域は天保12年風土注進案によるが、識別彩色区界は現市町村区界線による。
   ・各属村名は略図内に該当するもののみ記載。(一部、
凡例表示以外の村界識別彩色があります。)
史跡の詳細は、「歴史の道調査報告書 山陽道」記載に基づき緻密に踏査している
「百街道一歩の道中記・祭探訪」を参照して下さい。
(サイト容量の関係から写真は適宜省略します。)

しおりが峠付近は、往古入海していた。生野屋は駅家が置かれていたところ。
浄土宗法静寺は諸大名の宿舎としても使用された。

花岡八幡宮と真言宗閼伽井坊多宝塔は必見。閼伽井坊(あかいぼう)の「閼伽」とは仏前に供える清浄な水をいい、その閼伽を汲む井戸。
 閼伽井坊に所属の多宝塔は室町時代創建とされ、国の重要文化財。花岡八幡宮石段を登ったところにある。

花岡八幡宮前から西300mの古所(こそ)には、天正3年3月20日島津四兄弟末弟家久、伊勢参りの途中ここに二日滞留、
 (「家久君上京日記」)。また、「行定記」に「豊臣秀吉公御止宿御旅館」とある。中世末武川畔付近にあって次第に衰退か。
吉田松陰嘉永四年(1851)の江戸遊学のとき、三月七日三田尻発、午後花岡着。翌八日高森に昼頃到着。(「東遊日記」) 詳細「高森」の項参照。
 ・嘉永七年(1854)下田踏海に失敗、萩護送となった際は十月二十一日松陰と金子を乗せた駕籠が高森を発し花岡に到着。翌二十二日宮市へ向う。
   「護送日記」は、両名を江戸から萩まで駕籠で送った武弘太兵衛が記載したもので、武弘家は脇本陣を勤めていた。
  旧武弘本陣は取り壊され近傍に新宅移転し、敷地の一部は現在花岡医院になっている。

 ・安政六年(1859)幕命による東送
では、五月二十七日福川を出発、花岡を通過し高森泊。詳細「高森」の項」参照。
花岡八幡宮と閼伽井坊多宝塔 都濃郡宰判勘場(花岡勘場)跡   旧花岡脇本陣(武弘家)・現、花岡医院を含む一角にあった。
西側から撮影の旧武弘家、左側小棟は駕籠部屋と呼ばれた。(武弘家提供)


久米村之内尾無山狼煙場(都濃郡)は、尾崎山の間違い。
 ここは徳山支藩が一時期改易となった
万役山(マンニャク山)事件の現場。(詳細略図下部メモ参照)

念仏坂の西側は細い階段道。
徳山本町筋7町は、東川を渡って街道筋東から順に橋本町・糀町・幸町・佐渡町・油屋町野上町江田町の7町。
 
佐渡町御濱蔵があり、蔵の西隣が現JR徳山駅で駅舎付近は白砂青松の海岸であった。江田町熊野神社を含む一角
・桜馬場から北側が武家屋敷町。徳山陣屋毛利氏居館のあった文化会館付近から動物園一帯にかけて。
・徳山駅の東西はアーケード商店街。戦災壊滅し、大規模区画整理のため往時を偲ぶことは出来ないが、
 吉田松陰
「東遊日記」に、「徳山は市井(しせい)厳粛にして雑踏の態なし。居貨を観るに皆日用の要需か然らずんば武器畫軸のみ、
 餌餅酒肉なし。其の気風ここに於いて見るべし。」 
整然として武士の気風が堅実なことが推察される。
 
遠石・徳山藩船倉について其の(徳山)比隣戸石・櫛浜の諸地は皆煩劇の地なり、其の移す所と為らざらんか。
 唯だ地に阨塞(やくさい)の暴寇を限るものなきを恨みとなす
(ごちゃごちゃしたのが徳山へ伝わらなければよいが。
 外的を備げるようなところがないのが残念だ)。戸石に船倉あり、地を相すること甚だ好し。」
とある。このとき松陰二二歳。

・吉田松陰嘉永四年(1851)江戸遊学:三月五日熊旛(ゆうはん)(藩主の旗・行列)に先行し駄を護る者(藩主の荷役人)と
 午前五時萩を出発。昼頃山口到着。亀山(大内氏古跡)を巡り、鴻嶺(高嶺)に登り山口の地勢を視察、熊旛午後四時到着。
 翌六日午前六時、ここから同行の中谷松三郎(正亮)と先発、慢行しわざと道を間違え小郡へ向う。兵学師範の立場から山陽道の
 要衝である小郡を視察しておきたかったと思われる。その後、大道を経て佐野の嶺を越え三田尻の宿到着。
 行列の到着の間旧知の高井、飯田ら海軍関係者と面談。
 翌七日六時駄を護る者と旗に先じて出発。三田尻道(中ノ関道)を国衙で山陽道に合流、富海、戸田、夜市、福川、富田、徳山の諸邑を経、
 午後花岡に到着。 徳山では戸石(遠石)の船倉、櫛ヶ浜を視察し久米市経由花岡着。三月八日も藩主行列に先発し昼頃高森到着。
                                         (「東遊日記」・「吉田松陰全集第九巻」)
熊野神社・江田藪山狼煙場跡(神社裏の緑地公園)・台場跡(神社表側)は浅海医院手前の堀川旅館交差点を左折し、
 新幹線高架下のJR江田ケ藪第1踏切を渡る。徒歩2分

念仏坂入口の一畑薬師堂道標
説明板はブロック塀の左
遠石八幡宮を過ぎて影向石 舊藩舟方跡
(新幹線脇)
久米村之内 尾無山狼煙場跡(八正寺墓地)
ここは、万役山事件の現場。
熊野神社・舊藩台場跡
狼煙場は神社裏の公園
徳山城下本町七町筋(銀座商店街) さすり石(交差点緑地帯



・富田古市の勝栄寺開基は越前入道道栄。道栄は陶氏二代弘政。弘政は正平十年(1355)前後、陶村から富田に移ったと推定されている。
 寺廻りに大土手と外側に堀をめぐらす。(勝栄寺は必見。高杉クリニック南下)
 これより先、東大寺は兵庫関を開放する代償に富田庄の地頭職をも付与され、保司、あるいは代官を任命し、毎年の年貢米を収納し
 富田津から奈良へ輸送していた。山崎八幡宮から西が新町。
 毛利元就は弘治三年(1557)四月防長両国を平定するが、富田地区を中心に拡がった大内氏残党大一揆掃討のため郡山城を十一月十八日出発、
 十二月二十三日まで富田に滞在。勝栄寺在陣中の弘治三年十一月二十五日「三子教誡状」(三矢の教え)を書く。記念碑は門前にある。

山崎八幡宮馬場の道標: 「・右 上かたみち ・左 下のせきみち」。山崎八幡宮から西が富田新町。
吉田松陰「東遊日記」に、「福川に若山あり、陶晴賢の拠し所と言ふ。山址連続す。蓋し大兵を擁するに非ずんば以って守りを為し難し。」
                              (「東遊日記」・「吉田松陰全集第九巻」)
勝栄寺土塁・境内に阿弥陀板石碑と
太閤松。
三子教誡状記念碑は門前。
四熊家(古風な鹿野街道北上が推奨)
(急ぎの方はコース外)
明石地区往還松切り株二本(石垣部分)
福川本陣門 温田峠・温田観音 温田峠入口(右坂道)
347号線(旧国道)に合流、少し東へ戻る

 


戸田の山田氏は毛利重臣粟屋氏庶流堅田氏に仕えた家柄。本屋は室町時代の武家屋敷と民家風の素朴な構えを持った屋敷で
  その主な家屋(本屋)は2KM北方の湯野温泉に移築展示。 堅田(かただ)氏は湯野・戸田を知行。
宮島さま 船山神社・碇石
(船山→舮田→戸田)
戸田市入口から昇仙峰・椿峠・大平山遠望
(左、戸田村之内正仙坊山狼煙場)
矢地一里塚付近から東方向、若山遠望
(陶氏居城・弥地村之内若山狼煙場)
椿峠郡境碑 飢餓者供養塔
(コース外)
山田家本屋跡(玄関・土塀)
本屋は湯野温泉へ移築展示。
←  柳橋・辻地蔵


大江時親(毛利時親)の墳墓:富海石原地区・案内標柱を左に入ってから、斜め右山手方向に上がれば100m先のみかん畑の中にある。
  約200年前、森重右衛門が畑から掘り出したもので、明治40年(1907)10月に現在の
小祠・「傳説毛利時親卿墓」標柱
 公爵毛利家によって建てられた。時親は元就より11代前、毛利領主41代で地頭職として安芸吉田荘へ下向した安芸吉田祖と
 いわれ、出家して名を了禅と改め家督を孫に譲り暦応4年(1341)吉田を出て西へ向ったという。
 五輪塔の表に「大江時親」・裏に「了禅」。付近には居住を裏付ける土居内・地頭田と呼ばれる地があるという。
 一般に、萩藩士は藩主毛利家を「江家」(ごうけ・大江氏)と呼称する。
 ここは国道二号線法面に近く、将来国道拡幅工事で支障移転されるはずである。    (2012.08.26追加)
・富海浦の飛船(ひせん・とびせん)は、瀬戸内海の旅客兼貨物船の役割を果たしていた。幕末の頃、船主は10人程度飛船数66艘であったという。
 ここでは旅客・貨物運搬のほかに、船客の宿屋、倉庫業、荷物の為替業務も行っていた。大和屋政助もその一人。
 三田尻にも大型船と飛船があったが、富海飛船は多少の危険をおかしても出航したので志士の多くは富海飛船を利用した。
・吉田松陰嘉永六年の10年間の再遊学では、大坂まで海路、江戸へ向う。正月26日午前6時萩を発し、午後6時過ぎ三田尻警固町の
 御船手役人(海軍士官)飯田行蔵宅に着き宿泊。大坂への船を待ったが荒天が続くため、3日間延留。
 出航の気配がないため30日に富海へ向う。飯田は富海まで送る。翌2月1日ようやく富海飛船で出航。船客8名嘔吐するもの多し。
 3日岩国新湊で積荷陸揚げの間、徒歩で錦帯橋見物。橋の袂の「諫櫃」(いさめびつ)に感心し再び新湊へ折り返し、宮島深夜到着船内泊、
 翌朝上陸宮島見物。大坂から大和諸地を巡りようやく江戸に着いたのは5月24日。
 6月3日ペリー率いる米国艦隊が浦賀沖に出現する。直ちに浦賀へ赴き実情調査。(「癸丑(きちゆう)遊歴日録」・「吉田松陰全集第九巻」)
嘉永六年長崎紀行は、来航中のロシア軍艦に乗り込もうと思い九月十八日江戸を立ち、大坂から海路九州へ。
 十月十六日鶴崎(大分市)から阿蘇の麓を通り十九日熊本着。肥後実学党の中心人物横井小楠と面談、二十七日長崎へ到着するが、
 露艦はクリミヤ戦争勃発のため三日前急遽出航していたため目的を果たせず、熊本へ戻り、嘉永三年の九州遊歴(赤間関街道で後述)で
 知友となった宮部鼎蔵と再会後、十一月十三日一旦、帰国。
 後を追ってきた宮部鼎蔵・野口直之允と合流、十一月二十四日萩を出発し、二十六日富海から海路大坂経由、中山道(中仙道)を江戸へ向う。

                                    
 (「長崎紀行」・「吉田松陰全集第九巻」) 
(参考)巻末掲載の付:3「吉田松陰全国遊歴略図」

船蔵通りの大和屋政助船倉 裏開作竜神石祠(コース外としてもよい) 伝説毛利時親卿墓・街道沿いの案内標柱から100m先のみかん畑
大内輝弘墓 手掛岩(橘坂) ← 橘坂(たちばな坂) 入本屋磯七旧宅庭の上陸記念碑
浮野峠浮野方面下り竹薮 道路改修碑前の旧道(通行可) 浮野峠石畳(北側) ← 大内輝弘臣材刳墓







国衙道標(1)
  右 九州道
  左 三田尻
  中ノ関道
 


国衙道標(2)
右 せきみち
左 上かたみち

注: 宮市本陣兄部家書院と三田尻御舟倉跡は2011年夏に国史跡萩往還関連施設に追加指定認可予定。
     兄部本陣2011.07.22未明失火全焼。外壁部分一部残る。
  古祖原を過ぎた付近から大崎渡しにかけて植松付近の道筋は消えている。 佐波川左岸土手道を進むしかない。
   ここは、宮市から山頭火の小径を折り返し、萩往還を三田尻・桑山を目指し、萩往還終端史跡・野村望東尼関係史跡を訪ね、
    三田尻から仁井令経由大崎橋へ向かう のが推奨コース。 三田尻周辺の史跡は全て現存確認できる。
    三田尻から大崎渡しへの道は、鞠生松原の美しい風景を眺めながら大崎渡しへの干潟・開作新田沿いの道ではなかったか?
    華城郵便局を過ぎて右折し、山陽本線踏切と旧国道二号線(187号線)信号機を渡れば、大崎橋。
   三田尻の小烏(八咫)神社は、厳島神社境内の東の一角。東隣の華浦(かほ)小学校敷地にあったがここに移設。
     慶応3年(1867)11月25日、右田毛利内匠を総督とする薩長連合軍は三田尻に終結、小烏神社に参拝し戦勝を祈願、
    鞠生丸以下7隻の艦船に分乗、京へ向う。(鳥羽・伏見の戦い)
   楫取素彦・妻文(美和子)の墓は、大楽寺と望東尼墓の中間。文は吉田松陰末妹で久坂玄瑞未亡人。
   植松八幡宮は、平成八年三月六日河川改修により現在地に移転。
   ・吉田松陰嘉永四年(1851)江戸遊学:三月五日熊旛(ゆうはん)(藩主の旗・行列)に先行し駄を護る者(藩主の荷役人)と
    午前五時萩を出発。昼頃山口到着。亀山(大内氏古跡)を巡り、鴻嶺(高嶺)に登り山口の地勢を視察、熊旛午後四時到着。

    翌六日午前六時、ここから同行の中谷松三郎(正亮)と前日と同じく先発、慢行しわざと道を間違え小郡へ向う。
    兵学師範の立場から山陽道の要衝である小郡を視察しておきたかったと思われる。その後、大道を経て佐野の嶺を越え三田尻の宿到着。
    行列の到着の間旧知の高井、飯田ら海軍関係者と面談。翌七日六時駄を護る者と旗に先じて出発。
    三田尻道(中ノ関道)を国衙で山陽道に合流、富海、戸田、夜市、福川、富田、徳山の諸邑を経、午後花岡に到着。
     徳山では戸石(遠石)の船倉、櫛ヶ浜を視察し久米市経由花岡着。三月八日も藩主行列に先発し昼頃高森到着。 (「東遊日記」)
    その年十二月江戸遊学中「過書」発行を待たず、満州と連なるロシアと隣接する海防視察目的で宮部鼎蔵と出発した東北諸国遊歴
    罪に問われ嘉永五年五月帰国を命じられたルートは行程期間的に大阪から海路であったと思われるが詳細不明。
   ・嘉永六年の一〇年間の再遊学:三田尻で荒天の回復を待つが出航の気配がないため浮野経由富海浦へ向う。詳細富海参照。
   ・嘉永七年(安政元年1854)三月二十八日下田踏海に失敗:江戸から金子と駕籠で護送され、十月二十日小瀬川を渡り柱野昼食高森着。
    二十一日高森発花岡着(昼食宿呼坂)。二十二日花岡発宮市着(昼食宿福川)。 二十三日明木着、翌二十四日昼前萩到着。(「護送日記」)
    ・安政六年(1859):幕命による東送:五月二十五日萩を発ち山口着。二十六日福川着。
                  宮市(松崎)天満宮通過のとき牢駕籠の中から

           「思ふかな君がつくしのこころしは 賤(しず)があづまの旅につけても」
              (菅原道真公が筑紫の国に流された無念さは、江戸送りとなった私にはよくお察しできます)。
    二十七日高森到着。二十八日小瀬川を越える。  (「涙松集」・「吉田松陰全集第六巻」)
  (参考)巻末掲載の付:3「吉田松陰全国遊歴略図」
  ・野村望東尼の詳細と野村望東尼終焉之地、終焉の宅(移築)の写真は「通化寺」高杉晋作の項参照。



正五位野村望東尼之墓 三田尻道標 三田尻御茶屋(英雲荘)・国指定史跡 三田尻御舟倉跡(海軍局)通堀 小烏(八咫)神社・鞠生松原一部残存


   注:佐野山狼煙場(三田尻宰判)は、佐野峠駕籠立場から南へ尾根続きの150mの地点。次の岩淵観音山狼煙場(小郡宰判)とは距離七町と近いが、
       駕籠立場の動静を見る為であろう。ここから大崎渡しを見張る。 幕末期に藩主敬親は佐野峠を越え駕籠立場で歌を詠んでいるが、
       このとき狼煙は焚かれていない。 佐野山以西の狼煙場は一度も使われることがなかった。   (井上 佑氏文献から) 
      佐野峠の駕籠建場を過ぎて、岩淵峠の沢渡り手前付近山道中央に伐採樹木が三ケ所置かれているが通行可能。(2011/02/16時点)
       岩淵峠の沢渡りは三ケ所あるが小さい。岩淵峠通行に不安を感じる一人旅人は駕籠建場から山陽自動車道の側道を西下してもよい。       
      岩淵市の瀬十郎墓は蛤を食べて死んだ若者といわれる。路傍の小さな無銘石なので注意。
       里謡に
小俣蛤(こまたはまぐり)瀬十郎に敵、惜しや殺した二十一を」

     
台道、岩淵は郡域を越えて防府市と合併。岩淵峠がかっての郡境。郡境碑は今は無い。
      大道市の高嶺大神宮礼拝所燈篭は幕末の危機的状況のなか、他国者を山口に入れないようにしたとき、山口大神宮参拝に来た九州、大内領国豊後の
       参詣者のために造った遥拝所の燈篭。慶応二年(1866)と明治二年(1869)建立の二基。小郡にも礼拝所が設けられた。

     
 ・「百万一心(一日一力一心)」拓本碑関係は、石川和朋氏(毛利愛好会代表)作成の資料による。
     鋳銭司郷土館は必見だが、お急ぎの方は大村益次郎墓、陶市の鋳銭司跡(田の中)、司家跡、正護寺、陶窯跡等はコース外とせざるを得ない。
     

 
瀬十郎墓 岩淵峠沢渡り(三ケ所ある) 佐野峠 駕籠立場 佐野峠入口(二又を左へ) ←佐野一里塚跡碑
陶ケ岳・陶村観音山狼煙場 大村益次郎墓 長沢池(赤沢晩翠詩碑と鳥居) 大道村庄屋田中家宅と井戸 ←  大道小学校
陶陶窯跡(須恵器窯) 正護寺の陶晴賢墓(一番手前) 周防司家跡 建石・陶一里塚跡(建石の右)   陶小学校



注:
津市の天下御物送場(おんものおくりば)番所は防長路最大で、継馬二五匹、人夫二五人がおかれていた。
   ・東津渡しは徒歩渡り、満潮時は舟渡し。川口番所は河海警備におかれた。
  古代律令時代、大路であった山陽道の駅のうち、周防国は石国(いわくに)(関戸) ・ 野口 ・ 周防(小周防、または呼坂) ・ 生野屋(いくのや)
                ・ 平野 ・勝間(今宿・岸津) ・  大前(おおさき)(右田大崎) ・ 八千(やち)(鋳銭司矢地) ・ 賀宝(嘉川)。
    この先、長門国に入って阿潭(あたみ)(宇部市吉見温見の持世寺) ・ 厚狭(あさ) ・ 埴生 ・ 宅賀(たか)(小月) ・ 臨門(赤間)。計14の駅家があった。
    長門国庁は長府に置かれた。

  吉田松陰は嘉永四年(1851)藩主の参勤交代に従い江戸遊学。三月五日熊旛(ゆうはん)(藩主の行列)に先行し駄を護る者と午前五時萩を出発。
    昼頃山口到着。亀山(大内氏古跡)を巡り、鴻嶺(高嶺)に登り山口の地勢を視察、熊旛午後四時到着。
    翌六日午前六時、ここから同行の中谷松三郎(正亮)と前日と同じく先発、慢行し(わざと道を間違え)小郡へ向う。
    兵学師範の立場から山陽道の要衝である小郡を視察しておきたかったと思われる。
    その後、大道を経て佐野の嶺を越え三田尻の宿到着。行列の到着の間旧知の高井、飯田ら海軍関係者と合う。
東津道標・道松切り株
右 京 江戸、左 山口 石見」
東津白髭大明神之前狼煙場付近 小郡御茶屋・勘場跡 小郡石ケ壷一里塚跡碑
周防長門国境碑 幸ノ江川畔道標
「あしす とこなみ 中の村」
嘉川公民館六十四番背後の
道標と百万一心碑
嘉川恵比須社・本間源三郎頌徳碑 左に小郡開作道路改修記念碑と
嘉川村雨乞山狼煙場遠望

                                

周防・長門国境〜赤間関

             (容量を抑えるため、ルート図メモと写真は適宜省略します。)

注:上山中の山裾旧道「HOTEL ZOO」の看板背後から進入する。進入箇所付近は雑草が茂っている。200mぐらい先の鬱蒼とした山裾の
    沢水に架かる
二本組み丸太橋を渡れば、道筋は合っている。水河内川を渡り、藤河内へ至る一般道路と合流する区間は簡易舗装されている。
  ・山中市上市の「伊藤彦四郎墓」は二俣瀬、木田村の極楽寺墓地「伊藤家累代各霊」横に移設。
    上市の木製標柱には「伊藤彦四郎入道法舜墓跡」とある。

  ・ どんだけ道は、辻堂の大歳社前の標識から入る。途中の二又は直進、左は墓場への道。中電の配電ルートに沿って進むのがポイント。
    上水道配水槽( 配水場)とミツヤ工業作業場敷地の小屋の南横を進めば頂上(瓜生野と吉見の村境)。
     どんだけ道は別名、殿様道・玉木坂ともいわれるが、玉木は享保期この道を改修した舟木宰判所務代官。
     往古の道は瓜生野から厚東川に沿って 関口から下岡への道であった。
阿譚駅家は吉見の持世寺付近と推定されている。
    ・どんだけ道ミツヤ工業作業場敷地手前の上水道「配水場」を「変電所」と記載したサイトがあるので注意。
     低い位置にある貯水タンクを「受水池(ち)」という。ここからポンプで高所の「配水池」まで上げてから需要家へ配水する
     各施設を「受水場」、「配水場」という。
     当サイトでは、紛らわしいので上水道「受水槽」・「配水槽」として記載。(小瀬の米山団地入口にあるタンクは「受水場」の受水池)

     春日側からの東進は、頂上のミツヤ工業作業場入口分れ道を過ぎてから墓場へ入り込まないよう注意。
  
どんだけ道を西へ下り、大坪川西岸の春日一里塚跡以西の吉見の山裾旧道は全線開通。
      平成23年7月17日、「厚東まちづくりサークル」によって整備、全線通行可能。前後に「旧山陽道」標柱を設置。


上山中の山裾旧道 
D/D(伝)山伏墓 C水河内川を渡ると前方上部に一般道 B中間付近の緩やかな下り。南側猪よけ A200m先丸太橋を渡り緩やかな上り ←@/DHOTEL ZOO看板背後に道筋
 
   ← @/Eどんだけ道:大歳社前の標柱から進入。右側に庚申         駒の頭から木田橋(二俣瀬舟渡)遠望 駒の頭取水、水落し 極楽寺の伊藤彦四郎墓と山中の墓跡
←D春日方面下り ←C頂上付近と右に高圧線鉄塔   ←B配水槽(場)横と作業小屋横を配電ルート沿いに直進     ← A二又を直進。左は墓場への道
B/B吉見山裾旧道・厚東中学校側 A吉見の山裾旧道中間付近  ←@/B吉見の山裾旧道・春日側         ←  E/Eどんだけ道春日側終端と標柱・ 看板



@/C千利尼石畳路から逢坂観音堂へ 瑞松庵山門横の船木勘場裏門(移築) 瑞松庵の茅葺山門(コース外となりそう) 専用道カルバート手前の六地蔵
七日町道標(吉田・埴生道)追分直進 C/C旧国道(225号線)が見えてくる B標柱を直進、残存道の中間付近 A「史跡山陽街道の一部(残存)」標柱



注:福田茶屋の「こっつりさん」は、喘息持ちの旅人が行き倒れとなったのを供養する。「こっくりさん」がなまったか?
     当地区では今でも「茶屋講」と呼ばれる講が続けられている。
これが地名「福田茶屋」の謂れとなったらしい。
 
福田一里塚跡から300m先の竹薮手前の二又を左折、しばらく進めば、下福田浴からの道と合流。
 
福田一里塚跡から竹藪手前二又までの道は昭和60年頃の圃場整備で作られた新道。旧道は東山裾にあったが消滅。
  蓮台寺峠手前の二箇所ある湿地帯の沢は年々大きくなっている感じで、特に最初の沢が顕著。遠くない時期に丸太が架かるかも。
   湿地のぬかるみは降雨時でもひどくない。湿地の苔を踏み荒らさないよう注意。
 
高圧送電線ルート真下付近左カーブ付近は道なりに進まず、広場右山裾を直進。草と低笹が茂っている箇所があるが道筋は確認できる。
   蓮台寺峠手前の「庚神」と「伊藤初五郎顕彰碑(開作記念碑)」で本道に合流。
  蓮台寺峠を下って、蓮台寺参道(標識無し)は舗装されているが寺の手前付近勾配はかなりきつい。復路は哲学の道(石畳道)を下る。
 
吉田の常関寺は吉田領主山内広通開基菩提寺で小倉戦争軍事病院。奇兵隊士墓七基と十六羅漢石像(享保飢饉餓死者供養)。(コース外)
  法専寺の首切り六地像はここに分宿していた奇兵隊士が廃仏思想にかられて切断したといわれる。隊士墓八基。(コース外)
 
吉田御茶屋・吉田宰判勘場前の東西の道は当時はなかった。街道から直接T字状に広い道が南へ向けて勘場に繋がっていた。
 ・御国廻御行程記の吉田市尻一里山は小川橋東詰の北側に記載されている。
 
赤間関からへの赤間関街道は、吉田から大嶺(美祢)、秋吉、絵堂、を経由して萩往還明木へ接続する中道と、
  
 小月から田部(菊川)、豊田(豊田道)、西市、俵山(長門市)経由の北道筋、及び
唐戸(亀山)から豊浦・三隅経由山陰海岸沿いに
   萩へ至る北浦道の二ルート
計三ルート
 ・吉田松陰嘉永三年(1850)八月の九州遊歴
    従者新介を従え二十五日明木から赤間関街道(中道筋)を絵堂、秋吉台(の古道)、岩長(秋芳町岩永)、河原(伊佐町河原)を経て
   四郎ケ原宿(美祢の南西)に到着。本陣河崎家泊か?翌二十六日小月、長府経由、赤間関大年寄伊藤木工助(杢助)宅(東御本陣)に到着。
   途中小月あたりで足を痛めたため馬を借りている。微熱があったため翌日医師の処方を受け、伊藤家で二日静養。
   二十九日亀山の渡し場から渡海し、九月五日長崎の長州藩屋敷到着。新介を帰し港湾施設やオランダ砲艦を見学。九月十四日平戸着。
   平戸では今回の目的の一つである葉山左内に面会、海外事情やアヘン戦争の詳しい状況を知る。平戸滞在は五〇日に及ぶ。
   十一月六日再び長崎へ向い三週間滞在。中国からの帰化人通訳鄭幹輔を何度も訪問。十二月一日には長崎を立ち天草、島原経由九日熊本着。
   十二月十一日兵学者宮部鼎蔵と運命的出会いをする。十二月十三日熊本を発ち、柳川、佐賀、小倉経由、二十八日赤間関に渡り
   伊藤木工助宅を訪問し午後三時ごろ駕籠で出発、小月経由吉田の宿に午後八時過ぎ到着。
   翌二十九日絵堂まで馬上にて萩の杉家に帰着したのは午後九時であった。このとき松陰二一歳。 (「西遊日記」・「吉田松陰全集第九巻」)

 
小月一里塚跡碑と藤又履物店前の豊田道道標は道路改修時、現位置に移設されている。
 
豊田道を右折、見廻り通り(みもうりどおり)入り口の藤又履物店真向かいの三階建てビル藤田金物店「ハワーズ・フジタ」は
  清末藩お抱え刀・鉄砲鍛冶。

 
吉田清水山(しみずやま)史跡は「通化寺」高杉晋作の項参照。清水山の北側に簡易温泉施設「晋作の湯」がある。
竹薮手前二又を左折し、北上すると
←    下福田の浴からの道と合流
福田茶屋の「こっつりさん」
←    この先福田一里塚跡
山陽本線トンネル上から西方向 ← 福田のカーブミラー左折付近
←蓮台寺峠を下って右に蓮台寺参道 ←蓮台寺峠 ←蓮台寺峠・二番目の沢(湿地) 蓮台寺峠・最初の沢(湿地)
吉田高札場跡・蛭子神社 赤間関街道道標 庚申・猿田彦大神 蓮台寺一の坂道標と標識板(峠方向みる)
吉田市尻の一里塚跡(小川橋東詰角畑) 奇兵隊陣屋跡の戦士像 三界萬霊地蔵背後の一里塚趾碑 吉田御茶屋・吉田宰判勘場跡
神田橋石橋 みもうり通り標柱 ・ 豊田道標 庚申塚(小月神社御旅所) 木屋川沿いから右折し小月へ



注:白石正一郎邸浜門(裏門)は、長府駅前を過ぎて新川を下がってもいいが、次の筋にある松小田町民館横から進入したほうが分かりやすい。
   毛利元就防長攻略により自刃した大内義長宝篋印塔は、功山寺境内「国宝仏殿」の左奥付近にある。

   明治十七年功山寺第三十七世百城和尚が裏山の竹薮に埋もれているのを発見。故事に照らして右側が義長介錯の側近杉民部、
    左側が義長に従った陶隆房(晴賢)の末男六歳の鶴寿丸といわれているが、確証されたものではない。
   功山寺(こうざんじ)の高杉晋作「功山寺決起」関係は「通化寺」高杉晋作の項参照。
軍神広瀬中佐
亡友展墓記念碑
萬骨塔(長門尊攘堂・現長府博物館) 功山寺(旧長福院)大内義長主従墓 白石正一郎邸浜門(竹崎町から移築) 宇部一里塚跡碑
萬骨塔:松陰獄中遺書の一つ、門弟入江九一宛てに、京都に庶民に至る階層を対象とした大学校「尊攘堂」建設依頼があるが、
    入江は蛤御門の変で戦死。
明治になって、同じく松門の品川弥二郎がこれを知り京都に「尊攘堂」を建立。のち京都大学の所管となる。
      この話を弥二郎から聞いた長府在の元長府藩士(報国隊員)桂 弥一は、松陰の遺志を継いで長州にも「尊攘堂」建設を思い立ち、資金集めに奔走し
    私財をなげうって、三条実美ら
五卿仮泊所で、晋作挙兵の場所でもあった功山寺境内に昭和八年建設。「長府博物館」として現在に至る。
    「萬骨塔」は、尊攘堂と一緒に竣工式を挙げた。墳墓には五輪塔が立つ。
              (
この時期、都落ちの七卿は病死で五卿、恭順派による大宰府送りの直前)
    桂 弥一の建立趣旨に「ややもすれば“一将功成って万骨枯る”の歎なきを得ないのは、まことに痛恨事」。
   
維新に散った日本全国の人々ゆかりの石を集め、 霊石として無名の人々の霊を祭り、栄達を望まず塔守として終わっていることに彼の偉業が伺われる。
    会津白虎隊の霊石も祀られている。
    万骨塔建立経緯は、古川 薫の「長州歴史散歩」に詳しいが、まさに防長路維新史跡探訪の終着駅にふさわしい。


桜山招魂場 ・(中央)松陰、(右)晋作
高杉東行終焉之地
(林算九郎宅跡)
高杉東行療養之地
(桜山・東行庵跡)
注:亀山八幡宮大鳥居前に大きな「山陽道」碑と案内板があるが、山陽道終端は1Km先の「永福寺」前。
     
「山陽道」碑は、明治十一年九月渡船場新築を記念して東鳥居下に建てられたが、昭和二十九年道路改修によりここに移設。
  
天正三年(1575)島津家久伊勢参りのとき、三月十日小倉から船で赤間関に入り佐甲家に宿泊、ここから海路宮島を目指すが順風なく
    一六日長府を出立、山陽道を宮島へ向う。「家久君上京日記」:詳細、「徒然草独歩の写日記」参照。
  
丸山町日和山公園の晋作・望東尼歌碑詳細は「通化寺」高杉晋作の項参照。ここはコース外となりそうだが必見。
    南側からは細江公園横の階段道を上がることになる。北側からはタクシーまたは車。
   ・本陣伊藤邸跡西の佐甲(さこう)家と共に東の本陣をつとめ、下関の大年寄として町政にも参画した家柄。文化・文政期の伊藤杢之允
    オランダ商館長一行が江戸参府の途中、東西本陣を交互に使ったが、シーボルトと親交を深め海外文化に造詣が深かった。
    養子木工助(静斎)も好学の志強く、海外事情を含め、各分野に見識が深かった。
    萩藩砲術家、兵学者らと実施した
吉田松陰嘉永二年(1849)六、七月北浦巡検では最後の巡検地赤間関で木工助(杢助)宅を訪ね、
    諸情勢を入手し知友となる。
嘉永三年八月九州遊歴では往復路の起点としているが、平戸藩葉山左内を紹介され海外へ目を開くことになる。
    杢之允の実子久三(助太夫)の代では父や木工助の影響を受け、新時代への変革に理解を示し坂本龍馬を援助。助太夫から久三への改名は
    龍馬の勧めによるもの。龍馬は下関居住を認められるが、伊藤家の離れを「自然堂」(じねんどう)と名付けお龍と住み、商務の拠点とする。
    お龍は龍馬遭難の悲報をここで聞くことになる。
    伊藤邸の敷地は2000坪、部屋数20超、畳数200超といわれる広大な建物であった。
  

   ・
脱藩した坂本龍馬は、先ず竹崎の白石正一郎邸を目指す。龍馬と下関の関係は「通化寺」と「日々是見聞録」参照。
      慶応二年六月十七日の小倉戦争艦砲射撃開戦に参戦した龍馬は、桂小五郎と面談のため山口にいたが、七月三日晋作長州軍が門司大里攻撃を
     開始したことを知り、「野次馬させて欲しい」と、三日の夜から走り続け四日の朝下関に着いたが戦闘は終わっていた。(「木戸孝允宛書状」)

   新地の厳島神社太鼓櫓:高杉晋作が戦勝祈願した厳島神社に小倉城の大太鼓を戦利品として奉納。
   桜山の高杉東行療養之地は、桜山招魂社を北上し山陽本線に架かる細い跨線橋を渡り、新地方向に戻ったほうが分りやすい。
    ここはかって奇兵隊営所があった粗末な小庵で、正一郎の慰留を断り白石邸からここに移り、晋作は「東行庵」と名付ける。
    慶応三年になって妻雅の訪問を受け林算九郎宅離れへ移り、四月十四日死去。二十九歳。
        
時移予家于桜山下                時に予、家を桜山の下に移す
         落花斜日恨無窮  自愧残骸泣晩風      落花斜日恨み窮まりなし  自ら恥ず残骸晩風に 
         休怪移家華表下  暮朝欲拂廟前紅      怪しむをやめよ家を華表の下に移せしを   暮朝廟前の紅を拂わんと欲す

                                  (桜山の招魂社前に住むことを奇異に思うな。朝暮に墓前の落葉を拂ってやりたいのだ。)

新地会所跡・厳島神社
(新地は本藩直轄領・会所は出先役所)
白石正一郎邸跡・奇兵隊結成之地 赤間関一里塚跡
上方道終端(永福寺前)
 
東御本陣伊藤邸跡
坂本龍馬「自然堂」跡

付1:旧山陽道防長路一里塚一覧(単位:km)

       3.95  5.15    4.27   4.37  4.05  4.25  4.17  4.27  4.05
    小瀬-----多田-----市ノ瀬-----二軒屋-----野口-----高森-----差川-----今市-----遠見-----
         4.50   4.37   4.25   4.40   3.47   4.30    4.55   3.80     4.32

    窪市-----弘石-----遠石-----浦山-----温田-----夜市-----戸田山------富海-----今宿-----千日原
76.52km(1里平均4.25km) 小瀬〜千日原18里 
         4.30    4.40    4.92   3.62   4.62   4.92    4.45   3.75  4.80

    
千日原-----佐野-----台道-----建石-----小郡-----嘉川-----割小松-----和田-----春日-----
      4.50   4.20   4.60   4.20   4.70    4.25  4.80  4.70  3.67     
    船木-----西見峠-----七日町-----福田-----吉田-----小月-----宇部-----長府-----前田-----赤間関
79.42km(1里平均4.41km)千日原〜赤間関18里 
                                                 防長山陽道155.94km(1里平均4.33km)


付2:「益田家文書」(他見不可)記載の「防長の山陽道陸路狼煙場
一覧」

  (注)調査報告書記載の「益田家文書」陸路狼煙場一覧は、「一、(岩国領) 小瀬川米山之内籾ノ子  拾弐三町程  一、() 関戸垰とう谷  壱里半余 (以下省略)」
      と、名前と所在領域、区間距離が箇条書きされているが井上佑氏文献に準じて表記。
各狼煙場間の距離は省略。

  小瀬川米山之内 籾ノ子(もみのこ)(岩国領)--関戸峠とう谷(岩国領)--御庄市西山栢ノ木(かやのき)(岩国領)--鳥越山大峠(おおたお)(岩国領)--中ノ峠仏ケ浴谷頭(ほとけがえきたにがしら)(岩国領)--
  

 
  野口山(岩国領)--千足山(せんぞくやま)(熊毛宰判)--中曽根徳王山初ルつふ(熊毛宰判)--中山峠北ノ方(熊毛宰判)--大河内村之内弓矢か迫山(熊毛宰判)--

 
  切山村之内鞍懸山(都濃郡)--末武村之内城山(都濃郡)--久米村之内との山(都濃郡)--久米村之内尾無山(日尾無山・都濃郡)--

   江田(ごうだ) 薮山(やぶやま)(徳山領)--富田村之内平野山(徳山領)--弥地村之内若山(徳山領)--戸田村之内正仙坊山(しょうせんぼうやま)(都濃郡)--牟礼山(むれやま)(三田尻宰判)--

   桑山(三田尻宰判)--佐野山(三田尻宰判)--台道村岩淵観音山(小郡宰判)--陶村観音山(小郡宰判)--東津白髭大明神之前(小郡宰判)--

   嘉川村雨乞山(小郡宰判)-- 割小松(わりこまつ)(小郡宰判)--滝ケ平山(たきがひらやま)(船木宰判)--船木峠(船木宰判)--厚狭郡西目峠ちこの岩(吉田宰判)--

   高岡山(吉田宰判)-- 蓮台寺(れんだいじ)峠(吉田宰判)-- 吉田村崩ケ窪山(つえかくぼやま)(吉田宰判)--高尾山(長府領)             
以上33ケ所

  別に、「地下上申」記載の慶長十年頃設置の今市正覚寺「寺山」狼煙場(中山峠北ノ方と大河内村之内弓矢か迫山狼煙場の中間付近、今市正覚寺の裏山。)

   往還筋から容易に到達できる狼煙場跡

    ・千足山 (片道5分) ・久米村之内尾無山 (片道8分) ・江田薮山 (片道2分) ・東津白髭大明神之前 (片道2分)の四ケ所。

     ・千足山
 :天王山須佐神社宮内。往還筋だがJR岩徳線と国道二号線に遮断されているため、「下千束踏切」を渡り国道を東へ進む。
               石段は急勾配なので手前の車参道を上がる。須佐神社宮内の中央から東付近。

     ・久米村之内尾無山
 :白見ケ森の福祉施設「周南荘」跡更地南横を北東へ、大迫田墓地公園正光寺墓地を過ぎて山頂の八正寺墓地。
                尾無山は尾崎山が正解。ここは四年間徳山藩改易の原因となった万役山(マンニャク山)事件の現場でもある。

     ・江田薮山(ごうだやぶやま) 
:新幹線高架橋下のJR「江田ケ薮(えだがや)第1踏切」を渡り、熊野神社裏の緑地公園。神社表側は台場跡
     
・東津白髭大明神之前 :小郡饅頭「金子老舗」の小工場の一角に白髪大明神。詳細は小郡御茶屋周辺略図及びメモ参照。
    佐野山は佐野峠駕籠立場から尾根伝いに150m程度だが、山間部到達不可。
       


蓮台寺峠福田側の高圧送電線ルート真下付近からみる。
ここからみる馬ノ毛山は馬の鬣のようにみえる。ここから

旧道は左方向に道なりに曲がらず、広場の右方向直進。
新幹線を過ぎて小月別れ付近からみる
崩ケ窪山は、名前の通りの山容

右方の山は蓮台寺峠東北の三角点か?
新幹線高架橋手前からみる

付3:吉田松陰全国遊歴略図
付4:長州藩(萩藩)領内地図(各宰判 ・支藩別)
「藩」の名称は江戸期には一般に使われることはなく、現代になって封建領主(大名)が支配した領域、支配機構をさす歴史用語として呼称されている。

    1868年明治新政府になって、旧幕府領を天皇直轄領として府・県に編成された際、大名領は天皇の「藩」として公称されることとなるが、
    明治二年(1869)版籍奉還
によって大名領(版)と人民(籍)を天皇(国家)に返還することとなり、領主は知藩事として公称され
    「府県三冶制」となるが、 さらに中央集権化の徹底を図るため 明治四年(1871)廃藩置県断行によって藩制(知藩事)が廃止され、
    県制(県令)に移行することにより「藩」としての公称はなくなる。(詳細、wikipedia参照。)

・幕末の激動期に備え文久三年(1863)七月、幕府に無断で藩庁を萩から山口に移し、翌元冶元年七月の蛤御門の変に敗北、破却を命じられるが
 居館の瓦数枚の剥ぎ取りで済ます。のち正式に居館新設を申請、認められ周防山口藩となる。
 この時期を長州藩・長州・防長と称されることが多いが、毛利一門の連帯・結束意識を包含しているともいえる。
・長府藩、清末藩と徳山藩は毛利宗藩の支藩。清末藩(きよすえ)は設立経緯から長府藩の支藩と解されがちであるが、あくまで萩藩の支藩で他支藩と同格式。
・岩国領吉川氏は関ケ原の一件で宗家と確執蔑視され藩に列することなく、格式も下。幕末の激動期、宗家敬親は吉川氏を末家として認め、
 協力、結束態勢が強化される。
 吉川氏念願の大名引立は大政奉還後の慶応四年(1863)三月である。(*慶応四年三月朝廷から吉川監物周防宰相の末家となすべきの沙汰書を受ける。)
  従って、厳密にはそれまでの呼称は、岩国領・岩国(領)吉川氏等と呼称。
・長府藩は明治二年豊浦藩と公称。この頃の藩府は対外患関連で勝山(勝山陣屋・御殿)。
・明治四年旧暦六月山口藩は徳山藩を併合し(廃藩置県に先んじて知藩事を辞任、所領を本藩に返還)、同七月廃藩置県により4藩は山口・岩国・豊浦・清末県
 となり、同十一月4県は合併し山口県となる。


(中山峠〜勝間峠) (日々是見聞録)
blog
徒然草独歩の
   写日記