中山峠〜勝間峠
注:略図・メモはDL して印刷すると解像度が低くなります。Internet Explorer表示画面から、 略図・サイト本文をドラッグ選定し、印刷プレビューから85%程度の縮小印刷か「縮小して全体印刷」が推奨です。 表示されている解像度・大きさのまま印刷出来ます。


中山峠(110m)から西が藩政期の熊毛郡樋口村である。街道は閑散とした雑木林のなかを緩やかにくだるが、この付近は何時来ても静かで好きなコースの一つだ。春先には山桜が咲き、鶯の鳴き声も聞かれる。吉田松陰「東遊日記」「三尾、中山の坂ありと雖も亦與し易きのみ」とある。

峠から約300m下ると右側(北側)路傍に
廃屋(2012年に砂のう販売所になった)があるが、ここから中山峠方向を振り返れば、中山峠北ノ方狼煙場(熊毛宰判)を間近かに見ることができる。逆に西方向をみると西原、呼坂付近の家並みまで遠望できる。これは途中に高い山がないためで、呼坂の背後、古市坂(コックリ曲がり)にしても低い丘陵のため、次の大河内村之内弓矢か迫山狼煙場(熊毛宰判)を想定視できる。これはあくまで期待感を込めた想定で、間違いないとおもうが確定ではないのでご注意を。中山峠からは街道真上をやや北へずれた角度で弓矢か迫山を見通す。弓なり状に先の尖った山がそれだと思う。やはり距離は相当あり、地図上計測で約7kmもある。広域略図に位置をプロットしたいのだが、大河内村は呼坂村の先で不可能だ。曇天や雨天での狼煙の判別は無理であったろう。狼煙場は軍事上の目的も持っていたのであるが、頻度を考えると、それでも良かったのかもしれない。軍事用のみを目的としたのなら、詳細の伝達を含め早馬継の方がいい。素人考えでも、「四境戦」のような非常時においては、部隊毎に適所臨時の馬継が置かれたと考えるのは常識の範ちゅうであろう。

手前のこんもりとした低い山が
正覚寺の上山に当たる寺山で、「地下上申」記載の「慶長十年頃設置の狼煙場」ということになる。
(狼煙場関係詳細は前頁の中山峠参照)

廃屋付近から中山峠をみる。 同、西方向をみる。

JR中山道踏切を渡ると、ここから街道はJR岩徳線の北側沿いを西下する。街道の南側は清尾村(せいのう)である。中山道踏切付近から今市新町付近にかけて東方向を振り返ると、街道真正面に中山峠北ノ方狼煙場を遠望できる。鉄道の右(南)側には、平家ケ峰と城山が間近に大きくみえる。

中山道踏切を渡り、鉄道北側を進む 今市新町手前から東方向をみる


この先、今市新町の家並みに入って路傍右に
宮川米水先生顕彰碑がある。米水(べいすい)は号名で、本名は宮川視名。安政五年三丘宍戸氏の郷校徳修館第四代館長で、明治に至り小学校教師となり、退職後私校磨鍼塾(ましんじゅく)を創設。地方子弟の教育に尽力した。

山口県指定有形文化財徳修館聖廟は熊毛インター南東の安田にある。徳修館は中央に聖廟、左右に講堂や道場、寄宿舎等多数の棟があったが、このうち聖廟が現存する。徳修館の左山手には毛利家一門筆頭として一万三千余石を領した三丘領主宍戸氏居館があり、「御田屋楼門」と呼ばれた大きな楼門があったが老朽化によりその姿を消し、現在は礎石と土塀の一部が残る。徳修館周辺は公園化され、幕末期の第十一代領主宍戸親基(ちかもと)公が大正四年従四位を贈られたことを記念して旧臣らによって大正十四年建立された「宍戸親基碑」や中国から贈られた孔子像がある。位置的にコース外となるのが残念だ。
 宍戸氏当主は2014年6月から安田の居宅跡に移住している。

宮川米水先生顕彰碑 参考:安田の宍戸氏居宅・御田屋楼門跡と徳修館聖廟(コース外)

まもり様

宮川米水顕彰碑から150m先、路傍右の畑の中に大きな石碑がある。観音様のようなものが彫られているようにもみえるが古くて判別できない。近くにいた主婦に聞くと、「守り様」とよばれる「風の神様」だそうだ。道祖神の一種とおもったが石像ではなく大きな石碑である。左側の石柱側面に「南無阿弥陀如来」、「南無多産如来」とある。
ここは街道沿い民家に隣接して少し奥にあるので、うっかりすると見逃すことがあるのでご注意。

「守り様」から60m先、路傍左に高水神社常夜燈がある。ここから岩徳線ガードをくぐり、清尾の石光川に沿って約700m南下すると高水神社がある。永平年間の社殿火災により古記録等消失し創建年月等不明であるが、神社後方の清尾山には影向石(ようごうせき)と称される二つの巨岩が並び立っている。藤井主馬という人が熊野大権現の分霊をこの地に勧請して高水大権現社を建てたところ、毎夜霊光が輝き、領内に火災が生じたときには、巨岩が鳴動したという。この二つの巨岩は、一般的には夫婦岩と呼ばれ、鳥居越しにみることができる。後年、山上より現在地に遷座した。高水神社参道両脇には石灯籠が長く続き、格式あるたたずまいである。距離的にコース外となるのが残念だ。このコースは今市から石光経由山陽古道「相ノ見越」の兼清、あるいは宍戸氏居館の安田経由小周防に至る古道でもある。石光からは中村川沿いに呼坂へも繋がっていた。

高水神社常夜燈と岩徳線ガード 高水神社の鳥居越しに夫婦岩をみる(コース外)


正覚寺山門

今市新町の浄土宗法王山正覚寺は寛永年間(1624〜43)に三丘領主宍戸就尚夫人正覚院の菩提をとむらうために建立。本尊の阿弥陀如来は広島甲田の甲立八幡宮(こうだち)の本持仏を移したものといわれる。

正覚寺の裏山に当たる寺山が、「地下上申」記載の「慶長十年頃設置の狼煙場」である。

山門石段右に松尾芭蕉の名句「ほろほろと山吹散るや滝の音」を刻んだ
句碑や連句を刻んだ連塔塚がある。また、山門下の右側には中所括襄先生頌徳碑塚本与十郎顕彰碑高水村塾之址の碑がある。これらの石碑や頌徳碑がここに集中しているのは、正覚寺が高水村の歴史、文化発展の中で重要な位置を占めていたといえる。(明治二十二年市町村制移行に伴い樋口、清尾、原の三村が合併し、高水村となった。)

今市一里塚
「安芸境小瀬より是迄七里。赤間関より是迄弐拾九里。」は、正覚寺山門の下、「高水村塾之址の碑」付近にあった。

正覚寺の石段を登り、正覚寺山門から東南東をみれば高水神社後方の清尾山頂上に
夫婦岩を確認できる。太陽光の角度、天候によっては樹木と見まがうが、街道コースからはここからが一番よくみえるので、見逃さないようにしたい

高水村塾之址碑・(想)今市一里塚跡 塚本与十郎顕彰碑 正覚寺山門からみた夫婦岩

高水村塾は宮川視名の没後、郷土の子弟教育に大きな成果をあげた「磨鍼塾」(ましんじゅく)が荒廃してしまったたため、塾出身者三名の発起により正覚寺敷地を借りて明治三十一年四月初代高水村長河村道篤を塾長に開塾。大正九年に高水中学校となり、多くの人材を育成した。昭和二十三年新制高水高校、昭和二十九年岩国市川下へ転出、高水学園となる。高水村塾之址の碑は、立命館大学総長、末川博氏の揮毫である。

中所括襄(なかじょかつじょう)は樋口村に家塾を開き多くの子弟を育て、優秀な人材は徳修館に送って学ばせた。宮川視明もその一人である。頌徳碑の碑文は宮川視明謹撰とある。 頌徳碑は当初山門の左手にあったが2010年6月「塚本与十郎顕彰碑」の手前に移設された。

塚本与十郎
は、明治初期の新町の住民は小作農で現金収入の道がなく疲弊していたが、古老たちが有為の青年与十郎を萩に派遣し竹細工の技術を修得させ、彼は期待にこたえ当地に竹細工技術を伝え現金収入の道を与えた。顕彰碑は昭和四年新町竹細工組合員によって建立された。

芭蕉連塔塚・背後は句碑 芭蕉句碑 移設された中所括襄先生頌徳碑
竹本本店前から西方面を見る

正覚寺前の石光川に架かる「今市橋」を渡り、静かな佇まいの今市の街中を150M進むと、南側に呉服・酒販売を営む竹本本店がある。かってはここから今市橋(石光川)まで、中央に用水と緑木を配した「中央用水形宿市町形態」の美しい街路形態であった。今市橋傍らのなまこ壁の倉庫がある一角はかって有海酒屋であった。また竹本本店は醤油醸造を営んでいた。




しばらく進むと北側、古風なたたずまいの民家の傍らに道標があり、北へ向かう道路がある。この道が高森のはずれから鳴川、成川を経由して今市に至る
古道「鳴川道(成川道)」の終端となる道である。道標には「北 米川、川越、桑根村 ・ 約四丁上り西 八代、中須村 道」とあり、懇切丁寧である。往時は熊毛宰判勘場のあった小周防から石光を経由してここから「鳴川道」経由、長野、山代方面や、八代経由、都濃郡須々万方面に向う主要な道であった。

「鳴川道」を北へ700m進むと
大歳神社、烏帽子岳登山口があるが、ここはコース外。


正覚寺山門からみた今市 今市の道標、鳴川道終端

今市のはずれで、JR岩徳線に架かる辻堂跨線橋を渡った少し先から原村(のち高水村)の東原で、JR高水駅前交差点を過ぎると右手に長い白壁塀の、もと庄屋山本権蔵宅が見えてくる。呼坂御米倉は、この先60m先の小路を北へ入った左側の赤瓦の民家と倒壊防止杭で支えられた廃屋付近にあった。廃屋の屋根は防水シートで覆われている。「調査報告書」記載の庄屋宅直近西隣は間違いなので注意のこと。この米蔵は呼坂、原、八代三ケ村の年貢米収納蔵であった。

辻堂跨線橋と高水駅構内 東原の旧庄屋宅と左に呼坂御米蔵跡 呼坂御米蔵跡の廃屋

この先旧原村(高水村)の中心部は、平成の大合併により周南市に移行するまで、熊毛町と称した地域の中心地でもある。この付近の街道を南北に横断する県道8号線(光・都濃線)があるが、この十字路北西角地に高寺観音道標がある。ここから北へ八代、中須、須々万へ通じているが、往時の道は十字路の50m手前に小川沿いの小道があり、鉄道付近で現在の県道と合流し、1.4km先の太刀野禅宗安国寺境内高台にある当国第十番の高寺観音に通じていた。ということは、観音道標は県道新設の際、ここに移設されたのかもしれない。当時の道は高寺観音までで、一山越えた八代方面へは、この先、呼坂の松屋小路から北へ佛坂を越える山道しかなかったようだ。「周東町史」によれば、太刀野の地名は、大内氏の滅亡後、家臣高源(こうげん)太郎がこの地に隠れ住み、二王清綱の太刀を埋めたことから太刀野と呼ばれるようになったといわれる。

西原十字路の高寺観音道標 太刀野の高寺観音(コース外)




高寺観音道標から北100m先の県道左側に寺嶋忠三郎誕生地の案内板と案内標識がある。案内標識に従って民家横の小路を入ると西原集会所の敷地奥に、刀山寺嶋先生之碑と忠三郎の絶命の詩碑がある。「刀山」は号名である。
寺嶋忠三郎は安政五年、一六才で松陰の弟子となり来嶋又兵衛の
遊撃隊参謀として、元冶元年七月十九日蛤御門の変に敗れ、鷹司邸にて盟友久坂玄瑞と差し違えで自刃した。昭和四十三年九月明治百年を記念して熊毛町史跡に指定された。

寺嶋忠三郎誕生の地の案内板 忠三郎絶命の詩碑 刀山寺嶋先生之碑
賊勢如潮砲雨飛
快哉我死予心達
日向草木秋将残
首陽猶期留晩暉
賊勢 潮の如く砲雨飛ぶ
快なるかな我が死心と達す
日向草木秋まさに残(そこなわ)れんとす
首陽なお期す晩暉を留めんことを
日のあたる岡の草木は戦禍で秋の風情が将にそこなわれようとしている。
しかし太陽を見ればなお夕日の輝きを留めようとしておる。私の忠誠心も
その輝きを留め必ず救国の大目的を達成させたい。

街道に戻り、高寺観音道標前の十字路から古風なたたずまいの西原街道の緩やかな坂道を西下する。南側古風な塀の屋敷はかって西原庄屋であったK宅である。この付近の街道南側は旧安田村である。100m下ると南北に横断する小路があるが、ここを北へ約100m入って民家の庭先を通ると小高い丘があり、大小の石仏像や五輪塔のかけらがある。この付近は(廃)報恩寺の境内寺嶋家累代の墓所で、その一角に「寺嶋忠三郎源昌昭墓」(遺髪墓・詳細略図参照)がある。裏面に「元冶甲子七月十九日於京師自殺 行年二十二歳」とあるが、「自殺」の文字が、何かしら生々しく感じる。右傍らに「陸軍中尉寺嶋直道墓」が寄り添うようにあり、裏面に「明治十年三月二十一日於肥後国山本郡植木口戦死 行年二十八歳」とある。ちょうどこの時期、西南戦争「田原坂の戦い」と並行して「植木・木留の戦い」があったが、この激戦で戦死したようである。死没した年と年齢から忠三郎の弟とおもわれる。激動の時代を駆け抜けた若き二人の霊を称え、合掌したい。

ここでお願いしておきたいのだが、ここの民家の庭先をゲルマン民族の大移動のごとき集団は遠慮したほうがいいとおもう。踏み荒らしや、リュックで庭木を損傷させる恐れがあるからだ。以前、他の地でこの種の大移動の苦情を聞き、折角尋ねたいこともままならなかったことがあった。ある程度の中庸が必要だ。せいぜい七、八人が限度だろう。小さな墓に眠る兄弟の霊も大集団に囲まれては永眠も出来ないだろう特に、古道、旧道筋では私道のようなところがあり(実際はそうではないのだが...。)、進入禁止の柵でも立てられたらかなわない。兼清の畑の中の史跡、「桜井」の人為的消滅は、これが原因であったとは思いたくない。山間部の獣道や山道なら大歓迎だ。

高寺観音道標と西原街道 (廃)報恩寺跡の石仏像、五輪塔等 寺嶋忠三郎(左)兄弟の墓
「調査報告書」に「呼坂社倉跡は、西原街道の右側に当たり、四〇m、現在は団地。地名は報恩寺という。」とあり、付近を何回か聴き取り調査したが、街道右側四〇mはどこも田で、団地らしきものもなく不明で、「報恩寺」という地名をご存知の方がいない。
この地名は、玖珂野口下の丈六寺跡を想起させられ、なにか胸騒ぎがする。どうしても知りたい。熊毛図書館で寺蹟関係文献をあさるが詳しいことが不明である。あきらめることにした矢先、偶然、街道沿い家並みの間から150m北付近に石仏像や墓石が群居している丘を見つけた。忠三郎兄弟の墓はこの一角で発見した。向かって一番奥の右端にある。
墓石横の民家の方は、他地からの転居者で地下の人ではないため、詳しいことは知らないそうだが、「この地は小字名、報恩寺といい、昔、寺があったらしい。熊毛町が数回調査したが位置不明なようである。渡邉 亨先生が詳しいので訪ねてみてはどうか」。という。
早速、渡邉氏を訪ねると、「(廃)報恩寺の詳細位置は不明で、もう少し北寄りであったとおもわれる。呼坂社倉の位置は専門外で知らない。ただ、「調査報告書」記載、東原の「呼坂御米蔵」跡地は間違いで、もう少し西の廃屋のあるところ。」と教えていただいた。
(渡邉 亨氏は、熊毛町史編纂委員で、高水神社・大歳神社宮司、日本考古学協会員)

呼坂社倉跡は、結局、そういうことで位置不明である。「調査報告書」によれば、「社倉」は、毛利藩の備蓄米を収納する倉庫で、献納米を蓄え、大飢饉その他、非常時以外出庫できぬ米蔵であった。
「御国廻御行程記」によると、忠三郎兄弟墓(廃報恩寺跡)の南西、鶴声軒本舗の少し裏付近の田の中に蔵があるので、これから推定するしかないようだ。道らしきものが描かれていないので、ここで採れた米を備蓄米にしていたのではあるまいか?

呼坂市取付きの鶴声軒本舗

(廃)報恩寺への小路から100m進むと右側に「八代の鶴」を模った木製看板を吊るした最中(もなか)製造販売の鶴声軒本舗があるが、ここから呼坂市である。「街道てくてく旅 山陽道」の原田早穂姫もこの店に立ち寄っているが、呼坂本陣早朝出発直後のためか、御賞味されていない。この店を一人で切り盛りしている若い女性は、いつ会っても明るい顔と声で挨拶してくれる。まるで無垢な鶴の鳴き声のようである。(おまけに別嬪さんです。)「鶴の巣籠り」という最中は鶴が籠っている形をしていておもしろい。昔は鶴の飛来地、八代で営業していたそうである。

特別天然記念物「八代の鶴」は、毎年10月下旬から3月上旬まで、本州ではただ一ケ所、八代盆地に「ナベヅル」が飛来する。1948年の355羽をピークに年々減少し、最近では6羽前後に減っている。


呼坂の取付き、
新町の右手に橿原神社参道がみえてくる。当初は、紀州熊野大権現の分霊を勘請して王子権現といっていたが、明治元年の太政官布告で権現は仏道であるゆえ廃止となり、神武天皇が東征の砌、呼坂に一泊した故事から、明治六年橿原神社(かしはら)と改称した。神武天皇(神倭伊波礼毘古尊)だけを祀った神社は全国でも珍しいといわれる参道の右側、街道北側角地に「春定」の札場があった。

鶴声軒本舗の鶴の看板 「鶴の巣籠り」 橿原神社

呼坂本陣と正面に古市坂

街道左手、古風な門構えの建物が呼坂本陣を勤めた大庄屋河内家である。本陣を引請けたのは、天明年間(1781〜1788)からで、江戸末期まで続いた。多くの「大名御休札」や貴重な資料が残されている。記録によれば、細川越中守忠興の行列は千七百名であったという。呼坂や西原の民家は大変だったろう。参勤交代に当たっては、代表的宿場街である高森を控え、花岡との中間点であったため、大休止に使われることが多かったのではないかとおもわれる。街道脇に立派な案内板があるので、ゆっくり読むことにしよう。


   

「薩摩宰相休」

「久留米少将休」


本陣前の案内板 大名御休札(下松市E氏撮影)

この付近から街道の突き当たりに古市坂の小高い丘がみえてくる。呼坂本陣を過ぎて、中村川の手前北側に古風で風格のあるK氏豪邸があるが、ここはかって漢方薬店を営んでいた。

呼坂の中央を南北に流れる中村川に沿って枝往還を南へ向かうと、安田を経由して熊毛宰判勘場のあった小周防から南へ柳井、西へ浅江に通じている。藩政時代、呼坂御米蔵の余剰米は安田経由島田川を浅江川口迄船で運び、ここから本船で瀬戸内海に面した室積米倉庫へ陸上げした後、「運送米」として海運で大阪市場へ送っていた。この先、
松屋小路向いの山田屋商店裏付近に米蔵があったので、ここから中村川を下ったのかもしれない。



中村川のかっての土橋
、「呼坂橋」を渡ったところから呼坂西町で、左側、橋から二件目の宅地が木戸光允(桂小五郎)の祖父で、この地で医者をしていた藤本玄盛(げんしょう)旧宅があったところである。2009年10月、サーバー転送前にこの付近を車で流したが、旧宅跡地の特徴ある建物は取り壊され家屋新築中であった。所有者もT氏からH氏に変わり、近代的な住宅に様変わりしている。

呼坂橋と西町の街道 藤本玄盛旧宅跡地の旧T宅は取り壊された。 → 新築H宅   


藤本玄盛旧宅跡の斜め向かいに吉田松陰・寺嶋忠三郎訣別の地があり、案内板と師弟の訣別の歌碑が建てられている。安政六年(1859)五月二十五日野山獄を網駕籠で護送役人とともに出発し、「涙松」の地で萩城下と最後の別れ。五月二十七日呼坂宿の馬建場の前で小休止した際、郷里に帰っていた忠三郎は、久坂玄瑞からの知らせにより松陰の駕籠を見送ることができた。物々しい警戒振りのなか、師と会話することなく思いをただ歌に託するだけであった。この日、松陰は高森泊。翌二十八日小瀬川を渡る。
「調査報告書」記載の両者の歌の最後の部分と歌碑は多少違う。六月三日呼坂通過とあるは、五月二十七日の間違いでは?また、石碑にある松陰の歌碑は、何故か一部変えられているようである。 ここは、重要なポイントだ。感激に浸るため、ここまで越境して来たのだが素人にはよく判らない。検証に追われていると、関戸越えや小瀬川畔のような感動が薄れていく。これ以上追究するのはやめておこう。

呼坂にて人の陰ながら 見送りける時

かりそめの 今日のわかれぞ さちなりき ものをもいはば 思いぞまさん             松陰

よそに見て 別れゆくだに 悲しきを 言にも出でば 思いみだれん                忠三郎

            (「涙松集」・「吉田松陰全集第六巻」)

松陰・忠三郎訣別の歌碑から少し西、街道北側の古風な玄関と塀の大邸宅が旧庄屋宅で屋号を松屋という。松屋の一軒手前から街道を南北に横断する小路があるが、北へのびる道が松屋小路で、昔はここから佛坂を経て、八代へ続いていた。呼坂宿市戎は松屋小路の入り口手前北側角にあったが、往還改修の際、街道南側の山田屋商店の中庭に移転したそうだ。頼めば小路横の裏木戸を開けて拝ませてくれるが、庭の樹木が近くに茂り写真撮影もままならない。ここは山田屋商店横の小路から塀越しにうかがうことができる。
ところで、
「御国廻御行程記」には山田屋商店の少し裏に米蔵が描かれているが(実際は押判彩色のようです。いちいち描いていたのでは手間です。現代のコピー・ペーストと一緒です。「慶応の岩国領内全図」もそのようです。)、名前が記載されていない。ここからなら中村川へも近い。ひょっとして....?とおもったが、ここは報恩寺と呼ばれる地ではない。

山田屋商店中庭の市戎 街道右側の松屋と正面に古市坂


呼坂宿西町の端に、
真宗萩尾山西善寺がある。天正四年(1576)三月創建、天明年間(1781〜1789)より脇本陣を勤めた。門徒数も多く格式高い寺である。
呼坂の
高札場は正善寺の参道入り口付近四差路の右側にあった。交差点西南角地に屋号を札屋というN宅があるので、N宅真向かいの地とおもったが、「調査報告書」に街道右側、西善寺参道入り口の民家付近とある。「御国廻御行程記」によると当時の往還には四差路はなく、現在の交差点右側付近が高札場になっている。札屋N宅も少し西へ移転したのかもしれない。往還はそのまま古市坂へ続くが、旧国道二号線はここから古市坂を避けて右折し、北へ大きく迂回していた。後に開通のJR岩徳線は、この旧国道の上をガードで上越ししている。

西町の西善寺 西町端の十字路手前付近・正面に古市坂


街道は
西善寺前の十字路を西へ向け直進するが、ここから先が古市で、急傾斜と急カーブの坂道になる。この古市坂は通称コックリ曲がりと呼ばれ、その形態が「えび」の形に似て「えび坂(海老坂)」、転じて「よび坂」になったといわれる。また、一説に、昔、古市坂から送り出す人馬を呼び出していたので「呼坂」という名がついたとも伝えられる。応安四年(1371)今川了俊が九州探題として下向した紀行文「道ゆきぶり」に、「はるばると越え過ぎ行きて、えび坂という里の寺の侍りしに泊まりぬ。」とある。

「調査報告書」によると、この古市坂は欽明路峠、中山峠とともに交通の難所で、距離は短いが人力車も客に降りてもらっていたそうだ。旧陸軍の秋期演習では、馬四頭建ての砲車、野砲や六頭建て重砲の軍馬が大変難儀をしていたそうだ。ある年、馬一頭が倒れ、死んでしまったこともあったそうである。距離は短いがとにかく急坂、急カーブである。

天正三年(1575)島津家久の伊勢参り旅日記「家久上京日記」三月二十二日に、「やかてあの岡(花岡)といへる町を過行て、窪(窪市)といへる町を通り、かふすかた(甲ケ峠:垰市)をといへる町を過行、海老坂といへる町をかゝみ通り行ハ、(後略)」とあり、身を屈めるような急坂と記す。
(本項2015.02.28追加)

古市坂頂上から東方向を振り返ると、西原、呼坂の町並みと城山、平家ケ峰や清尾山の夫婦岩を遠望できる平家ケ峰(300m)の左手前に小山があり、その山裾が左に下がった付近に小さなピークがわずかに見えるが、これが中山峠北ノ方狼煙場(170m)とおもわれる。このピークの左背後に向か峰(232m)が、さらに左、遠方に小さく見える頂上部が椙杜氏居城の蓮華山(576.4m)だから、間違いないとおもう。地形図上では古市坂から「熊毛図書館ビル」越し直線延長上に、中山峠北ノ方狼煙場がある。ここから眺めても、狼煙場は遠く見え、手前の正覚寺裏山の寺山狼煙場が一体的に使われなかったのかどうか、若干疑念がわく。
(狼煙場関係詳細は前頁の中山峠参照)

古市坂のコックリ曲がり 古市坂頂上から東方向をみる


古市坂を西へ下りきった付近の街道の直角左折箇所と国道二号線との関係については、サイト開設前に解明しておかなくてはならない事項の一つであった。一年ぶりの再調査で、幸いにも古市坂を上った付近で初老の佃さんという方に出会い、貴重な話を伺うことができた。

先ず、古市坂を上りきると左側に
悲願堂がある。これは比較的新しく当初は無視していたのだが、佃氏に案内してもらい説明をうけると古市坂を語るに避けて通るわけにはならないことがわかった。古市坂悲願堂は、ハワイ移住で財を成した当地出身の篤志家が帰国後、昭和55年に両親を供養するため観音堂を建立した。数体の観音菩薩のうち、中央に大きく聖観世音菩薩が、右端に馬頭観世音菩薩があるという。なるほど、近くでみると牙を剥いた忿怒相の観音像頭部に馬を乗せている。「ウィキペディア」によると、本来は、無明の重き障りを大食の馬の如く食らい尽くすという。民間信仰では馬の守護神や道中の安全を祈願しても祀られている。これは、古市坂で難儀をしたり、死んだ馬を供養したものだそうだ。大きな口をあけた大食馬とは趣が違い、安らかに眠っている。篤志家はすでに故人となっているが、地区住民は毎月18日に正善寺住職を招き手厚い供養を続けている。古い史跡が失われていく一方で、こうした新しい史跡が生まれていく。感慨深い。

古市坂悲願堂 右端の馬頭観世音菩薩

旧跨線橋から西方向をみる
跨線橋から東方向をみる

街道は古市坂を下り国道二号線に突き当たってから、横断せずにその手前を急角度で左折するが、佃氏の話では、この付近は、JR岩徳線の古市坂トンネルの真上付近で、鉄道は現在の新国道と並行して地下を走っているが、昔は、鉄道線路は左右の高台を開削した掘割状に敷設されていて、街道は古市坂を下る付近から竹藪の山裾を緩やかに左カーブしていた。従ってここに踏切はなかったそうだ。また、西町の西善寺前から北へ向けて古市坂を迂回して作られていた戦前からの旧国道(大正初期頃開通とおもわれる。)が鉄道北側沿いにあった。


この付近の形態が大きく変わったのは、昭和二十年の台風豪雨の際、街道左側の竹薮の山が崩落し街道と鉄道を潰した。その後も次第に地滑りを起こし始めたため、鉄道は現ルートのままアーチカルバート状に上を覆ったトンネルになり、旧国道は北へ大きく迂回したそうだ。昭和三十二、三年頃新設の現、国道二号線新道は、崩れた竹薮の一部を切り取り、直線状につけられている。
古市坂から鉄道を横断して北側へつながる道は、古市坂を下る付近右手に間道があり、今は不用となった鉄道越しの小さく古びた旧跨線橋に続いている。



跨線橋の下は畑になっていて、東方向をみると鉄道線路と旧国道二号線の関係がよくわかる。近代になって旧国道は西善寺前、高札場跡付近から古市坂の難所を避けて北へ迂回し、途中から大きく西へ蛇行していた。昭和九年開通の岩徳線は旧国道の上をガード越しをしている。

佃氏は旧跨線橋の上から説明してくださった。道路略図を記入した東西方向の写真は、ここから撮影したものである。ここでも昭和二十年九月の
枕崎台風が道筋や鉄道の形態を大きく変えたとは思いもよらなかった。




この先、街道は鉄道の左側を通り、途中ボックスカルバートをくぐると右手に
大江踏切が見えてくる。踏切を渡ってすぐ左折し、しばらく進むと国道二号線と合流する。合流点左側にスーパー「ピクロス」がある。この付近から先が勝間で、ここから久保付近にかけては旧山陽道沿い、即ち、旧国道二号線に沿って新しい国道二号線がつけられているため、国道と重なったり、蛇行区間が国道によって寸断されている箇所が散見される。大江踏切付近で出会った90歳になる古老の話しでは、岩徳線は昭和九年、新国道は大正の始め頃の開通であったそうだ。

この先、ボックスカルバートをくぐると大江踏切がみえてくる 大江踏切を渡って直ぐ左折


勝間の中心、旧道筋町並みに入ってJR勝間駅前交差点を右折すると、国道二号線の北側に熊毛神社がある。参道両側に石燈籠が続き大鳥居は元禄十四年(1701)の建立である。周防の国でもっとも古い神社の一つで、当初は羯摩八幡宮(かつま)と称していたが、豊臣秀吉文禄元年(1592)三月朝鮮出兵の途次、近くの御所ケ原に陣所を設けた際、当社に参拝し戦勝祈願し羯摩の名を勝間と改称させたという。秀吉は、帰途再び勝間八幡宮に立寄り、戦勝祝いの礼として諫鼓踊(かんこおどり)と太刀、神馬を奉納したといわれる。明治三年、熊毛神社と改称。諫鼓踊は、七年目ごとに秋の例祭(十月十一日)に奉納され、山口県無形文化財に指定されている。




勝間の国道合流点と御所ケ原の森

勝間の西端から街道は再び国道二号線と合流するが、この付近の国道越し北に小高い森が見えるが、ここは秀吉御所ケ原陣所の南端部にあたる。御所ケ原の地は、現在御所尾原団地になっている。この先、御所尾原団地入り口信号機を北側へ渡ると、国道北側に旧道筋がわずかに残っているが国道南側をそのまま進んだ方がいいだろう。



国道をしばらく西下すると、岩徳線を斜めに上越し交差して、ここから鉄道は街道(国道)の北側を通るが、この付近が
鳴水峠(なるみず)で、国道と鉄道によって幅広く掘り割られているので峠の面影は全くない。鳴水峠から先が藩政期の大河内村(おおかわち)になる。国道南側を西下した旅人は、鳴水峠の先、スーパー「ミコー熊毛店」横の交差点信号機を渡り、国道の北側歩道を西下する。
この付近にも旧道筋の一部名残りを確認できる。

   
国道南側を西下した場合はミコー前交差点から北側を進む   旧道筋名残り   


遠見の旧道入り口と小林(塚の本)宅

遠見の一里塚「安芸境小瀬より是迄八里。赤間関より是迄弐拾八里。」は、遠見の交差点から旧道筋に入って直ぐ右手の民家小林宅前付近にあった。「調査報告書」では街道左側とあり、そこには現状畑の広い空地がある。屋号「塚の本」という小林さん(老婦人)に街道沿い土塀の角地を案内してもらったが、ここは街道右側になる。石ころを重ねた4、50センチ四方の極小さな塚があったというが、これはどうも違うようだ。この一角はスペースも狭い。一応、街道両側を写真撮影したが、後日、熊毛図書館で「熊毛町史」添付の「地下上申絵図」で確認すると、街道左側(南側)に一里山が描かれていた。小林の老婦人のいわれる小さな石塚は何だったのだろう。明治九年内務省令を以って各街道一里塚適宜撤廃を諸国に令達、無害有益なもののみ存することとなったが(注)、このとき家人が塚石の一部を移設したのかもしれない。安芸境の一里山から、ここで初めて街道左側の塚山ということになる。そういえば、高杉晋作の足跡を求めて「吉田清水山・東行庵」を訪れた際、吉田市尻の一里塚跡は街道南側だったとおもう。地形も多種多様なので特に統一はされていなかったのだろう。
(注)太政官達書「城郭存廃令」(廃城令)は明治六年。萩城は立場上、率先垂範明治七年取り壊される。



遠見の旧道は通行可能である。
遠見の一里山の先、竹薮の廃道を進むと鉄道敷法面に突き当たるが法面に沿って約15m下ると岩徳線ガードの東側で国道に合流する。合流点付近は常時雑草が茂っていることが多いので足元に注意。この先、ガード付近から大河内方面にかけての街道は岩徳線によって取り潰され跡形もなくなっている。この付近の人の話では旧道筋の名残の一部が鉄道の南側に残っていたが、現在は消えてしまい、通行できる状況ではないそうだ。念のため、ガードの南側を法面に沿って斜めに鉄道敷迄上がってみたが、鉄道南側沿線は笹や雑草が群生していて通行はおろか道筋を見つけることも出来なかった。

遠見の旧道と小林宅土塀(左)一里塚跡 旧道竹藪(廃道)を進む 鉄道ガード東側で国道に合流


岩徳線ガードをくぐると、ここからは国道の南側歩道を進む。この付近には信号機がないので、遠見の交差点まで戻って道路横断するか、左右を確認して不法横断せざるを得ない。
御腰掛茶屋駕籠建場は、この先国道左(南)側の自動車販売会社の車両置場南側高台の鉄道敷法面下側にあった。昭和の始め頃まで茶屋をしていた屋号柳屋という角戸氏は、近傍の団地へ引越して跡地は雑草や蔓が生い茂って荒れている。
この先二件の古い民家があるが、ここの中年の女性Sさんは、わざわざ現地案内をしてくださった。幼少の頃には、小さな腰掛石があったそうだ。手前の一軒、K氏宅は現在空き家になっているが、K氏の先祖は、岩国吉川氏の小姓をしていたそうだ。Sさんが祖父に聞かされた話では現在の国道ルートも明治の末期にはあったらしく(あるいは、大正初期頃か?)、レベルは現在の民家と同じレベルで低かったそうだ。この付近は鉄道の直ぐ南側に細い旧道があったらしい。この二件の民家の玄関先は、どちらも南側を向いている。

ガードをくぐると自動車置場がみえてくる 御腰掛茶屋跡(背後は鉄道敷法面)


大河内村之内弓矢か迫山
狼煙場(熊毛宰判)は、この先山陽自動車道北側、郡境の153.1mの三角点頂上部にあった。御腰掛茶屋跡からしばらく西下すると国道北側に夢ケ丘団地入り口信号機があるが、この少し手前から北西方向をみると、国道沿い民家の屋根越しに手前の山の頂上部の左後部にわずかにピークの先端を視認できる。井上 佑氏の調査文献によると「弓矢か迫山」狼煙場から次の切山村之内鞍懸山狼煙場(都濃郡)が大きく北へ街道をはずれているのは、「弓矢か迫山」から末武村之内城山狼煙場(都濃郡)が直接見えないためだそうだ。

大河内村之内弓矢か迫山狼煙場は、「調査報告書」巻末地形図にプロットされているが、この付近には小ピークが多く、井上佑氏の文献から位置を特定することが難しく、一旦はあきらめたのだが国土地理院作成地形図の等高線を頼りに現地調査を含め、誤認を繰り返したあげくようやく特定し、街道から視認することも出来た。弓なり状のピークがそれである。浴や谷の古地名・俗称名が詳細に書き込まれている「岩国領内全図」の有難さが身にしみた次第。

左から、山陽自動車道高架橋、夢ケ丘団地入り口信号機、弓矢か迫山狼煙場跡

JR大河内駅と柳井道・「相ノ見越」終端

夢ケ丘団地入り口信号機を過ぎた付近から先が大河内村字で、山陽自動車道高架橋をくぐると国道の左下にJR大河内駅が見えてくる。大河内駅の西横に踏切があるが、これが枝往還柳井道で小周防経由柳井市に通じている。

ここは、「徒然草 独歩」にとって極めて重要なポイントで、玖珂庄二井寺山の西山麓から兼清、小周防経由、ここから花岡へ通じていた
山陽古道「相ノ見越」の終端に当たる地点である。このポイントを確認するために、わざわざ玖珂庄から越境してきたのだ。略図に記載した古道の破線は、あくまで現状道の上に記入したものである。
この付近からPCサイトも容量オーバーぎみで、一歩、二歩前進するのも苦しくなってきたが、郡境塚は直ぐ先だ。もう少し頑張ろう。



三宅九内父子顕彰碑は探すのに苦労した。国道を二回往復しても不明で、もちろん国道の北側にも目配りしたのだがわからない。ひょっとして、岩徳線沿いが旧道筋では?と疑い、国道下の大河内駅前後の鉄道沿線を調査したが見当たらない。「調査報告書」に写真が未掲載なので、顕彰碑の形態も不明である。おまけにこの付近の国道沿線の植樹帯には大きな自然石が数多く配列設置されていて、これの裏表にも目配りしなくてはいけない。ついに時間切れである。半ばあきらめながらも、後日、もう一度調査することにした。垰交差点付近の片側三車線化と地下道建設工事が七、八年前完成したのを思い出したのだ。

垰交差点地下道を北側に渡って運良く出会った民家の奥さんに聞くと、交差点の少し北西にあったが、拡幅工事の際、民家右横の小高い丘の中腹に移転したという。階段があるので上がってみると確かにあった。「三宅両君碑」とある。話によるとこの付近の旧道は現在の拡幅された国道の上り線の中央車線付近にあって、前後は多少の蛇行をしていたそうである。戦後、直線的に拡幅改修が何回か繰り返されている。ラッキーなことに、地下道には諫鼓踊のイラスと説明板パネルが掲示されていて、「かんこおどり」とある。漢字の読みと踊りの形態をある程度想定することが出来た。
後日、旧熊毛町兼清の郷土史研究家と雑談した際、彼曰く、「墓碑や招魂碑ではあるまいに、建設趣旨を考えると、なんであんなところに持っていったのか。それにしても、あんな重たいものをどうやって運んだのだろう」。まったく同感である。垰交差点北側には十分すぎるスペースが数箇所ある。いつの日か忘れられ、竹薮に覆われてしまわないよう願わざるを得ない。

三宅九内は大河内領主粟屋氏の家臣で漢学に優れ、享和二年(1802)、粟屋帯刀親睦が、大河内に創設した「敬学堂」の学頭を勤め、仁義道徳をもって、郷土士庶の教育にあたった。九内の子次平も父の跡を継ぎ敬学堂の教育に専念した。
明治になって敬学堂は閉鎖されたが、次平は、垰の自宅を家塾として多くの人材を輩出した。
三宅九内父子顕彰碑は、門人たちが両氏の遺徳を偲び、明治四十三年建立された。

下の写真、垰交差点から北を眺めれば、正面民家越しに見える弓なり状に先の尖ったピークが弓矢か迫山狼煙場(熊毛宰判)である。ここは、「三宅両君碑」への道筋のことばかり考えていたのだが、サイトに貼り付けた写真を眺めていて偶然気付いた。地図上からみてもあの位置になるので間違いない。(2010.12.29追加)

垰交差点北側民家の右に階段
民家越しに大河内村之内弓矢か迫山狼煙場
垰交差点地下道の「諫鼓踊」パネル 三宅九内父子顕彰碑


垰交差点からしばらく国道左側を西下すると、植樹帯に郡境標示碑が見えてくる。高さ1.5m。「東 周防之国熊毛郡」、「西 周防之国都濃郡」、「明治十九年十二月建設」とある。「調査報告書」には、後年、自動車事故により壊滅したので再建されたとある。ここは勝間峠と呼ばれていたらしいが、峠の面影はない。

ここまで、仕上げてパソコン横のTVをみると、奇しくも「街道てくてく旅 山陽道」の原田早穂姫君は、感動に咽びながら平城宮跡朱雀門に到着していた。2009年11月13日のことである。
こちらは、もう少し西へ向かわなければならない。弓矢か迫山狼煙場跡を確定するため、次の切山村之内鞍懸山狼煙場を確認しておかなければならないからだ。



郡境標示碑の先から、街道は国道の南、旧
切山村垰市の家並みに入り、再び今は県道となった旧国道二号線を斜めに横断するが、ここから逆に北東方向を見ると垰市国道交差点越しに大河内村之内弓矢か迫山煙場(熊毛宰判)を確認できる。旧山陽道は垰市(甲ケ垰)を過ぎて二ノ瀬の坂を下り、窪市、花岡へと続く。

切山村之内鞍懸山狼煙場(都濃郡)ここから次の末武村之内城山狼煙場(都濃郡)を見通すため、街道から大きく北へはずれている。切山八幡宮北西の鞍懸山は標高174mの低い小ピークのため街道から視認できない。当初、JR周防久保駅前から北東方向の小ピークを誤認していたのだが、手前の山が邪魔して街道から確認できる高さではない。写真を差し替え訂正。
切山八幡宮手前の切山バス停付近まで足をのばすと斜め左に標高174mの
鞍懸山を視認できる。井上佑氏が実査した時点では新幹線難視聴対策用共同アンテナがあったらしいが、現在はケーブルTVに移行して撤去されている。ここは完全にコース外。
(本項、2010.08.27追加訂正更新:サイト開設1年も経って、鞍懸山狼煙場を中心に前後の「弓矢か迫山」と「城山」を実査された90歳を越える河村氏に出会えたことは、幸運であった。巻末「日々是見聞録」参照。)

垰市の県道斜め横断箇所から北東方向 切山バス停から北西方向(コース外)


末武村之内城山狼煙場(136.2m)は、北西に次の久米村之内との山狼煙場(都濃郡)を見て、JR生野屋駅を過ぎて花岡市の街道の広い範囲で南方に見ることができる。西麓には「調査報告書」記載の山添招魂社(維新戦没者一三柱)があり、巻末添付地形図に招魂社がプロットされているのでこれから判断されたい。
また、井上 佑氏の調査文献によれば、「との山」狼煙場は「殿山」(63.4m)ではなく、さらに西の
「天神山」(89.9m)が「との山」狼煙場だそうだ。殿山は低くて前後の狼煙場が見えないそうだ。花岡を過ぎて久米市の北方、鼓ケ浦整肢学園(こども医療福祉センタ)の直ぐ北東裏の鉄塔のあるピークが「天神山」で西側には久米天満宮がある。
最終頁に西方面ルート図、「周防国西部〜赤間関ルート図」を作成掲載したので、これを参照されたい。

名残り惜しいが、周防国東部の一人旅詳細ははここで完結である。  
  引き続き赤間関、大宰府を目指す旅人の道中安全を祈りたい。


今後、「追記」と「後書き」の頁を予定していますが、少し休憩します。



*「日々是見聞録」・「周防国西部〜赤間関ルート図」として再開しました。

日々是見聞録
周防国西部〜赤間関
    ルート図へ