玖珂天神~高森天満宮 |
山陽古道「相ノ見越」・「椎木峠越」・「差川湖水説」の詳細は次頁以降記載。
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慶長五年(1600)九月の関ケ原の戦いの後、中国八カ国から防長二国に削封された毛利輝元(十月隠退し幻庵宗瑞・初代萩藩主は嫡男秀就)は、毛利両川のうち小早川継承(小早川は無嗣断絶)の輝元養子の秀元には長府、宗家存続に尽力した吉川広家には防長の東部の要として玖珂郡岩国を中心とした地を与えたが、最終的に寛永二年(1625)と二十年(1643岩国領検地)の二度にわたる寛永検地によって給領地配分石高が確定している。
また、慶長五年分の旧領地先納米について各新領主への返納問題、六カ国返租問題が発生し、これについて特に広島に入った福嶋正則が強硬で、福原広俊、益田元祥、長府椙杜氏や岩国香川氏らが初期対応に苦慮しながら、辛苦の検討と対応をしている。最終的に旧六カ国知行主のみが返納すると有力家臣が多かった防長二国知行主が得をするため旧八カ国地行主が平等に返納することとし、各国返租責任者を定め、返納奉行の総括責任者として益田元祥と熊谷豊前守元直が当たった。特に佐世元嘉が直接宗瑞の意向を受け、これを直接取り仕切る。返租方法は配賦された知行の内から返納することになったが、足らない分は現石高分の武具のみ残し余分を売却して充て、さらに足らない分は借り入れ返済で対処することにし、藩御用達大阪大塚屋や藩の蔵からも借り入れしているようである。慶長六年正月に村上大和守武吉(能島村上水軍)は、周防大島知行一五〇〇石のうち五〇〇石を福嶋正則返石引当てとして藩が預かり一〇〇〇石を知行として得ている。吉川広家は出雲・隠岐の堀尾氏宛返納米一万五〇〇〇石を何度かに分けて合計銀子七一貫余と米二一〇七石余を慶長九年七月五日に返納、皆済している。返納出来ず、知行地返上・召放ちとなった者もいたが、大半は六年から分割払いで九年には皆済し、一時期返納目途もなく二カ国返上も考えた宗瑞やこれを支える福原ら家臣にとって、居城選定・築城普請時の家中内紛(*萩築城五郎太石事件・詳細略)等、多難な船出であった。
*この事件により、天野隆重嫡男元明養子天野元信一族は熊谷元直と共に誅殺され、安芸志和堀天野氏は厳密には断絶するも、隆重五男元嘉は久田・午王内・中曽根・長野・樋余地・久原(一部)を知行(のち一斉領地替えにより久田・長野の二村に減)。天野隆重・元嘉夫妻墓は通化寺にある。
「追記」・慶長5年9月関ヶ原の戦、西軍敗れる。輝元、家康と和議を結び大阪城を出て伏見木津に移る。・10月輝元・秀就親子、家康から防長二国を受領。輝元隠退し宗瑞と称す。・11月秀元を長府、吉川広家を岩国に分封し、一門以下諸士に知行配布。・12月兼重元統・蔵田就貞、防長両国の石高を検す。・慶長7年(1602)春、吉川広家横山に居館を普請。この年、秀元長府に雄山城(串崎)を築き移住。・慶長8年(1603)10月輝元(宗瑞)、許され蟹が淵上陸、山口仮住居に入る。・慶長9年(1604)2月輝元萩指月山築城を許可される。11月輝元(宗瑞)、萩城未完のまま入城。・慶長13年6月萩城竣工。この年岩国城も竣工。・慶長15年三井元信・蔵田元連防長両国の検地を完了。・慶長17年11月毛利秀就防長両国内を初巡視。・元和元年(1615)5月大阪城陥落、豊臣氏滅亡。・閏6月一国一城の令。山口高嶺城・岩国横山城・長府串崎城の3城破却。・元和3年4月輝元次男就隆に都濃郡のうち3万石を分知、徳山藩創立。・寛永元年(1624)12月熊野籐兵衛、防長両国の検地に着手、翌年8月完了。両国合計65万8千3百石。うち長府藩8万3011石余、徳山藩4万10石余、岩国吉川氏領6万1石余。・寛永2年4月輝元死去。・8月検地完了後一門以下諸臣の一斉領地替を行う。(慶長5年の検地は関ケ原敗戦を予想していない。また、慶長15年の検地は12年に着手されたが、これを不安、将来の過重な負担を恐れた山代東北部の農民は慶長13年11月山代城山一揆を起こすが鎮圧弾圧される。)
注:蔵田就貞・蔵田元連:就貞は、大永三年(1523)尼子氏と傘下の毛利元就らに攻められ自害落城の大内氏安芸国拠点東西條鏡山城の城番(城衆)蔵田備中守房信の次男。元連は備中守房信の長子房貞の嫡子。鏡山城の戦いで自害した備中守房信の末裔房貞・就貞兄弟は、二年後大内義興・義隆親子大挙出動、大内氏に再傘下の元就ら安芸東西條奪回ののち陶晴賢大内氏に謀反のころ毛利元就家来として召抱えられ、輝元防長移封に従い萩藩士。就貞は別に天正十五年秀吉「九州征伐」のとき下関渡海奉行を務める。
(本項、周防国道前三尾城在番「蔵田冶部少輔教信」関連(通化寺の項で後述)から2012.09.23追記。)
狭い領地を親藩同士の石高調整のためか、村わけ転属や村の新設を自在?に実施しているため、領域境となる玖珂盆地は領地が複雑に入り組んでいて、それは椙杜(久原村)の宿場街(高森市)や玖珂の阿山市にまで及んでいる。千束や上市の街道片側で領地が違うのは年貢上納の道を確保するためであったという。街道筋以外では、牛王内、用田、川上、妙見谷、須通、その他の各村が生まれ吉川領となっている。差川村北方の本藩領長野村にいたっては中間に岩国領須通村があって分断され、更に西側に須通村があるといった具合で大小の飛地領域も多く複雑である。大幅に削封された毛利一族の辛苦の状況がうかがわれる。
玖珂盆地では玖珂本郷、祖生郷、椙杜郷(すぎのもり・久原村)のほぼ全域が吉川氏に宛がわれたのであるが、椙杜元縁は、毛利輝元の命により長府藩筆頭家老として椙杜郷を離れ、広家組の繁沢元氏(はんざわもとうじ)、天野氏(志芳堀天野氏)、吉田氏三家に椙杜と玖珂本郷の一部が渡される。この結果、椙杜の地名は細分化し廃れていく。繁沢氏ら三氏はのち寛永年中に本藩に属す。
注:毛利両川のうち吉川元春は天正14年(1586)九州征伐に豊前小倉で病死、元春嫡男元長も翌15年6月日向国において病死。二男の元氏は周防(仁保荘)三浦氏祖平子氏の養子となり、のち繁沢元氏。寛永三年北浦阿川に領地替えとなり阿川毛利祖となる。天野、吉田両氏も長く続いた吉川組下から本藩に属することになる。この結果、高森市中心部は本藩領となる。吉川家を継ぎ初代岩国藩主となる吉川広家は三男だが正室の子。吉川広家は「関ケ原の戦い」のあと大阪・伏見にあって毛利輝元の保全に奔走、慶長6年8月ようやく暫時の寄留地由宇に入り岩国を検分、翌7年横山に土居を築造し政庁を開設、岩国城が竣工するのは13年のことである。広家の次男就頼は長府藩一門家老である熊毛郡大野村(現、平生)の大野毛利祖となるが、差川村差川をも知行。
高森の宿市街は東端部の要衝の地として本藩領とされた。また、この地の萩本藩領は熊毛宰判の管轄で勘場は小周防(こぞう・光市)にあった。
「慶応の岩国領内全図」を参考に略図に本藩領と岩国領域を色分けしてみたが、飛地領域はあくまでアバウトである。
注:萩本藩では、十八行政区を「宰判」といい、その役所を「勘場」といった。首長を所務代官と称す。岩国領(岩国藩)では、領内を山代(のち藤谷組)、河内、玖珂、由宇、柳井の五組と岩国(城下の玖珂・柳井・米屋等、錦見七町。のち新小路・川西等含め十二町)・柳井(柳井津地区を中心に辻小路・金屋町・新市等十二町)を町制とし、各組には代官所、二町には奉行所が置かれ代官所を兼務した。玖珂組の代官所は玖珂本郷に置かれた。(椙杜郷のうち妙見谷・川上は河内組に属す。)
(参考)巻末掲載の付4:「長州藩(萩藩)領内地図(各宰判・支藩別)」
玖珂天神(菅原神社)から1.6Km西の東川(ひがしがわ)まで(詳しくは、東川橋を渡って約30m西の小路まで)、街道を挟んで北側は岩国領玖珂本郷村(阿山・千束)、南側は萩本藩領椙杜村、のちの久原村千束(周東町下久原千束)である。現在は、玖珂の千束と区別するため周東千束とよばれている。
玖珂天神の前から西へ50m下り、山陽古道「相ノ見越」の起点となる「清綱」分家横の小路を南へ下がり、市道第二千束線を150m西下すると北側角地に広い畑があるが、ここが鎌倉、室町時代の周防の刀工二王清綱の住んだ二王屋敷跡で、畑の西半分角地には大正の頃まで二王氏の子孫である「清綱」本家があった。
二王屋敷跡(現状畑)には、平成24年5月17日元岩国市教委周東支所長M氏の厚意により簡易標柱「刀工仁王清綱屋敷跡」が新設された。(2012.05.17追記)
道を挟んで畑の真向かいの南東側小路の宅地入り口には清綱淬水の井戸(標柱なし)があり、現在は冬場は涸れるが清綱川の源流となっている。この地は小字名「東清綱」で、もう一箇所西南150m付近に淬水の井戸があったが住宅建設時に潰されている。この付近から島田川にかけては蓮華山、鞍掛山付近の伏流水がいたるところで湧き出てくる地でもある。
二王屋敷前から北方面に、左から大内氏時代の椙杜氏居城蓮華山と大内三家老の一人であった杉氏居城鞍掛山を遠望することができ、北東方向には、民家の屋根越しに野口山狼煙場(岩国領)の高圧線鉄塔と小ピークの関係を確認できる。
「岩国領内全図」によると、この付近は岩国飛地領域で、二王屋敷跡前の市道付近から南方面の一部が飛地領に該当するようである。「玖珂郡志」の水類に「清綱水。往還の南、久可千足の内、道徳にあり。仁王清綱、刀を打し所也と云。其時の淬の水也。此所萩領と丈牙地と云へども、水は御領の内也。」このあと、『小早川隆景事状』の二王屋敷、黒田長政借用申し出の件を断る記載があるが、後述メモと重複するので省略する。「道徳」の地名は今はなく、淬水の井戸から南30mのところに、かって大地主であった「道篤」という名の農家があるが、ここも「東清綱」である。この付近は水が豊富なところなのに、水かけ論のようで面白い。
玖珂天神、西50m「相ノ見越」起点 | 二王屋敷跡(現状畑)・畑の中央から左側清綱本家跡・蓮華山と鞍掛山 二王清綱屋敷跡に新設の標柱(2012.05.17新設) |
清綱淬水の井戸 | 野口山狼煙場と高圧線鉄塔を遠望 | 山陽古道と下久原千束旧庄屋宅 |
かなり以前に整理したメモがあるので、一部重複するが紹介しておく。
(参考):玖珂郡志「玖珂組・玖珂本郷」の内「水類:清綱水」全文
「一 清綱水。往還ノ南、久可千足ノ内、道徳ニアリ。二王清綱、刀ヲ打シ所也ト云。其時ノ淬ノ水也。此所萩領ト丈牙ノ地也ト云ヘドモ、水ハ御領ノ内也。(按ニ目利書ストアリ不審)仁王、代々吉敷ニ住。『小早川隆景事情』ト号スル書ニ、黒田長政ヨリ毛利家ニ使ヲツカハシ、上方往来ノ時休息ノ為、茶ヤヲ立申度候。周防内二王屋敷ト云所ヲ御借候ヘト望申サレケル。此時ハ兵乱既ニ静リ、天下無事成シカバ、長政、何心モナクテカノ屋敷ヲ借タリ「ママ(レ)ドモ、何ノ禍モアルマジケレドモ、隆景ノ遺言二ケ条迄ハ違ハザリシニヨリテ、此屋敷ヲ黒田ニ借ナバ、又、如何ナル禍トカ成ナントテ、許容セラレザリシト也。」
玖珂天神、西50m「清綱分家」横の小路から二王屋敷跡前の道は山陽古道「相ノ見越」の起点となる道で、ここからさらに下久原千束の旧庄屋宅前経由200m西下したところから清綱川に沿って南へ下がり、島田川を渡り下久宗を経て二井寺山の西山麓を通り、竜ケ岳南山麓の相ノ見峠を越えて周南市(旧熊毛町)小松原筏場で大黒山の西山麓「椎木峠越」と合流し、兼清から、小周防(光市)、または石光、呼坂経由で大河内の垰から花岡へ通じていた。(「相ノ見越」詳細は次頁記載。)
二王屋敷跡の前をさらに200m西下し南西部に目をやると家屋が途切れ眼前が開けて、南方面左から宇野屋敷跡(現状養鶏場)と島田川を渡って古道の道筋である二井寺山、西方面には竜ケ岳(相ノ見峠)、大黒山(椎木峠)、大内氏三ツ尾城があった城山(じょうやま)、中曽根の徳王山狼煙場、高森の泉山(椙杜八幡宮)を遠望することができる。
周東有延の宇野屋敷跡は杉隆康家老宇野筑後守景政の次男正五郎末裔が居住した屋敷で、館の周りを土居という土塁と外掘りで囲まれて戦国時代独特の館造りの面影を残していたが、昭和四十七年養鶏場になり細い水筋で周囲を囲われているが当時の面影を推定するのみである。筑後守の墓はこのとき邸内から阿山の萬久寺に移された(前述)。
逆に、北東部を振りかえると椙杜氏居城の蓮華山と杉氏居城の鞍掛山、野口山狼煙場と高圧線鉄塔の位置関係を確認し、欽明路峠背後付近に想定の中ノ峠仏ケ浴谷頭狼煙場(岩国領)と天王山須佐神社のある千足山狼煙場(熊毛宰判)との位置関係がよくわかる。中ノ峠仏ケ浴谷頭狼煙場は、欽明路峠の山の背後になるためこの付近平地からは視認できない。
またこの付近から上市にかけての田と島田川左岸の久田(くでん)、久宗(きゅうそう)一帯の田に条里制遺構を確認することができる。
千束付近の清綱川沿い古道は最近になって拡幅舗装され往時の面影はない。
周東千束の山陽古道「相ノ見越」から南西方面遠望 |
周東千束島田川土手から北東、山陽古道「相ノ見越」と欽明路峠方向遠望 |
玖珂天神の西50m小路を南下し、「二王屋敷跡」前を過ぎた所で西方向の二井寺山(二井寺)、竜ケ岳(相ノ見峠)、徳王山狼煙場や北東方向の鞍掛山や欽明路方向を遠望してから、小川に沿って北上し千束の街道筋に戻るのが推奨コース。(欽明路方向の山並みは島田川土手まで行かなくても遠望できる。)
街道を直接西下するのに対し、10分弱程度のタイムロスで済むはずだ。
コース外であるが、奈良時代周防国玖珂庄であったこの地区最古の名刹二井寺について述べる。
周東町用田の二井寺(新寺)は、奈良時代天平十六年(744)玖珂の大領秦朝臣皆足が霊場を山陽古道南縁の二井寺山に求め、京都山崎に赴いて長谷観音の化身から十一面観音を授かり、これを本尊として安置したのが起源である。当時の地方社寺の建立は信心深い秦氏のような帰化系か豪族によることが多く、仏教もまだ一般民衆にまでは浸透していなかった。(備前国の真言宗西大寺も周防国久ケ庄居住の藤原氏の女皆足創建といわれ、秦皆足の娘か、秦一族女性らしい。)当初は秦一族の保護により山上の観音堂を中心として大坊極楽寺を始め二四坊を数える規模を誇ったが、平安時代終わりには衰微、源平争乱のころ後白河法皇がこれを再建し、奈良・平安時代、西国屈指の霊場として名を知られるようになった。以後、中世を通じて一八坊が存続していた。この間数度の火災や、大内氏の滅亡とともに荒廃し二八〇石の寺領も失われ、二坊を残すのみとなった。本堂再興へ向けて天正年間(1573~91)の勧進では毛利輝元が援助している。寛永年間(1624~43)岩国横山の妙福寺住職宥山が再興を志し、吉川広紀に懇願し元禄七年(1694)着工し、その翌年大坊極楽寺および槇本坊・修善坊を再建。これに以前からあった中谷坊・尾崎坊を加えて坊数五となり、寺領六三石を給せられた。これらの脇坊は明治初年に他に移転し、二井寺山極楽寺(真言宗御室派・山号二井寺山・本尊は観世音菩薩)を残すのみとなった。午王ノ内の真言宗薬師寺は中谷坊が当地へ移転改称したものである。
山頂の極楽寺薬師堂は一一面観音菩薩立像を安置する極楽寺の本堂として、明治六年妙福寺の薬師堂を移築したもので、堂内の不動明王立像とともに山口県指定文化財である。他に指定文化財として中世鎌倉時代の銅鐘(梵鐘)があり、「周防国玖珂庄新寺 文久九年(1272)十一月日」の文字が見られる。(「周東町史」抜粋)
二井寺山麓極楽寺参道入口から極楽寺方向へ約1.3km進むと二井寺山頂分れの手前左側に頼朝坊供養墓がある。頼朝という僧は、六十六か寺を巡り仏像を奉納したという伝説があるらしい。二井寺山頂へは車の通行が可能で、頂上手前左に駐車場(広場)がある。(注:山頂境内に普通車で進入すると、腹を擦るので150m手前の広場に駐車のこと。)
山頂の銅鐘 | 二井寺山極楽寺 | 頼朝坊供養塚 |
風雨のなか東進する「街道てくてく旅」一行 |
周東千束の古道から街道に戻ると右前方北側に須佐神社(天王社)のある天王山が見えてくる。街道はこの手前から大きく北へ曲がり国道二号線沿いの旧パチンコ店前から天王山の山麓を迂回し、旧ローゼ縫製工場前付近につながっていたが、昭和九年開通の岩徳線と昭和三十年玖珂、高森間国道二号線直通化によって分断、消滅し、須佐神社参道石段も工事の都度短くなり、急傾斜の石段になってしまった。このため西側の車参道を利用することが多い。
須佐神社は、飛鳥時代、天智天皇皇太子のとき九州行幸の折り、この地に立ち寄ったことから、古くは天王山、天王社と呼ばれ、明治元年須佐神社と改称された。祭神は須佐之男命である。本殿の背後には御灯明を据えた小さな祠が三基あり、左から諏訪神社・豊歳神社・疫神社と呼ばれる。本殿の御灯明は、疫除けと五穀豊穣を願って、玖珂、周東両千束地区の各家を順に回って一夜を過ごす「御灯明回し」の風習が続けられている。街道からは鉄道と国道に遮断されているので、お急ぎの方は山容と石段を眺めながら通過せざるをえないが、この先、妙見道標手前の下千束踏切を渡り国道を少し戻れば、5分程度で到達可能である。石段は急勾配なので西側手前の車参道を上がる。
千足山狼煙場(熊毛宰判)はこの須佐神社宮内にあった。この地を千足山と呼ぶ人はいない。天王山というべきだろう。野口山狼煙場(岩国領)から中曽根の徳王山狼煙場(熊毛宰判)は容易に視認できるのだが、両者の中間にあたる本藩領東端の要衝高森宿に近接して設けたのかも知れない。この宮内域内の東部分の一部が街道部分を含めて本藩飛地領域になっているのも特異的だ。
天王山須佐神社 ・千足山狼煙場 | 須佐神社(天王社) | 左から諏訪・豊歳・疫神社 |
千足縄手と西に徳王山 |
須佐神社前付近から東川橋にかけての直線区間は千足縄手と呼ばれ、両側に田が広がっていた。「千足」の地名は「地下上申」に「千足と申ハ田なわて長さ千あし有之由ニ付、千足と名付申伝え」とある。「千足」は今は「千束」と書く。この付近は平成二十年から県道拡幅工事が進められ、並行して大型ショッピングセンター・「ビッグ」の出店計画もあって(2009.11.21開店予定)、様変わりしつつある。
途中、右手に妙見道標と常夜燈がある。ここは周東町川上の鮎原妙見宮(鮎原剣神社)への分かれ道であったが、鉄道と国道によって分断され、この先の新道に付け替えられている。道標は「従是二十一丁」寛政九年(1797)と「これよりぬうけん乃ふもとまで二十一丁」の二つがあり、常夜燈は天保四年(1833)の建立でかなり古い道標である。道路との間に井手があるため交通事故損傷等の心配はなさそうだが、永く保存したいものである。
鮎原妙見宮は岩国領主吉川氏(最初は阿川毛利の祖、元春の二男吉川元氏)の崇敬が厚かった。椙杜氏の居城蓮華山(城)の南西部山麓にあたる下川上の地には「杉ノ森」という「字」があって、東土居・西土居などの椙杜氏の居館跡を示す地名が残っている。妙見宮までは臼田を通って約2.3Km、片道三十分かかるため、コース外となるのが残念だ。
妙見道標と常夜燈 | 鮎原妙見宮(鮎原剣神社)と太鼓橋「宆崇橋」 (コース外) |
千足縄手を進むと東川橋に達するが、往時は長さ一二間(21.8m)の板橋が架かっていた。東川橋から右前方真近かに見える小さな山は、椙杜八幡宮(後述) がある泉山である。
この橋の下流300mの河原が享保一揆裁許場跡で、享保五年(1720)に享保一揆に参加した人々に処分申し渡しがあったところである。「慶応の岩国領内全図」では東川(ひがしがわ)の島田川口には大きなデルタがあり「河原」と記入されている。一揆のあった時代はこれから一七〇年も前のことで、デルタ状であったかどうかは定かでないが、当時かなり広い河原であったことは間違いないようだ。現在の形状は、河川改修が行われ単線河口
になっている。(略図参照)
東川橋下流、この付近からデルタ状であった |
「周東町史」によると、一揆の発端は享保二年(1717)の甚大な旱虫害により、冬になって由宇の百姓が年貢納入直送の件を、岩国御蔵元へ願い出てすげなく拒絶されたことによるが、十一月二日には岩国川西の川原に押しかけ、十二月六日には日積村の村民が川原に集結し、翌七日には玖珂・祖生・由宇・通津村の付近の百姓加わって、その数八〇〇余人。貢租の軽減と上納方法の改善を要求した。御蔵元は説得したが、錦見・川西の商家を襲い暴徒化したため、代官らを派遣し、申し分を相当と認め騒ぎは一旦収まった。翌享保三年一月になってこれを取り消すと、南部諸村の農民三百人は高森の東川原に集結し、二月十三日「本藩領編入」をスローガンに萩へ向けて出発し、都濃郡花岡に到着したところで萩藩役人に陳情書を提出した。それには「萩領組替えが許されないならば、他国へ移動する。」という強硬な決意が記されていた。ここでは萩役人の慰撫により在所に帰って本藩の回答を待つことになった。この後、萩役人二名と手勢が由宇に一時滞在、岩国側へ年貢米収納時の萩役人立会いの通告等、岩国側では本藩の内政干渉と解し、領地替の疑念から宗支間の確執が一時表面化する。十一月十六日一揆の首謀者と目される者二八名が萩へ召喚(第一次検挙)される。
享保五年一月五日岩国の家老吉川武太夫免職及び逼塞。玖珂組、由宇組、柳井組代官免職。(「岩国郷土誌稿(全)」・上田純雄著では、「家老今田伊織二〇年の閉門、その嫡子切腹。その孫には高三百石減で相続。補佐役有福与左衛門切腹。子には高百石で再興。」とある。)
祖生中村の「義民助三郎の碑」(コース外) |
翌一月六日、一揆に参加した各村の農民を庄屋・刀祢付添いで高森の東川原へ呼び出し、訴状に対する申し渡しを行った。萩からは裏判役を筆頭に、手子役そのほか与力数十人が出張。川原には蓆(むしろ)六〇〇余枚を敷き周囲を矢来で囲んだ。午前八時から申し渡しが始まり、最低限の要求はいれられたが、本藩への組み換えが認められるはずはなく、発頭人は後日吟味のうえ相当の処分を行う旨、言い渡された。これに対して一同は返答せず、日が暮れて役人はめいめい提灯を持ち、矢来の外では篝火が焚かれ夜を徹したが、翌七日に至って百姓たちはようやく各々の在所へ引き揚げた。その後、実施された第二次検挙者も本藩で処断されることを希望し、萩へ連行された。
享保六年(1721)発頭人に処刑が申し渡せられる。斬罪八人、遠島二一人。差し戻しとなった九九人は高森浄泉寺において萩役人から岩国役人に引き渡され、庄屋・刀祢に伴なわれ在所に帰った。
周東町祖生中村には祖生村の発頭人「義民助三郎」の石碑が立つ。享保一揆に先立つ正徳三年(1713)正月に、年貢納入の際、御蔵にて計手の無体により百姓迷惑に及ぶときは申し出るよう示達があり、この頃、役人の不正、着服が横行していたようで、義侠心に富む助三郎は倉庫でこれを秘かに目撃し、内心深く決するところがあったようである。祖生は完全にコース外であるが、彼を除いてこの地の一揆を語るわけにはいかない。急きょ写真を撮りにいった。
(西暦に置き換えると、各元号の末年と次の元年は重複します。) |
享保一揆はこれで落着したが、「岩国郷土誌稿 全」によると、この騒動の問題は少々複雑なようである。
岩国吉川氏の大名引立運動は悲願であり、宗家に斡旋依頼を代々尽くしていたが、これに絡んで村替領替問題が発生していたらしい。それは玖珂、祖生、伊陸(いかち:柳井市の北部日積と境)の岩国領を宗家領の高森または、小周防周辺諸村と領替しようとする問題で、村民にとっては死活問題であった。これに役人の年貢米不正計量による着服が絡んだようである。一揆発生前々年の正徳五年六月に吉川広達が死去し、わずか二歳の経永が家督を相続したが、生母正理院を中心とする領政は家中にも不満があり、政治的、経済的に危機的状況であった。
享保一揆の鎮圧に手腕を発揮し、職役を命ぜられた吉川外記(石見吉川氏)の世になっても大名引立の願望は強く、本家に頼っても駄目と悟り、直接幕府枢要の官吏に労をとってもらおうとして、本家を差置いて縁故を辿って万事内談で進めた。即ち賄賂を持って運動を始めたのである。ところが周りの補佐役連中はこの時のこととばかりに私利私欲に走り、莫大な金銭出納をほしいままにした。所謂公金の浪費である。本家は本家で吉川がその気なら仮に幕府が願望を許しても本家は承諾しないという態度になり、軋轢を増し仇敵のごとくになっていった。こうしたことで事の成功する筈はなく、また、私欲からできている帳面も合うはずがなく悪事露見し、元文三年六月職役相談人たる香川安左衛門、香川権左衛門を始め関係者が皆な幽閉せらるるに至った。当時江戸表から帰国の途にあった職役吉川外記は、江州草津駅で国元からの家来の報に接し、自刃して果て、家来も亦これに殉死した。元文三年(1738)八月十八日、両香川氏その他郡代以上六人か七人かは、玖珂野口下から錦見善教寺小路に移った丈六寺で切腹、それ以下出納に関する僚属十四、五名は砂走の刑場で斬罪申付けられた。これが元文の大事件、錦見丈六寺事件である。(玖珂野口下のY氏によると、杉氏一族のたたりということになる。)この時期は吉川暗黒時代ともいわれ、宗支両家の関係改善と大名引立は幕末の名君、十二代経幹(監物)の登場と幕末期の危機的状況・大政奉還・明治維新を待たねばならなかったようだ。
岩国領須通村(周東町須通)の三島神社にはこの経緯を物語るかのように吉川氏家老による願成就寄進の二王刀、廃藩置県に当たり旧藩主吉川経健(第12代藩主経幹の子)が甲と共に寄進した吉川当主使用の軍配團扇が保存されている。
巻末「日々是見聞録」:三島神社所蔵「二王刀」・「軍配團扇」参照。
毛利本藩においても文政末頃から不作が続き、天保二年七月に三田尻で一揆が起こり、次第に全藩に拡がり高森でも九月に一揆が起こっている。全国的にも農民の蜂起が多発し「天保の改革」が行われることとなったが、封建制の打破までには至らなかった。
街道に戻って、東川橋を渡って約30m西下すると、街道を南北に横断する小路があり、ここから街道の北側は萩本藩領になる。この辺りは高森市の市頭で、角地に消防団機庫があるが、この付近に「春定」の札場(はるさだめ:春にその年の秋の貢租予定額を示す)があった。街道の南側は岩国領(吉川領)で、これは山本脇本陣があった高森宿場街中心の柳井道まで続き、柳井道からは、街道の南30m付近から街道に並行して市尻まで南の領域が岩国領である。
椙杜八幡宮参道の少し手前、街道南側に贈、正五位世木君之碑がある。高杉晋作功山寺決起(後述)後、元治二年(慶応元年:1865)一月、大田・絵堂戦役のうち「大木津・川上口の激戦」で戦死した下久原の士族出身奇兵隊斥候、世木騎六(騎騄)を顕彰したものである。
世木騎騄は、来嶋又兵衛の主戦上京阻止説得に失敗した高杉晋作の脱藩上京に同行、晋作の身辺警固の傍ら京師の情勢把握をする。また功山寺挙兵に山縣奇兵隊らが反対するなか晋作と行動を共にする。元冶二年(慶応元年)正月七日絵堂開戦のあと、正月十日午前の「栃ケ峠・長登戦」に続き、午後から始まった大木津戦に続く川上口戦において奇兵隊斥候として戦死している。「川上口の激戦」における戦死者は萩政府軍五名に対し、諸隊は八名の激戦で、政府軍の反撃に諸隊は苦戦するも山県狂介「幣振坂の奇襲」により勝利する。諸隊本営(のち本陣)の大田村金麗社に奇兵隊「殉難十七士之碑」と「大田・絵堂戦没者顕彰碑」があり、開戦時本陣であった光明寺境内には奇兵隊戦没者十七士の「官修墳墓」がある。このうち、「贈正五位世木騎騄墓」左側面には「時慶応元乙丑正月十日 於川上村戦死享年三十一」、右側面に「贈位明治三十六年十一月十二日」とある。十七士のうち、「贈正五位」は世木を含む三名。他は氏名のみ刻まれている。
春定の札場跡(消防団機庫) | 贈正五位世木君之碑 | 官修墳墓の世木騎騄墓 |
「高森」の地名は「泉山」の偉容をいつしか「高森」と呼んだとの通説である。「椙杜」の名がすたれ久原村の町並み中心地が「高森」と呼ばれるようになり、明治十七年小村合併で「高森組」、明治二十二年六月町村制の実施に伴なって「高森村」となった。高森の町並みは東から上市・中市・下市といい、東のはずれを市頭、西のはずれを市尻、街道の北側を上側、南側を下側と称した。萩本藩領の東端に位置したことから重要な宿市であった。
泉山の椙杜八幡宮鳥居 |
市頭の泉山には北方の蓮華山城主椙杜正康の祖父大田時直が給領地椙杜郷(すぎのもり)に西下し、蓮花城を構え鎌倉鶴岡八幡宮の分身を勘請した椙杜八幡宮が鎮座する。椙杜の姓は、大田信濃守正康が筑後からこの地に移住した際、改称したもので、毛利元就の防長攻略時は正康の曽孫椙杜隆泰の時代で、祖生の小方隆忠とともに大内方から元就側につき鞍掛城を攻め、これを落城させ玖西盆地の主は杉氏から椙杜氏に替わった。隆泰には嗣子がなかったので元就五男元秋を養子としたが、元秋はその後出雲国月山城城督を命ぜられ、最後に迎えた毛利重臣志道元保の二男元縁は、毛利輝元の信望厚く天正十六年(1588)長府勝山城在番を命じられ、蓮華山城も破却された。これによって椙杜八幡宮も後に社殿も失われるほどに衰退したが延宝九年(1681)に再建された。宝物に元禄二年(1689)九月、高森市を中心とした有力者達寄進の「板絵著色三十六歌仙図」がある。文書で存在は認められていたものの、存在について疑念がもたれていたが、平成十八年に偶然、原田宮司によって発見された。
参道の大鳥居は元禄四年(1691)に願主、相川正太夫・藤嶋又兵衛の両人によって奉納されている。
この時期、奉祭者椙杜氏を欠き廃頽した八幡宮の再興を願う高森市を中心とした人々の熱いエネルギーを感じとることができる。
八幡宮参道の山麓の石段手前左側の社倉(現社務所)の南側に御蔵入米蔵があった。
(2012.11.18):慶長五年(1600)関ケ原の合戦後毛利氏防長移封により、毛利秀元が櫛崎城に長府藩の藩祖になると椙杜元縁はこれに従って長府藩の執権家老となり二千五百五十石を賜る。元縁より四代下がって元世のとき享保五年(1720)に子の元位や数名の家臣とともに禄を返上し長府藩を去る。離藩については、藩主元矩が十五歳で急逝のあと跡継ぎがなく、このお家断絶を救うため分家の清末藩第二代藩主元平が清末藩併合のかたちで長府藩第六代藩主匡広となり、家臣を引きつれ長府へ入府したことから両藩の重臣間にあつれきが生じ、一時お家断絶発生の不手際の責任によるものといわれている(このため、清末藩は一時お家断絶となり一一年後弟の政苗が第三代藩主として再興している)。これより十年前には元世の給領地浮石村(現豊田町)で、農民の巡検上使直訴重大事件が発生し(浮石義民直訴事件)、元世は当時江戸表にいたが家臣の切腹、椙杜氏も一ケ月の閉門、知行四百石の減封の処分を受けている。このため、この頃から重臣間の反目が続いていたようである。元世・元位親子は離藩し元世の後妻の縁故を頼って豊前国宇佐に寓居するが、のちに火災にあって防長に帰り深川に住む。元世は備中笠岡に移り他界。元位は深川にあって子に恵まれず享保十五年(1730)四十歳で他界。名門椙杜嫡流はここに断絶する。
「防長風土注進案」に、天正二十年・文禄元年(1592)四月、秀吉朝鮮出兵(文禄の役)に際し、名護屋下向の途中椙杜八幡宮に参詣し、ここに一夜の陣を張ったと伝える。陣屋・堀などが整備され、太閤手植の松も永く残っていたと伝える(注進案)。太田和泉守牛一の「大かうさまくんきのうち」(太閤さま軍記のうち)に、豊前小倉に出陣中の毛利輝元居城の広島に三日間逗留した後、四月十五日広島を出立、草津より宮島へ船渡りし厳島神社に参詣。「その日ハたかもり御とまり。十六日 はなおか御とまり。十七日 すおふのうち、てんじんのこう(天神国府)御とまり。」とある。
椙杜八幡宮石段左側の神馬 | 椙杜八幡宮本殿内部と絵馬 |
「地下上申絵図」、「御国廻り御行程記」によると八幡宮参道入口から街道を約30m西下すると路傍右に、高森上市の一里塚「安芸境小瀬より是迄五里、赤間関より是迄参拾壱里」があった。本藩領に入って最初の一里塚ということになる。街道を細い用水溝がグレーチングで横断している付近の北西角地が塚山の跡と思うのだが...。
ところで、東川橋を渡って30m位のところに東川に沿って北方向へ続く小路があり、「慶応の岩国領内全図」によると、ここからが本藩領になっているが、この本藩領角地に塚山が表示されている。この頃にはこの地に移動していたのかもしれない。現在のこの位置には消防分団機庫がある。「春定」の高札もこの角地にあった(前述)。
さらに県道柳井周東線との交差点付近(往時はこの南北の縦断道はない。)から受光寺東隣にかけて高札場跡・御物送り場・御番所があった。高札場は縦五尺二寸(1.6m)、横三間半(6.35m)の広さで、高さ三尺八寸(1.14m)の角柱で囲ってあった。高札場の後ろに御番所があり、傍の中間長屋には四〇人の人夫と馬一五頭が用意されていた。(高札掲示内容については、関戸宿参照。)
(想)高森上市の一里塚跡 | 高札場・御物送り場・番所跡 |
なお、この県道交差点を200M北上すると、JR岩徳線踏切の手前に岩国市周東図書館があるが、館内には宇野千代女史展示コーナーが常設されている。「危うく絶えそうな話」・「私の一生に書いた作品のなかで」・「ちょっと油断したら」の原稿や、「おはん」の初版本(1957年)の13版(1992年)等が展示されている。街道から往復5分弱なので休憩がてら是非立ち寄ってみたい。
泉山の西山麓に位置するので、椙杜八幡宮の直ぐ西横と表現した方がいいかもしれない。
館内展示理由については、この先、中市の「宇野千代先生文学碑」と重複するので割愛する。月曜日と祭日は休館日なので要注意。
上市の受光寺は鞍掛落城の折、敗死した杉氏家老宇野筑後守景政の嫡子、宇野筑後教賢が出家、開基した寺院で、藩政時代には末寺二八を持つ大寺であった(野口下の丈六寺の項参照)。この先の山本家とともに脇本陣を勤め、幕末の四境の役では通化寺境内に駐屯施設が整うまで一時、遊撃軍本陣がおかれ、軍事病院となった。薩州島津氏は参勤交代の途中、受光寺に宿泊している。
周東図書館内の宇野千代展示コーナー | 上市の受光寺(脇本陣) |
ここで、コース外であるが高森市から南方面の久田、用田、午王ノ内(牛王ノ内)の史跡について述べる。特に西午王ノ内の大梅山通化寺は、幕末期と明治維新の歴史を語るに避けて通るわけにはならない。
県道7号柳井周東線を南へ下がり、久田橋から南500mの(廃)円月寺跡墓地への入り口となる旧久田集会所敷地に都稲顕彰碑がある。久田(くでん)の内海(うちうみ)五左衛門が、嘉永四年(1851)藩主毛利敬親の参勤交代に随伴帰藩の際、摂津西宮で良質の稲穂を見つけ持ち帰り、改良し、大粒・美味な新品種「都稲」を得た。この米は防長米の元祖ともいわれ、藩主のお膳米にも上がった。これを顕彰し、明治三十七年建立された。
大梅山通化寺 |
高森南方約二キロの午王ノ内にある黄檗宗
(注1:「調査報告書」では、黄檗宗円月山通化寺とある。(明治になって円月寺を併合・廃寺とし、寺号を円月山とする。)
(注2:久田の天野氏の菩提寺であった(廃)黄檗宗長命山円月寺は、歴代通化寺和尚の隠居寺でもある。通化第四代円月寺開山和尚塔や通化第二代活宗外大和尚等歴代和尚塔がある。通化寺開山和尚慧極道明禅師の墓は通化寺にある。
2004年秋の通化寺 | (伝)雪舟庭園 |
境内南の墓地に、天野隆重、
天野隆重夫妻墓・(右:隆重) | 天野元嘉墓と夫人(寂弧円原珠大姉)の墓 |
また、通化寺境内の南山麓には吉川元春の次男で、阿川毛利氏の祖、繁沢元氏卿(吉川元氏)の墓がある。吉川元氏は元服後大内氏家臣仁保氏婿養子となり、のち出雲繁澤氏康の養子となる。毛利氏防長二州移封により周防椙杜郷の内3200石入封し川上村末貞に居館を構える。繁澤元氏は慶長八年頃(1603頃)には入道して、繁澤伊勢守立節(立雪)と称す。慶長18年(1613)に毛利姓を許される。寛永2年(1625)二代目元景から北浦阿川に移ったが午王内と差川村中曽根の各一部は引き続き元氏の孫である毛利上野介の給領地として残る。寛永8年(1631)閏10月16日(新暦1631年12月9日)元氏(立節)歿。享年75。
玉垣の背後には、中央に(想)正室墓と左に非業の死を遂げたと思われる(切腹?理由等不詳)長子または次子に準ずると思われる墓がある。正面に「消誉無跡信士」とあるは異様である。背面に「繁澤善□□}の陰刻。墓の形態からのちに建てられたものではないかと推察するが不詳。正室墓の右端には側室と思われる墓がある。
繁澤氏の毛利姓改称と阿川への移封は、関ケ原の一件以来の岩国吉川氏への不信と勢力分断を図ったものではないかと推察するが、あくまで私見・不詳。
元氏墓背後の三墓碑 | 左:(想)元氏子墓 | 中央:(想)正室墓 |
寛文7年(1667)3月阿川毛利三代就方は、祖父元氏が川上末貞に居住していた頃、この大梅の幽玄境を愛していたので祖父の追善のために寺の再興を思い立ち、山城宇治の黄檗宗萬福寺に参詣して隠元禅師に謁し慧極禅師を招聘することとしたもので(前述)、繁澤元氏墓は中興通化寺の象徴的存在といえる。隠居館も大梅の地通化寺域内にあったと推察され、このため阿川に領地替後も午王内・中曽根の一部は阿川毛利氏の知行地として残されたものと思われる。通化寺付近は本藩領午王ノ内で、吉川領午王ノ内との区界が複雑である。
元氏の墓は椙杜八幡宮と川上の妙見宮の宮司である原田正文氏によって、きれいに管理され、毎年12月9日に原田宮司によって墓前供養祭が行われている。阿川毛利祖繁澤元氏(吉川元氏)墓所は、通化寺窯の南側横(左側)山裾といったほうが分かりやすいかもしれない。通化寺窯のプレハブ事務所右側裏から進入する。
通化寺境内南に隣接して、陶芸家田村悟朗氏になる通化寺窯がある。登り窯と半地上式穴窯二基で萩焼と伊賀焼、信楽焼の作品を焼いている。当初、萩市椿で小迫窯を開設、創作活動をしていたが、昭和六十二年から郷里に帰り、東京、広島や県内で個展を開く等、意欲的に創作活動をされている。通化寺を訪れたときには是非立ち寄ってみたいものだ。
「石霜庵 ~山里の暮らし~」と題するブログを開設しているので紹介しておく。
たまに、個展開催等で不在のことがあるので、訪問する際には事前に確認しておく必要がある。
http://sekisouan.exblog.jp |
Tel/Fax: 0827-84-1836 |
登り窯(燃焼室三間) | 半地上式穴窯 |
その後判明したことだが、差川出身の陶芸作家田村悟朗氏に関しては、ビッグニュースがある。
ご本人は、差川杵ケ迫の項で後述予定であったが、差川郷土研究会(主筆:森山清)編「差川風土記 改訂版」によると弘治元年(1555)鞍懸合戦の翌々年三月元就に攻められ(注?)、杵ケ迫で自刃した三尾城(三ツ尾城)城番蔵田治部教信(倉田治部)の嫡子末裔にあたるらしい。二才の嫡子左留坊(さる房)は戦いの後、匿われ、成人して上差川で庄屋となり田中教意と改称する。
(注)後述田中家系図(家譜)では、「陶尾張守晴賢謀反之時主君エ味方局天文廿年(1551)ニ討死ス」とある。
本項では、蔵田治部
悟朗氏は田中教意嫡子の兄弟(淡路守・丹波守)の兄系(淡路守)で、田村家の養子となり田村姓を名乗っているそうである。蔵田(倉田)治部は、正確には田中家系図写(家譜)記載の、「大内義隆公家臣、周防国道前在城二万八千石領蔵田治部少輔源教信」ではなかろうかということである。「任 淡路守御判物」もあったらしい。ご本人は、系図(写) と一部の覚書しかなく、これを補完する文献類を知らないので確証できる話ではないと謙遜しておられるが、玖珂野口下の杉隆康末裔の岡氏を想起させるようで興味を引かれる。
後に判明したが、補完文献類の代表的なものとして、「防長風土注進案:差川村」・「同:三丘之内小松原村」(安政~天保年間の報告)があり、森山清氏の「差川風土記 改訂版」は、異郡域隣村の「三丘之内小松原村注進案」を主に引用して具体的な記載になっている。
(注):周防国道前(どうぜん)は戦国期に見える広域地名。各種古文書によって熊毛郡から玖珂郡南部に通ずる往還道沿いの地域の総称であると推定されている。
城山(三ツ尾城)、金盛神社、蔵田治部墓等の詳細位置は「高森市尻~中山峠」の差川拡大図参照。)
杵ケ迫の蔵田治部(教信)供養墓 |
「差川風土記 改訂版」(主として風土注進案:三丘之内小松原村を引用)に、「上差川庄屋田中十右衛門金盛神社由来記に『寛永二年三尾城主大内家戚族田中治郎左衛門尉多々良教意出雲大社より勤請して云々』と倉田治部太夫は田中教意の祖父(注:父では?)にあたる。一説に倉田は大内戚族でなく、三丘隼人(注:倉田氏の前の城番?)と同じく大内の家老とも伝えられる。」とある。
さらに、「倉田治部太夫(1533~1556)天文弘治の頃の末路」として、「元就公に敵対し--(省略)--。ほとんど戦うことなく城を逃げ出し杵ケ迫にて自刃す。途中、当時二才の嫡子「さる房」を下差川に居た家臣山本源左衛門宇兵衛の先祖かくし置き養育す。後年さる房成人いたし庄屋役所務め、二十才に達して上差川農新兵衛の娘ゆい合成る。さる房の嫡子庄屋倉田あゆし(?あわし)の時名字を田中と改称す。この由来は三丘風土記に『庄屋名字かへ可然由、此段長府御家来柳井ニ而田中さとと申仁被申兄弟可仕候間、あゆし(?あわし)より田中となり候由』とあり。」とある。これは、田村氏に見せていただいた「田中家系図(写)」と比較すると、「敵対相手」と「自刃時期」に根本的違いがあるものの、その他の末裔関係は「系図(写)」但し書きと一致する。
森山清氏の「差川風土記改訂版」では一貫して倉田治郎と記載されているが、天保~安政年間報告を纏めた前述の「防長風土注進案・三丘之内小松原村」では倉田治部太夫、「同・差川村」(天保十三年・1842なる)では蔵田治部太夫、「系図」では「蔵田冶部少輔源教信」と記載されているので治部に統一。また文中、教信の嫡子教意の幼名「さる房」は家譜に「左留坊」とある。教意の嫡子幼名が「あゆし」とあるは、「風土注進案・小松原村」に「あわし」、「同・差川村」に淡路とあり、「家譜」にも淡路とあるので、「あわし・淡路」が正解とおもわれ、成人して田中正意(彌左衛門)と名乗る。教意二男が丹波である。
問題は、「弘治元年鞍懸合戦の翌々年三月元就に敵対死」が、鞍掛城陥落からあまりにも期間が長く、疑問がわく。(注進案以外の各種文献に三尾城陥落についての記載がない。)
「防長古城趾の研究」(御薗生翁甫:著)によると、毛利元就、隆元父子が都濃郡須々万(注:徳山の北方)の要衝沼城を陥したのが弘治三年三月二十日。前年の四月二十日、隆元沼城を攻めるも能わず、七月、九月と再度攻撃しているが攻めあねぐ。また、弘治三年三月には元就親子は陶氏の居城であった都濃郡若山城へ兵を進め、右田ケ嶽城(防府市北部)の右田氏を誘諭懐柔、陶氏傀儡大内義長は山口高嶺城を棄てて重臣内藤氏と長門勝山城に立て篭もる。三月末から四月にかけて毛利重臣福原貞俊はこれを攻め内藤氏自害を条件に降伏をすすめ、これをのんだ大内義長は長門の長福院(現功山寺)に入るが、同年四月三日福原貞俊はこれを囲み自刃を要求、義長は怒りのうちに客殿で自害しているのだ。大内義長主従墓も功山寺境内西奥にある。
なお、田中家の系図写(家譜)は田中忠左衛門多々良蕃教(しげのり)のときのもので、金盛神社鳥居に、享和三年(1803)田中忠左衛門多々良蕃教の刻字がみられるので、この頃の写とおもわれる。
また、「周東町史」では「大内氏戚族三尾城主(三ツ尾、差川城とも)蔵田治部少輔教信は陶晴賢反逆(注:天文二十年大内義隆大寧寺で自刃)のとき、大内義隆を援け、天文二十二年(1553)陶氏の軍と戦って戦死。」とある。さらに、このとき嫡子教意はまだ乳児であったため、家はしばらく弟の*信近が嗣いだが、信近もまたその年戦死した。教意は成長の後、毛利氏家臣で長府居住の田中伊織の別家となって田中次郎左衛門と改称し、民間にあって郷士となった。慶長八年(1603)差川村の庄屋となり、代々庄屋を勤めた。次郎左衛門は元和元年(1615)の大阪夏の陣に出陣して軍功あり、旧姓蔵田氏に復帰を願ったが妨害する者があって果たせなかった。」これは田村悟朗氏に見せていただいた田中家系図写(家譜)の但し書きと全く同じであるが、家譜但し書きの討死時期は「陶尾張守晴賢謀反之時主君エ味方局天文廿年(1551)ニ討死ス」となっている。「周東町史」は討死時期が二年違うだけで、それ以外は家譜但し書きと同じである。周東町史にある天文二十二年は、天文二十年のミスプリと思われる。
「差川風土記改訂版」(注進案:「三丘之内小松原村」引用)では元就公に敵対死。「周東町史」(田中家系図写・家譜但し書き)では大内氏戚族として陶氏に敵対死。その他の参考事項として、この時期、大寧寺で義隆を介錯したのち勇戦して殉死した祖生の大内一族冷泉隆豊の幼少二人の息子は存命で、冷泉一族は陶氏と祖生方面一帯(玖珂の南方面)で戦い、のちに毛利氏に仕えている。
(西暦に置き換えると各元号の末年と次の元年は重複します。) |
長々となったが、結論として『風土注進案』の「三丘之内小松原村」は、小松原域内の城山(三ツ尾山)古城の城番として、「一説に、」として断ったうえで、倉田治部太夫の元就公敵対落城を紹介し、さらに差川村田中家の家譜引用と明記したうえで、嫡子さる房・さる房嫡子倉田あわしの詳細が報告されている。不思議なのは、家譜引用ならば、家譜但し書きの陶晴賢謀反に敵対討死の記載があってもよさそうだが、これはない。
一方、本家本元の「注進案差川村」では、*「差川村農家田中十右衛門所持之御判物寫」の項に田中家の家筋として、さりげなく「往古蔵田治部太夫と申仁、三尾山ニ城持居候處、天文之比落城の節、同人嫡子さる房歳貮才之時--(省略)--。」と続き、「任淡路守の御判物寫」(文化十一年火災焼失とある。)を持つ家柄で、永く地下役人を務めていることを報告しているのみである。家譜にある陶氏に敵対死したのなら、はばかることなく堂々とそのように報告してもよさそうにおもえるのだが? 天文之比落城は反逆陶軍との戦いで落城したことを示している。明記するのを控えたのなら、理由がありそうだが。
反面、「差川風土記改訂版」に弘治元年鞍掛城落城の翌々年三月、元就三尾城攻略とあるは、前年四月からの堅城、須々万の沼城攻撃から考えると、毛利方は背後に敵を抱えたままの攻撃で、疑念がある。三尾城は取るに足らない勢力であったのか?沼城と並行して攻略したのか?三尾城は既に主の居ない空城であったか?あるいは家譜として明記するに、元就公敵対をはばかり陶氏に置き換えたか?それはないだろう。時代もかなり経っていて天下泰平の世だ。しかし、元就公敵対を明記して後世に残すことは一大決心、覚悟だけでは済まされないだろう。ただし、「教意」はのちに毛利氏家臣田中氏の別家となっているのではばかる必要はないとおもうが?家譜(系図)にある「陶尾張守晴賢謀反之時主君エ味方局天文廿年(1551)ニ討死ス」を素直に認めるべきか?疑問は際限なく広がる一方だ。
(注):「差川村注進案」(天保十三年/1842)に、*「差川農家田中十右衛門所持之御判物寫」(文化十一年消失とある。)が記載されている。注進案は十右衛門のとき。
田中彌左衛門は蔵田冶部少輔教信嫡子教意の長男正意(淡路)。繁沢元氏は慶長八年頃(1603頃)入道して、この頃繁沢伊勢守立節と称す。
家譜(系図)をベースに考えると、ここは「周東町史」に軍配を上げたい気もするが、差川郷土研究会の諸先生から物言いがつきそうだ。田村氏と二人で色々詮索するが結論は出なかった。あと考えられるのは、「差川風土記改訂版」記載の弘治三年三月三ツ尾城落城を確定する文献であるが、時間不足もあり確認できていない。弘治三年なら、弘治元年鞍掛城陥落から時期が遅いことは別にして元就公に敵対死なのだが、果たして落城時期を確定する文献があるのかどうかも不明だ。不思議なのは、本家本元の現代の差川郷土歴史研究書が田中家系図に目を通すことなく(あるいは無視?)、隣村の熊毛郡「小松原村注進案」を引用していることだ。
田村氏との素人談義はこれぐらいにしておこう。
その後、2009.10.03に「吉田松陰没後150年記念展示」観覧のため山口・萩方面に行った際、ついでに「山口県文書館」を訪ねてみた。アポなし訪問、素人の質問疑念に快く応じていただいたが、それによると、「広く知られる鞍懸合戦の期日についても最近の発見資料で諸説ある期日が確定されている状況(前ページ鞍懸合戦の項に追記:弘治元年十月二十七日)なので、伝えられる沼城攻略月日詳細にいたっては確定されたものではない。攻略経路もこの時期、山代一帯(錦町周辺)の土豪と戦っていて、この方面からの沼城攻撃も考えられる。また、沼城、三丘方面の両面作戦も考えられる。「注進案・小松原村」の元就公敵対は「一説」の但し書きをしている。ましてや三ツ尾城攻略時期や祖生冷泉氏の陶氏敵対戦闘時期については、判明しても確定ではない。元就方が三尾城を陥したかどうかも確定できない。家譜にある敵対相手の陶氏への改ざんは考えられないことはない。同様の事例は他の家譜にもみられる。ただ、こうした考え方も推察の域をでない。」とのことであった。
やはり、このままにしておこう。それのほうがロマンがある。
その後判明した事項として、「周東町史」の鞍懸合戦の項に、合戦後の補足説明として
「弘治元年末、元就は坂新五左衛門元祐を普請奉行として三尾(三丘)城(元城主は蔵田治部少輔教信)を修築し、高水城と改め、敗残兵や土豪の掃討に当たらせた。---。弘治二年二月九日椙杜隆康、羽仁藤二郎らの兵は根笠(注:美川町・錦町方面)に向かったが、敗残兵の多くは三月十三日都濃郡中須、翌十四日には三瀬川(注:周東町北部)、十五日には玖珂において掃滅された。」とある。
三尾城陥落が陶氏によるものか元就によるものか記載がないが、主の居ない空城のような感じだ。これで、素人談義の結論が一応でたようにおもえるが...。反逆陶氏傀儡大内義長も弘治三年(1557)四月三日に長福院(現功山寺)で自害し、元就の防長攻略も一先ず完了しているのだ。
★教信(蔵田治部)の反逆陶隆房(晴賢)軍に敵対敗死と時期等、家譜をそのまま信用した方がよさそうだ。(但し、大内氏家臣が陶晴賢謀反になびき容認する中、何故これに敵対したのか? 大内義隆と何らかの厚い絆があったため大内氏血族冷泉氏と一緒に敵対したか?)
差川方面での関係記事は、元就公に敵対死をメインに記載していたが訂正することにし、蔵田治部(倉田治部)と表現することにした。
(注) 倉田姓:「差川風土記改訂版」 ・「風土注進案三丘之内小松原村」
蔵田姓:「周東町史」 ・「風土注進案差川村」 ・「田中家系図写」
〔本項追記:2009.12.22〕
(注):*教信弟蔵田伊豆守信近(自刃した教信の弟)は、家譜によれば「在城安芸國西條」とあるのみ。安芸西條周辺諸城か?
別に、応仁の乱後大内氏安芸支配拠点となっていた東西條の拠点鏡山城へ尼子氏に対抗するために大永二年(1522)大内義興に総大将として派遣された陶興房(晴賢の父)は、九州筑前に竜造寺氏らの侵入情勢不穏となったため、蔵田備中守房信を鏡山城代(城衆)として山口に召還、転進。この間隙を大永三年(1523)尼子経久は重臣亀井氏に命じ鏡山城を攻める。大内配下であった平賀氏や毛利元就は尼子勢に加わる。元就は調略によって備中守房信の叔父日向守眞信を内応させ、備中守房信は家族、家臣助命を条件に一族の盛信と共に自害落城。尼子経久は元就の意に反して日向守眞信を許さず首をはねる。眞信の首実検に立合わされた若干七歳の毛利家当主幸松丸は、これが原因で病気になりまもなく死亡する。経久は元就の家督相続に介入。元就は尼子氏への不信・背信をつのらせる。(「鏡山城の戦い」)。
二年後の大永五年になって大内義興・義隆大挙出動。元就は大内傘下となって、大内軍は鏡山城を奪回。蔵田備中守房信末裔は、のちに毛利元就家来となり輝元防長移封に従い萩藩士となる。(本項、「西条町誌」、「萩藩閥閲録」から引用。「鏡山城の戦い具現化要旨」は「陰徳太平記」、「ウイキペディア」等からの引用であるが、元就陰徳色の強い歴史小説の類で必ずしも史実として確証されたものではなくほぼ虚偽。)
安芸国西條蔵田氏は周防国道前蔵田氏と一族か?
(注:東広島市教委Y氏の見解として)
戦国大名大内氏領国の「城主」はあくまで大内氏で、これを任せられる「城番」は、厳密には陶、内藤、杉、弘中氏等大内家臣が勤める「城督(城奉行)」と家臣直属部下代勤の「城衆」に分かれる。「城督」はその地の代官、または守護代が務める。「城衆」は城督不在時直属部下の小国人が勤める。城衆は城督不在時、城の維持管理等を行う。陶氏等の家臣は通常山口の居館に住む。
大内氏は「国人」レベル以上を配下とする。天野氏や平賀氏は地頭から続く安藝東西條の「国人」で大内氏の配下に属する。戦いの際には命令ではなく参戦を依頼する関係。陶氏等の大内氏家臣は国人を配下としない。「小国人」・「地侍」等の土豪を直属部下とする。毛利氏は安芸吉田の国人。(注)「小」 : 「こ」と読む。
鏡山城の戦いで自害した蔵田備中守房信は安芸東西條に広く分布する小国人。房信の「房」は陶興房の「房」。「信」は家系を表す。即ち陶興房の直属部下。当時の安芸東西條は、大内氏安芸国守護職補任前で、東西條代官(郡代)陶興房直属部下として「東西條小郡代」を勤める。陶氏不在時の鏡山城の城代(厳密には城衆)で安芸東西條の小郡代(こぐんだい)。
(その他関係事項)
①陰徳太平記・吉田物語等記載の鏡山城の戦いについて、
元就関係の具体的内容は元就陰徳色が強い歴史小説の類で、ほぼ100%虚偽。
・房信の叔父眞信が志和町の居城「古屋城」から鏡山城に布陣した証跡が確認できない。
・尼子氏戦後褒賞に、配下参戦の平賀氏400貫に対し元就方は粟屋氏に80貫のみで元就が大きく貢献したとは考えにくい。
・厳島神官「棚守房顕覚書」に伝聞として、鏡山城陥落の際城兵1000名死亡の記載があり、激戦であったと推察される。
・鏡山城の掘削調査においても、土器類の散乱、楼閣類の全焼等、房信自害によって一族郎党が助命開城されたとは考えにくい。
・蔵田房信嫡子房貞兄弟が大内氏鏡山城奪還ののち竹原から元就郡山城に迎えられる件についても、
のちに請を入れ奉公することになったと考えた方が自然。
②三尾城について(注:大内教弘・島津家久についてはwikipedia参照。)
・室町中期(15世紀中)大内教弘三尾城築城を命じる。(「萩藩閥閲録」某氏の系譜に関連事項として記載されている。)
・天正三年(1575)島津家久伊勢参りのとき「家久君上京日記」三月二十二日に、
海老坂を過ぎて玖珂郡に入って「右に満尾(三尾)城がある。山は高いが悪しき城。」とある。
*「家久君上京日記」は三尾城以外についても貴重な記述があるので本項末尾に原文のママ別記。
・毛利元就防長攻略、家臣井原氏を三丘領地へ送り三尾城整備を命じる。のち輝元防長移封時毛利元政三丘領主。
(後述、志和東天野氏参照)
(以上、東広島市教委Y氏から聞き取り。一部加筆)
(参考)
<天野氏>:藤原南家工藤氏の一族で、伊豆国田方郡天野郷に居住。鎌倉時代に遠江・相模・駿河・その他各地に繁延。戦国期三河天野氏と安芸に下向した志芳荘及び堀荘の三氏に大別。 (注)志芳(しわ)は近世になって志和と表記。
・志芳東天野氏(生城山天野氏)---志芳米山(こめやま)城主元定のときは嗣子がなく、永禄十二年(1569)元定死去内紛に毛利元就七男千虎丸(元政)を養子として送り、のち毛利元政。輝元防長移封により三尾(三丘)領主。次の
・志芳掘天野氏(金明山天野氏)---福原氏と姻戚関係を持ち毛利氏との関係を深める。隆重のとき尼子氏との戦いに活躍、攻略後の月山富田城代となり山中鹿介の第一次尼子氏回復戦に富田城を死守奮戦、功ありのち出雲国熊野城主。子の元嘉のとき輝元防長移封により吉川広家組下として周防椙杜郷のうち久原・長野等知行。寛永検地後本藩に属す。久原の久田に館(平城)を構える。午王内の黄檗宗大梅山通化寺に隆重夫妻・元嘉夫妻の墓。明治になって天野氏離郷のとき、通化寺と合併して廃寺となる久田の黄檗宗長命山円月寺は天野氏菩提寺。
<安芸平賀氏>:尾張国松葉庄。源平合戦に功あり安芸高屋保を賜る。他国に分派多し。安芸頭崎城国人平賀元相は天文二十三年元就が陶晴賢と断交すると毛利側に属し、のち豊臣姓を賜る等、安芸有力国人。輝元防長移封に従い所領を大幅に削減されたため禄を返上し京都に隠居するが、のち萩に帰り嫡男元忠が萩藩士三百石として再興。
・大永五年(1525)大内義興、義隆親子鏡山城奪回後、蔵田教信は大内氏によって周防国道前三尾城の城番となったか? ・蔵田教信の弟信近は、家譜に「在城安芸國西條」とあるのみ。 ・一説に、教信自害後、末裔幼少のため弟信近が家督を継ぐが、信近ものちに戦死(場所不明・周東町史)。 ・教信嫡子田中教意・教意嫡子淡路らは、のち大阪夏の陣に出陣功をあげ「蔵田姓復活」を願ったが妨害するものがあって 果たせなかった。教信嫡子田中教意は差川で80歳で没す。安藝蔵田氏(のち萩藩士)が妨害したか?...? 蔵田氏本流は萩か?差川か?? この時期、「萩藩閥閲録」蔵田房貞系譜に矛盾点あり。(後述「追記」参照) |
「追記」:「萩藩閥閲録」備中守房信嫡子蔵田房貞の系譜には矛盾点が多く(注:詳細理由複雑、多岐に亘るため割愛)、房貞兄弟の父は鏡山城で自害した備中守房信ではなく、間に一代あったと考えた方が素直である。(本項、東広島市教委Y氏に再照会し、文書による回答を得る。2014.04.09追記)
前述、蔵田冶部少輔源教信の弟「伊豆守信近・安芸國西條在城」関連から、安芸国西條鏡山城代蔵田備中守房信は同族と思われる。詳しくは新規開設のブログ「徒然草独歩の写日記」(2012/07/01)<周防国道前と安芸国西条蔵田氏の縁結び>参照。
(本項、2012.07.01追記)
「追加」:(2012/08/10)<縁結び-続編> ・(2012.09.14)<山口蔵田氏を訪ねて>
・(2012/10/17)<安芸西條鏡山城と蔵田氏を訪ねて>の追加ブログあり。
*別記: 「家久君上京日記」天正三年三月二十二日の全文
(鹿児島県史料: 「家久君上京日記」)
「一 廿二日、 巳刻に打立、やかて
(注)・海老坂(呼坂)の坂道は身体をかがめるような急坂。 ・高もり(高森)という地で、粗末な携行食の乾飯を「めんつう」という入れ物から取り出し、つつきながら「高もり」というのもおもしろおかしい。高もりを飯の大盛り・高盛りと比ゆしている。当時の携行食は焼飯、あるいはかれ飯(乾飯)を水で解して食べていた。・中の町は玖珂三市阿山・新町・本郷のうち、玖珂の中心玖珂本郷。未(ヒツジ・うれ)の町は野口を指すと思われる。
翌二十三日、河内(御庄)といえる村を通ってミしやう川の渡し(御庄の錦川渡し)、お瀬川を船賃渡りし安藝の内に入る。小方から船を頼み宮島に渡り一宿。二十四日鳥居や厳島、その他をつぶさに見聞した内容が記載されている。
*「家久君上京日記」:家久は、島津貴久の四兄弟末っ子(四男)。29歳のとき、当主長兄義久の許しを得て天正三年(1575)二月から七月に及ぶ伊勢参りの道中日記。二月二十一日薩摩串木野城を出立、途中関所破りや、京都では連歌師里村紹巴(じょうは)や弟子の心前に案内されて大阪石山本願寺攻撃から帰陣途中の織田信長の行軍を見物し、百騎ばかりの馬まわり衆に囲まれて馬上で居眠りをしている信長を目撃し、そのときの信長の服装・馬具、乗り換え馬三疋が記されているが、行列のいでたちや規模に「十七ケ國の人数にて有し間、何万騎ともはかりかた由申候」」と目を見張っている。京都滞在は約五十日にわたり、近江坂本の明智光秀を訪ね歓待されたことや、伊勢神宮参詣・奈良見物等多彩である。復路は一旦京に戻り、堺に向う。摂津尼崎経由、有岡の荒木村重居城の石垣普請を見て、丹波篠山、但馬経由氷ノ山越をして若桜街道を因幡に出てから伯耆大山寺。米子から中海・宍道湖を平田に向かい杵築大社参詣。石見銀山経由温泉津では出雲衆男女わらハへ(童部:出雲阿国の類か?)の能とも神舞とも判らぬ舞を見物し、浜田から海路平戸経由七月二十日串木野に帰る。当時としてはユニークで史料価値が高い貴重な資料。
(本項2014.05.14Y氏から史料受領・追加記載)
「家久君上京日記」の全文及び道中ルート図について、ブログ「徒然草独歩の写日記」に掲載しました。(2014/06/29)
話の続きのため差川の関連史跡についてふれると、
「金盛神社」については、「周東町史」に「米川の差川金盛山に鎮座し、須佐之男尊を祀る。『山口県神社誌』によると寛永二年(1625)に、もと大内氏の一族であった三尾山城主田中治郎左衛門尉多々良教意という人(?このまま読むと大内家戚族等の間語がぬけているので、あたかも教意が城主(城代)と解釈しそうだが...。城代は自害した教信。)が出雲大社から分霊を勧請し、差川の鎮守としたとある。旧号を祗園牛頭天王社と呼び、明治四年に金盛神社と改称した。例祭は十月八日である。」とある。
「差川風土記改訂版」によると、「金盛山には田中教意創建の以前から地下の人が「お祗園様」と称する祗園牛頭天王社があり、元治元年(1864)甲子の年、神号を金盛神社と改正し、明治四年改正は誤り。」とある。
上差川の田中家を訪ねてみたが古老はすでに亡く、庄屋田中姓の前は蔵田姓であったことのみしか確認できなかったが、悟朗氏は謙遜どころか、杵ケ迫で自刃し、当地に供養墓がある蔵田治部少輔源教信の兄系(淡路)末裔であることは間違いないようだ。
金盛神社手前の田中家墓地には田中教意夫妻の墓がある。二重の台石上の総高二メートル余りの自然石の墓は、他の墓を圧倒する。表に夫妻の戒名、側面に夫妻の死没年月日が刻まれ、田中教意は、「士 寛永十八年辛已(1641)二月十八日」とある。裏に「大内家戚族三尾山城主 蔵田治部少輔源教信長男 田中治郎左衛門尉多々良教意」とある。この陰刻文は、字体からみてのちに刻まれたようだ。墓前の石灯籠には妻「ゆい」の死没年月日である萬冶三年(1660)十月十八日と刻まれている。
上差川の田中教意夫妻の墓と陰刻文 |
金盛神社は田中家の裏、杵ケ迫へ通じる「盛光越」の途中、金盛の地にある。「盛光越」は途中、桟道がいたるところで崩れ通行不能である。(上差川の項で後述)
通化寺で特筆すべきは、幕末に遊撃軍本営が置かれたことである。
当寺には遊撃軍ゆかりの品々が保存されているが、特に東行と号した高杉晋作遊撃軍激励の詩「訪遊撃軍諸君即吟」が保管されていて、境内の左側にその「高杉晋作詩書」石碑がある。碑陰には、読み下し文を刻した銅版がはめ込まれている。昭和五十五年八月十五日、周東町久田の市原伊男氏の建立で、吉山美夫氏の「島田川歴史散歩」によると要旨は次のようになる。
殱賊興正非我功 幸隋驥尾全斯躬 | 賊をほろぼし 正を興すはわが功に非ず 幸い驥尾に従いてこの身を全うす 豊公の事業君怪しむことなかれ 一片機心今古同じ 遊撃軍の諸君を訪うて即吟す 東洋一狂生東行 |
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豊公事業君無怪 一片機心今古同 | |||
訪遊撃軍諸君即吟 東洋一狂生東行 | |||
(注)驥尾(きび):駿馬の尾っぽ。転じて優れた人の後ろ、背。 賊を打ち破り、正道を興すは我々の功績ではなく、先輩、先達のお陰によるものである。 今、その教えに従ってこの道を全うせんとしている。 秀吉公が偉大な事業を成し遂げたが、何も不思議はない。昔も今も成し遂げようとする 旺盛な意欲があれば、きっと成就するものだ。諸士大いに奮起せよ。 |
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11.07.14拓本講習会(講師:松岡睦彦氏) 「遊撃軍陣営遺跡保存基金芳名」石柱 |
「高杉晋作詩書」石碑の背後には「遊撃軍陣営遺跡保存基金芳名」の芳名石柱が九基ある。右から順に、「金參百圓 毛利家」、「金參百圓 子爵河瀬 眞」、「金貮百圓 吉川家」、「金壹百圓 江木千之」の他、「金五拾圓
(芳名省略)」が五基ある。
子爵河瀬 眞は、再建遊撃隊総督河瀬安四郎(河瀬眞孝・真孝:侍従長等歴任、枢密顧問官のとき大正八年没・八十歳)の三男で海軍少将、昭和八年予備役被仰付、昭和十四年貴族院議員に互選される。江木千之(かずゆき)は、岩国藩志士江木俊敬(玖珂阿山の萬久寺で前述)の長男で大正十三年文部大臣に就任。晩年は枢密顧問官を務める。詳細は 徒然草独歩の写日記:<幕末維新の遊撃軍史跡「通化寺」の縁日>参照。
その他の碑として、「遊撃軍記念碑」・「遊撃軍招魂碑」・「遊撃軍陣営遺蹟移管碑」が通化寺背後の大梅山境内にある。「遊撃軍招魂碑」は山口県知事大森吉五郎謹書、裏面に「大正十五年仲秋日建設 遊撃軍遺蹟保存會理事長三戸熊太(高森村長)」とある。
遊撃軍記念碑 | 遊撃軍招魂碑 | 陣営遺跡移管碑 |
遊撃軍隊士行進之図(部分):高森・浄土真宗正蓮寺蔵 画幅 : ・縦約49cm ・幅約280cm | |
注:この写真は、掲載スペース上最後列の前部7名をカット。 正蓮寺分駐の狙撃隊士32名全員に氏名が書かれている。 ・騎乗者は順に、中川吉之輔(武州忍浪士) ・八谷弥四郎(長州藩大組士) 新坂小太郎(土佐浪士・狙撃隊司令)。 ・騎乗の3名は烏帽子に陣羽織。 ・隊士服装 : 筒袖小袴に惣髪を後に束ね、白鉢巻き。 足には黒脚絆、黒足袋に草鞋ばき。 (長羽織に朱鞘が勇壮に見えるとして流行。) ・先頭と中央の鼓手は若年層。羽織は着用してない。 |
ここで少し横道にそれるが、遊撃軍と付属の維新団や高杉晋作、吉田松陰等を中心とした幕末維新の動きについて述べてみたい。これらの目まぐるしい維新の動きをシリアスに、なお且つ簡潔に語るのは複雑・困難であるが、これを知らないと、この地に居を構えた新参者にとっては単なる街道遊歩になってしまう。よくご存知の方は目を瞑って通り過ぎてください。
記載の構成は、通化寺を本営とした遊撃軍四境戦を主体に、高杉晋作、吉田松陰等に及んでいるため、一部順不同、重複記載となる部分があります。(遊撃軍関係は「周東町史」・「諸隊の雄
遊撃軍」を基に適宜追加)
先ず前段として、桂小五郎は藩医の息子で百五十石桂家の末期養子。高杉晋作は百五十石、小納戸役のち直目付役の高杉小忠太の長男で、同じ松陰門下生とは格が違う。久坂は藩医の息子。品川・伊藤・山県らは足軽、中間であった。桂小五郎は門下生というよりは松陰と兵学師弟関係、友人で門下生のリーダー的存在。周布政之助の考えにも似た知見に富んだ開明的尊王攘夷論者で、過激な松門らとは立場を異にすることもあり、周布政之助・高杉晋作亡きあと長州藩の枠を超えて幕末期から新体制への指導的役割を果たすことになる。
通化寺境内遊撃軍・その他遺跡略図 |
文久三年(1863)馬関攘夷戦は五月十一日の米国商船砲撃のあと五月二十三日の仏軍艦、二十六日には蘭軍艦と交戦、六月に入り米、仏艦の報復に壊滅的甚大な被害を受ける。江戸・京から帰り出家「東行」と名乗り萩松本村団子岩の堀真五郎庵に隠棲(経緯等吉田松陰の項参照)していた高杉晋作は藩主敬親の命により六月五日萩から山口に召喚され、馬関の長州軍立て直しを命じられる。六月六日深夜には下関竹崎の白石正一郎邸に入り、六月七日白石邸において自ら具申、計画の士農工商の混成軍団奇兵隊を編成し二十日後奇兵隊総督を命ぜらる。のち隊員増に伴い本営を白石邸から阿弥陀寺に移す。八月十六日教法寺事件(省略)の責を問われ総督を罷免されるが、藩主の信任厚く十月、百六十石を給せられ奥番頭役を任ぜらる。
注:白石家は清末藩領に属する下関竹崎にあって、代々回船問屋を営む清末藩御用商人。薩摩藩指定の御用商人にもなる。白石正一郎は若年の頃より鈴木重胤に国学を学び熱心な尊王家で諸藩の志士とも交友、その活動を援助する。奇兵隊結成に当たり屋敷を提供し、自らも弟廉作と共に入隊。会計役として高杉晋作を公私両面において援助。元冶元年の七卿西下に際しては、七卿とその関係者多数を白石家に迎え、錦小路頼徳はここで病死している。幕末維新時に白石邸を訪れ、正一郎の援助を受けた志士は、西郷隆盛・大久保利通・平野国臣・坂本龍馬・野村望東尼らその数は四百人に及ぶ。特に晋作とは深い信頼関係によって結ばれたが、晋作志半ばで没したあと、維新活動に全資産を総べて投じ晩年は借金に困窮する。明治十年(1877)に赤間宮(旧阿弥陀寺)の初代宮司を拝命。同十三年八月三十一日没す。行年六十九歳。
翌元治元年(1864)七月十九日来嶋又兵衛創設の遊撃軍は、「蛤御門の変」で又兵衛をはじめ、松陰門下生の中でも傑出していた久坂玄瑞、寺嶋忠三郎らが敗死。
このとき、高杉晋作は藩命により藩主直書を京都進発強行論者来嶋又兵衛に渡し暴挙を説得するも失敗。再度説得するため、前年の「八・一八政変」・「七卿都落ち」(省略)のあと親長州諸藩との連絡確保、失地回復に当たっていた京坂の桂、久坂らの意見や動向を探る必要から上洛を主張するも入れられず許可を得ず京に向かい脱藩。(「吾されば人も去るかと思いきに 人びとぞなき人の世の中」)のち世子定広直書による帰国を命じられ、三月二十五日帰国。先ず脱藩の罪で野山獄に三か月入牢。「先生を慕うてようやく野山獄」の一句をものにす。5月になって武力恭順派の指導者であった筆頭政務役周布政之助(麻田公輔)は酒に酔い野山獄に乱入、獄中の晋作を叱咤、檄を飛ばし逼塞に処せられ、半年後政情急変、保守派により失脚、自殺。六月五日池田屋事件で吉田稔麿自刃。これを引き金として京に先発した来嶋又兵衛らを久坂は時期尚早と説得するも、続いて上洛(晋作出獄の五日前)の三家老の軍と行動を共にせざるを得ず、七月十九日会津・桑名藩の幕軍とこれに加担の西郷らの薩軍に蛤御門の変に敗れ、久坂は寺嶋忠三郎と鷹司邸で差し違えで自刃。又兵衛も戦死。これで松下村塾四天王の内、晋作を除く久坂、寺嶋、吉田稔麿(後述)の三人を失う。晋作は六月二十一日出獄後父高杉家預かりとなり座敷牢に謹慎中であったが、八月五日から八日朝まで、四カ国連合艦隊下関攻撃、長藩完敗。これに先立ち、周布政之助が秘密裏に英国に送った秘密留学生五名(長州ファイブ)のうち井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)は、三月にロンドンタイムスで攻撃を予知し、驚き帰国し六月横浜に到着、英国公使と避戦工作後馬関先行偵察の英艦で姫島経由船を継ぎ富海上陸、山口の藩府に避戦を説得するが攘夷一色の大勢を変えることは出来なかった。七月になって四カ国艦隊十七隻横浜出航の情報、ついで蛤御門の変に敗北敗走、長州征討勅命の報に藩府は動揺。八月三日連合艦隊十七隻姫島集結。藩府はようやく避戦講和を目的に四日先ず井上聞多を、ついで五日謹慎中の晋作を座敷牢から連れ出し伊藤を随伴、下関に急行させるが間に合わなかった。
司馬遼太郎の「世に棲む日々」に、「五日深夜、開戦の報を山口へ急報する井上の早駕籠と晋作らの早駕籠が船木ではち合わす。」とある。
四カ国艦隊の馬関報復攻撃に完敗したあと、晋作は連合国との講和談判正使として一門の「宍戸刑馬」の偽名で陣羽織に立烏帽子姿で身分相応に騙り、急拠英国から帰国の井上と伊藤を通訳に交渉を主導している。三回の談判のうち二回目は過激攘夷分子に命を狙われ潜伏のため欠席(毛利登人代行)、八月十四日の最後の談判には、藩政府は晋作と伊藤を引っ張り出し、身辺保全を確約し臨ませている。このとき、彦島租借の要求を頑として撥ね付けている。(租借要求を耳にしたとき、上海・香港の状況が脳裏に浮かび、一瞬顔面蒼白になったのではあるまいか。)
幕府は八月一日、征長令(第一次長州征討軍)を発する。同五日から八日四カ国連合艦隊馬関攻撃、長藩敗北、十四日最終講和談判成立。同年九月、藩政の主導者で、松陰や高杉のよき理解者であった周布政之助(麻田)は俗論党の追及を受け軟禁中の山口の庄屋吉富藤兵衛宅で自殺。政局有利となった幕府への謝罪恭順保守派(俗論党)は同年十一月三家老、益田・国司を徳山総持院で、宇部領主で徳山支藩出身の福原越後(八代徳山藩主毛利広鎮の子で九代藩主元蕃の庶兄)を岩国に護送、川西の龍護寺(現、清泰院)で切腹を命じる。これにより征長幕軍広島を撤収。これより先、高杉晋作は十月二十五日萩を発し、周布自殺と同日の君前会議のあと俗論派刺客に襲われ瀕死の重傷を負った井上聞多(馨)を山口湯田に見舞ったあと、三田尻にあった奇兵隊軍監山形狂介(有朋)と密会後、富海から海路下関竹崎の白石正一郎宅へ二日潜伏、十一月一日谷梅之助の変名で筑前の志士中村円太と白石正一郎の弟大庭伝七を伴って筑前に渡り勤皇志士を糾合して回復を図ろうとするが、蛤御門の変・攘夷戦完敗・征長令に各藩は佐幕色を強め、ここでも暗殺の危機がせまり、十日筑前藩士月形洗蔵、藤
四郎(長州奇兵隊士でもある)の計らいで尊王攘夷論者野村望東尼(もとに、ぼうとうにとも)の平尾山荘に潜伏。三家老切腹・四参謀野山獄斬首のあと、俗論派は幕命による三条実美ら五卿の大宰府送りを実行しようとするが、これを阻止するためと俗論派による諸隊解散・懐柔策に揺れる正義派諸隊は長府藩主を頼り五卿潜居功山寺の地長府近辺に集結する。これを知った晋作は、二十一日平尾山荘を離れ、秘かに馬関に帰り諸隊の決起を促す。ここに於いて、かって幕獄松陰から教唆された死生観が発揮されようとするのである。
(2011.04.14):野村望東は決死の覚悟をもって馬関に向かう晋作に衣と歌を贈り武運を祈る。下関市丸山町の日和山公園には、このときの晋作の漢詩と望東の和歌が上段と下段に彫られた大きな石碑が巨大な備前焼の晋作立像(4.2m)と共にある。
帰馬関有此作 言志 |
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売国囚君無不至 捨生取義運斯辰 天祥高節成功略 翌学二人為一人 東行 |
国を売り君を囚え至らざるなし 生を捨て義を取るはこれこの辰 天祥の高節成功の略 二人学んで一人を為さんと欲す 東行 |
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谷梅ぬしの故郷に帰り給ひけるに、 形見として夜もすがら旅衣をぬひて贈りける 望東 |
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まごころをつくしのきぬは國乃為 たちかへるべき衣手にせよ |
別に
自愧知君我狂容 山荘我留更多情 浮沈十年杞憂志 若不閑雲野鶴清 |
君の我が狂を容れるを知りて自ら愧ず 山荘に我を留めて更に多情 浮沈十年杞憂の志 閑雲野鶴の清きにしかず |
山口の 花ちりぬとも 谷の梅の ひらく花びを たえて待ちなむ |
(2011.06.18) 平尾山荘と望東尼胸像 ・ 福岡市中央区平尾5丁目2-28 Tel:092-711-4666(福岡市 文化財保護課) |
高杉晋作回転義挙銅像(功山寺) |
最初、諸隊解散をもくろむ俗論派に懐柔されつつあった奇兵隊率いる山県狂介(有朋)ら諸隊は、征長幕軍迫るなかの内訌戦に優柔、時期尚早と反対するも、土佐、福岡、久留米藩等の脱藩浪士で編成の河瀬安四郎(石川小五郎・真孝)率いる再建遊撃隊六十名と伊藤俊輔(博文)率いる力士隊十数名がこれに呼応し十二月十五日夜半功山寺に集結。翌十六日未明本藩直轄領下関新地の会所を襲う。このときの呼応者僅か八〇名(「功山寺挙兵・決起」)。このとき奇兵隊総管赤禰武人は征長軍迫るなか、萩にあって俗論派との内訌避戦・藩内和平(正俗折衷論)を模索していたが立場を失い晋作と対立することになり奇兵隊士から孤立、翌正月下関を脱走、幕軍と和平工作・接触のため筑前経由大阪へ向う。
功山寺をクーデター決起の地にしたのは、ここに仮泊していた三条実美に義挙兵としての公認と進発命令を受けるためであった。このあと、十八名の浪士を選抜率い、三隻の早船に分乗し三田尻に急行、艦長を説得し藩の軍艦三隻を奪い、三艦は下関へ急行(のち大田絵堂戦勝利後癸亥丸(きがいまる)を萩湾に派遣し萩城下を空砲で威圧)。下関で募兵し好義隊と命名、伊藤俊輔を総督とする。これを知った俗論派は野山獄に投じていた毛利登人(のぼる)、楢崎弥八郎、松島剛蔵ら正義派政務員七人を、正義派が奪還することを恐れ一気に処刑すると共に藩主の意に反して追討命令を出す。(このとき、三条実美ら五卿は、第一次長州征伐のあと幕府の命により翌年正月九日大宰府移送の直前で戦火を避けるためもあり五卿はこれに従う。)
伊藤博文の回顧によると、いよいよ新地会所へ向けて出発のとき、高杉晋作は桃ざね形の兜を首から背にかけ、馬上から三条実美に向かい大声で「これから長州男児の肝っ玉をお目にかけます」といったという。
隊列が進み始めた晋作馬前に奇兵隊参謀福田侠平が雪中に座り込み制止するが、後方に大砲を引っぱっていた遊撃隊森重健蔵が「高杉総督、お進みになったらよろしかろう」と怒鳴る。隊列は福田の肩をかすめるように雪を踏みしめながら進んだ。晋作らの長府領内通行は藩主によって許可されていないため、数隻の舟で砲一門とともに馬関に向かう。福田は明治元年十一月戊辰戦争に勝利凱旋後、下関で祝宴深酒後脳卒中で急死。遺体は遺言により吉田清水山東行庵の「東行墓」の横に葬られる。
(注)力士隊四十七名のうち、伊藤に従い晋作挙兵に応じたのは十数名で、功山寺挙兵後間もなく山分ら二十九名は離脱して萩へ向い、藩政府軍撰鋒隊とともに正義派諸隊と戦うことになる。また、山県ら諸隊は十六日未明晋作新地襲撃の日、五卿のうち三条西・四条の二卿を護衛し、長府を発し萩に向い吉田経由十二月十七日伊佐に到着。後続諸隊の一部は河原宿にも入る。二卿らの目的は藩主に面会し政務員の一部更迭・幕府監察使に対応するため諸隊兵員の一時離散令(雲がくれ)に伴う駐屯場所の決定・獄中正義派政務員らの開放の三項目を藩主敬親に要求するためであったが、萩城下には幕府監察使が滞在していたため、二卿は藩主面会を断念し二十七日長府への帰途につく。同日幕府は征長軍撤兵令を発する。いきなりの晋作の十六日未明新地会所襲撃成功を諸隊が知るのは伊佐へ出発前か移駐の途中であったと思われる。「白石正一郎日記」十六日に「今昼頃諸隊不残伊佐へ転陣」とあり、「奇兵隊日記」に功山寺挙兵が記されるのは十八日のことである。山縣ら諸隊の萩へ向けての伊佐転陣と晋作功山寺挙兵は無関係で別行動(諸説あり)であったが、結果的に晋作挙兵に応じた形となり、晋作や伊藤と同じ松門の山県有朋にとって生涯の一大痛恨事となり、赤禰武人を恨む心情は強烈であったろう。逆に晋作は挙兵に反対の諸隊の動きをつかみ、先手を打ったのかもしれない。十二月二十六日粟屋帯刀指揮の藩政府軍撰鋒隊(正規軍)は萩を発し二十八日絵堂宿に着陣、庄屋藤井邸を本陣とし、別働隊の財満新三郎は一ツ橋に駐留する。児玉若狭は三隅に兵を進め、鎮静軍総奉行毛利宣次郎は二十八日明木宿に本営を構える。萩政府軍は伊佐の山県に使者を数度送り諸隊の銃器を差し出すよう求める。これに対し山県は妥協のそぶりを見せ、時間的猶予を求め「萩政府がいつまで猶予を認めるか翌正月三日までに回答するよう。回答ない場合は萩へ進む」と微妙な言い方をするが、使者は諸隊解散の意思ありと早合点する。翌正月三日安心した萩から何も言って来ない。そこで、奇兵隊の一部と南園隊・膺懲隊は、大嶺から秋吉経由、正月六日夜半に絵堂に潜行。七日二時頃粟屋帯刀本陣に「戦書」を投じ、奇襲して絵堂を占拠するが、地形不利のため大田に転進、金麗社を本陣とし萩俗論派政府軍と対持する。
元治二年(慶応元年1865)正月三日、諸隊も同調した約千五百人の諸隊は萩へ向けて進軍開始(「わしとお前(山県)は焼山蔓 裏は切れても根は切れぬ」:晋作)。晋作は下関にあって小倉口の征長軍に備え、山県率いる奇兵隊が主力となり(「萩にゃ行きたし小倉も未練 ここが思案の下関」:晋作)、美祢郡大田・絵堂戦で粟屋帯刀指揮の撰鋒隊を主力とする藩政府軍と激戦するもこれを次々と撃破し、正月十六日後続援軍の晋作率いる河瀬安四郎遊撃隊・伊藤らも赤村の最終戦に主力となり勝利し、山口に入り萩を威圧。慶応元年(元治二年)二月十五日、椋梨藤太らの保守俗論派を萩から一掃する(後、津和野領で捕縛され萩護送斬首)。藩論ここに定まり三月五日山口多賀社において毛利家祖霊社臨時祭を修し、藩主敬親(たかちか)父子の告文を捧げて内訌の罪を謝し、冥助を祈るとともに諸隊にも参拝を命じる。ついで幕軍の再征に備えてその部署を定める。東境の芸州口には遊撃隊、西境の小倉口には奇兵隊を配し、遊撃隊(注:来嶋又兵衛創設の遊撃軍は京変戦に致命的敗北後遊撃隊と改称)は高森南方午王内の古刹通化寺、奇兵隊は厚狭郡吉田(現下関市)を駐屯地とし、同時に諸隊付属の病院を廃し、山口・吉田・高森に軍事病院を常設、高森本陣医三戸玄庵を高森病院(受光寺)の専属医とする。
(注: 来嶋又兵衛創設の遊撃軍は京変戦に一時期解散状となる打撃を受けるが遊撃隊として再編、改称。吉敷郡佐山出身萩藩士河瀬安四郎(石川小五郎:朝陽丸事件の首魁とされ、こののち河瀬安四郎と改名)はこの再建に努力。正式には遊撃隊だが隊士や世俗は好んで遊撃軍と呼ぶ。通化寺境内の招魂碑や籌勝院・円月寺墓地の神霊も遊撃軍〇〇隊と陰刻。「遊撃軍」と呼称されることが一般的である。
河瀬安四郎(河瀬真孝) |
須々万から高森へ転陣を命ぜられたころの遊撃隊総督は高杉晋作であったが、この年四月馬関換地開港説を唱えて、長府暗殺団から命を狙われ四国へ亡命したので河瀬安四郎(真孝・石川小五郎)が総督となり、八月には吉敷毛利世嗣幾之進を総督とし、河瀬は副督となり芸州口の警備を強化した。遊撃軍の須々万から高森移駐は遅くとも三月下旬、閏五月頃まで高森市に駐屯し通化寺陣屋の完成につれ順次移駐したと思われる。橋本亀十郎の回顧録「閑居録」によれば、しばらく各寺に駐屯したあと、五月二十七日に各隊通化寺の新営に入ったとある。前述、遊撃軍隊士行進之図所蔵の正蓮寺には、狙撃隊が慶応元年四月から五月下旬までの短期間宿泊している。
小柴三郎兵衛源勝忠墓(右から二番目) |
遊撃隊(軍)の軍規は厳しく、遊撃隊斥候筑前浪士小柴三郎兵衛(小藤平蔵勝忠)は父の病気見舞いのため福岡に帰るが、帰隊が僅かに遅れたため間諜嫌疑で、受光寺本堂で裁判、慶応元年5月12日東河原に切腹。享年27。のち從五位。小藤(ことう)平蔵勝定の墓は通化寺の天野元嘉夫妻墓の背後にある。「筑前藩士小柴三郎兵衛源勝忠墓」とある。
小藤平蔵の弟藤村六郎(小藤四郎)も御許山騒動に連座し阿弥陀寺に処刑されており、福岡藩士卒小藤平吉は熱烈勤王の息子兄弟二人を失うことになる。(後述、野村望東尼救出の項参照)
前述正蓮寺にも、軍律の厳しさをを裏づける分厚い日めくり大福帳様の宿泊隊士及び訪問関係者の日別時間別出入管理簿(仮称)が保存されていたが、地元の関係催に貸し出された際行方不明になっている。
慶応二年(1866)二月七日 幕府全権大使老中小笠原長行広島に入り、二月、三月、五月数度の懲罰処分通達を長藩拒否。この間岩国藩主吉川経幹(つねまさ・監物)は広島の幕吏との交渉役を果たす。六月五日長州征伐勅許。幕府は諸藩に長州総攻撃を命じる。
(参考:高杉晋作後半を主体とした幕末長州藩年譜)
文久二年(1862) :吉田松陰の項参照。 (参考:この年4~11月にかけて萩藩密用使内藤・三井・前田・小田村文助(伊之助)相次ぎ訪岩、吉川経幹の上京を促す。12/12高杉晋作らは御殿場英国公使館を焼き討ち。)
文久三年(1863) ・1/5前年の大赦令を受け、晋作、久坂、伊藤ら、小塚原の松陰遺骨を世田谷の大夫山に改葬 ・2/7藩主毛利慶親(敬親)京から海路帰藩の途中岩国横山館に寄り、吉川氏を三末家同様に礼遇すべきことを告ぐ ・3/1晋作、京都学習院御用掛を命じられ江戸を発つ ・3/11孝明天皇将軍家茂を従え賀茂神社攘夷祈願行幸 ・3/15晋作十年間の賜暇を許され剃髪し東行と号す ・4/15萩藩密用使上山縫殿・杉徳輔・小田村文助訪岩 ・4/16政事堂を萩から山口へ移し藩政の中心とする ・4/17吉川経幹、世子元徳名代として京都警備の任に岩国新湊を発つ ・4/21幕府は攘夷期限を5/10と定め朝廷に奏上 ・4月下旬晋作萩に帰り、松本村堀真五郎の草庵に隠棲 ・5/10久坂玄瑞光明寺党、田ノ浦沖停泊中の米商船砲撃、のち長藩、仏・蘭軍艦を砲撃(馬関攘夷戦緒戦)・5/12周布派遣の英国秘密留学生井上聞多、伊藤俊輔ら五名横浜発、11月英国着 ・5/22勤王公卿姉小路公知暗殺事件を契機に長藩堺町御門警衛を命ぜらる ・6/1米艦ワイオミング報復攻撃亀山砲台破壊、癸亥丸大破、庚申丸轟沈、壬戌丸大破沈没 ・6/5仏二艦前田砲台破壊、陸戦隊上陸。・6/5晋作、藩主敬親の命により松本村草庵を出て山口に入り、藩主に奇兵隊創立を具申 翌6日深夜下関白石邸に入り6/7奇兵隊結成 ・6/17攘夷戦不参加の小倉藩を攻撃、一時期田ノ浦占領砲台を築く ・7/2~4薩英戦争(前年8月の生麦事件が端) ・7/20長州藩府を山口居館とすることを布告 ・7/24攘夷詰問の幕艦朝陽丸下関入港するも奇兵隊占拠、のち8/19陸路小郡三原屋本陣宿泊の詰問使中根一之丞を襲い、長藩は帆船で逃がすが8/21中ノ関沖に追い斬殺海中投棄(朝陽丸事件) ・8/16世子定広下関砲台巡覧・教法寺事件、晋作奇兵隊総督罷免 ・8.18政変・七卿都落ち・長藩西下(禁門の変)・天皇大和行幸延期・長藩の親征攘夷策崩壊・長藩の堺町御門警衛罷免 ・8/19宗主名代吉川経幹、清末藩主元順ら約2000名の長州勢、七卿とともに海路西下 ・9月椋梨藤太ら保守恭順派は周布ら武力恭順派を罷免するが、晋作らによって復活 ・10月晋作、百六十石を給せられ奥番頭役に任ぜらる ・10/4赤禰武人奇兵隊総管となる
・10/19萩藩使者高杉晋作・11月粟屋帯刀、12月福原越後・清水清太郎・前田右衛門相次ぎ岩国訪問(この頃岩国吉川経幹は世子元徳卒兵上京による名誉回復案に断固反対、萩藩の説得に応ぜず。) ・11月秘密留学五名英国着
元冶元年(1864) ・1月晋作、藩主直書を以って進発強硬の来嶋又兵衛を説得するも失敗、世情把握と桂らとの接触を目的に脱藩上京 ・3/11世子定広(元徳)晋作に帰国命令、晋作京を発つ ・3/中旬英国秘密留学中の五名のうち井上、伊藤はロンドンタイムスで四国艦隊馬関攻撃を予知し急遽英国を発つ ・3/29晋作脱藩の罪で役職罷免、家禄没収、野山獄入獄(6月出獄座敷牢蟄居)。このころ、在京桂・久坂は進発論に時期尚早の意見。岩国吉川経幹は反対 ・3月藩議主戦、進発決定 ・5/5周布(麻田)は酒に酔い野山獄に乱入し獄中の晋作に檄を飛ばし激励、のち逼塞処分を受ける。(半年後政情急変失脚し自殺)・5/23・6/21藩主敬親進発に反対の吉川経幹(監物)を山口へ呼び協力と元徳(定弘)随伴上京を説得 ・6/9池田屋事件 ・6/10井上・伊藤、英国から横浜帰着。英国公使に避戦工作後、偵察目的先発の英艦で6/20横浜を発し24日姫島で船を継ぎ富海上陸、山口藩府へ避戦を説得するもかなわず ・6/10小瀬関門起工8/3警固開始 ・6/14山口藩府池田屋事件を知る ・6/21晋作に出獄命令、座敷牢謹慎 ・6/16福原越後の兵、来嶋遊撃軍伏見進駐。次いで26日国司信濃、7/6益田弾正の兵着陣 ・7/19 蛤御門の変、長藩敗走 ・海路上京途次の世子元徳・吉川経幹は蛤御門の変報に途中引き返す ・7/23幕府第一次征長発令 ・8/3小瀬関門警固開始 ・8/4四カ国艦隊十七隻姫島集結、4日藩府は避戦目的に井上を下関に向わせ、次いで5日晋作の蟄居を解き伊藤を随伴井上の後を追わす ・8/5~8日四カ国連合艦隊馬関攻撃、前田・壇ノ浦砲台占領、長藩完敗。・8/6岩国吉川経幹長藩の依頼により征長猶予の周旋を幕軍と始める ・8/14晋作馬関戦第三回講和談判締結 ・9/26周布政之助山口吉富藤兵衛宅で自殺(四二歳)、同日夜半君前会議後井上聞多俗論派に襲われ瀕死の重傷 ・10/5晋作長男梅之進誕生 ・10/25晋作萩を発し山口湯田の井上を見舞い、三田尻で奇兵隊軍監山県と密会、翌日富海から白石正一郎宅経由11/1筑前に潜入、同/10野村望東の平尾山荘へ潜伏 ・11/4征長軍参謀薩藩西郷吉之助ら周旋・三家老処分督促のため岩国に入る ・11/11益田、国司、/12福原三家老切腹、長藩恭順 ・11/12吉川経幹広島国泰寺に赴き攻撃延期を請う ・11/13長藩家老志道安房、三家老首級を征長総督府広島国泰寺へ護送、ついで山口城破却、三条実美の交府、毛利敬親親子の謝罪書提出を吉川経幹に命じるが、攻撃延期の通知がないため広島に留まる。11/21攻撃延期告知を受け経幹岩国へ帰る ・11/21晋作平尾山荘を発つ ・12/15夜晋作功山寺挙兵、翌16日未明新地会所襲撃 ・12/18俗倫派は野山獄の前田・毛利登人・山田・渡部・楢崎・大和・松島剛蔵の正義派七政務員処刑、12/25重臣清水清太郎に切腹命ず ・山県率いる奇兵隊等、諸隊萩を目指し先発 ・12/28伊佐から秋吉台を進軍、粟屋帯刀指揮の藩政府軍と絵堂で接触 (晋作は下関で小倉集結の征長軍に備える) ・12/20薩藩西郷吉之助ら再度岩国訪問 ・12/27征長総督徳川慶勝征討諸軍に撤兵令、第一次長州征討終結 (この年、藩主敬親村田蔵六(大村益次郎)を重用、西洋兵学講義・指導)
元冶二年(慶応元年1865) ・1/2内訌戦に反対(正俗折衷論)の赤禰武人は奇兵隊士・晋作らと孤立、下関を脱出、対幕避戦和平接触を目的に筑前経由大阪へ向い3月幕吏に捕縛される ・1/6未明、諸隊絵堂の藩府軍本陣をを奇襲 ・1/14五卿長府を発し筑前大宰府に移る ・1/14山県奇兵隊を主力とする諸隊、大田・絵堂戦に勝利。別動の御楯隊は小郡襲撃、ついで農民を募兵蜂起させ(鴻城軍)12日山口襲撃支配下。・大田の最終戦に後続援軍の晋作、山口に入り萩を包囲、威圧 ・1/15岩国吉川経幹、本藩諸隊沸騰につき鎮撫のため出馬玖珂本陣へ着陣するが1/25帰城 ・2/15正義派(武備恭順派)に同調の中間派台頭、萩を制圧、俗論派(保守恭順派)を一掃し内訌戦終わる ・2/22藩論「武備恭順・倒幕主戦」統一 ・2/27蛤御門の変以来萩に帰城恭順の毛利敬親萩を発し山口館に帰る。・3月晋作突然ヨーロッパ洋行を希望し伊藤を伴い長崎に赴くがグラバーに説得され井上、伊藤と下関直轄地化と開港を画策(長府藩との「馬関換地論」)。長府藩暗殺団の暗躍に藩府は晋作ら三名の身辺保全を目的に外国応接掛罷免し山口へ戻そうとするが、4/下、三名は各自、暗殺団から逃避潜伏。晋作は愛人「おうの」と大阪経由四国多度津の讃岐の勤王侠客といわれる日柳燕石(くさなぎえんせき)にかくまわれるが、のち備後鞆の浦へ逃げる ・4/26桂小五郎但馬から帰国、長藩指導権掌握。・閏5/6桂小五郎、坂本龍馬と赤間関で会談 ・閏5月敬親父子・岩国等一門諸侯山口で会議、挙藩防戦を確認 ・閏5月末、晋作ら逃避行から帰関し、桂と共にグラバーを通じ武器調達に着手。 この頃大村益次郎(村田蔵六)は桂、晋作らの要請で西洋兵制による諸隊増強に着手 ・閏5月将軍家茂長州征討を目的に上洛するも兵庫開港問題・長州処分・公武合体・勅許を巡り朝廷・一橋慶喜(将軍後見職)・西郷、大久保率いる薩摩藩ら政争。 ・6月野村望東尼福岡藩勤王党弾圧により自宅幽閉、10月玄界灘姫島に流される ・12月対長藩和平懐柔工作のため赤禰武人は新撰組近藤らによって広島へ護送され、岩国藩主吉川経幹(監物)と接触を図るも密告され翌正月2日出身地周防大島郡柱島(岩国領)で捕縛、山口へ護送。
慶応二年(1866) ・1/21薩長同盟締結 ・1/25赤禰武人スパイ容疑で尋問することなく椹野川畔山口鰐河原で処刑 ・2/7幕府全権大使小笠原広島へ入り5月にかけて数度の長藩処分を長藩拒否(岩国藩主吉川監物対幕折衝奔走) ・2/23妻マサ(雅)・梅之進(3歳)・母ミチ(お道)下関に入る ・3/21晋作、薩英会盟に参加目的でグラバーの船で長崎に赴くが志ならず、洋行を希望するが再び説得され独断でオテント号(丙寅丸)購入、4/29オテント号で帰関。これより前、4/1妻雅らは戦火を避けるため萩へ帰る ・3月大村益次郎兵学校御用掛(教授) ・4/5第二奇兵隊、脱走事件・/10脱走兵による倉敷・浅尾襲撃事件、4~5月関係脱走兵処刑 ・5月大村益次郎大組御譜代昇格(軍責任者)、桂の指示による諸隊整理統合再編「軍制改革」完了。・幕府の最終懲罰処分を長藩拒否。・倉敷騒動脱隊兵処刑 ・6/5一年経過しようやく長州再征勅許(第二次長州征伐) ・6/6晋作海陸軍参謀任命 ・6/7幕艦周防大島久賀を砲撃、幕軍上陸占拠、四境戦大島口開戦・同日、晋作海軍総督兼務任命。・6/10晋作丙寅丸大島幕艦攻撃のため下関を発ち、三田尻、上関経由遠崎へ向う ・6/12深夜晋作丙寅丸で久賀沖幕艦奇襲 ・6/14芸州口開戦 ・6/16石州口開戦 ・6/17小倉口開戦 ・7/20将軍家茂夢去 ・8/1小倉兵、小倉城に火を放つ ・9/2幕吏勝安房守、長藩広沢・大田・井上聞多らと宮島に会見休戦協定成る ・9/16病床晋作の命で藤四郎ら野村望東尼救出、翌17日白石正一郎邸へ ・9/19幕府は征長諸藩に撤兵命令、四境戦終わる(失地回復の小倉藩は戦闘継続) ・10/20晋作病状悪化、軍務を免ぜらる(小倉口後任佐世八十郎:前原一誠・のち萩の乱で処刑) ・12/5慶喜将軍宣下 ・12/25孝明天皇(反長州・公武合体賛同)崩御
慶応二年(1866)五月、遊撃軍の付属隊として「維新団」(総勢一五四人)の編成なる。六月一日、柱野で合薬中、地雷火破裂し遊撃軍地光隊長小崎禎輔ら七人焼死。六月七日「大島口」開戦。六月十三日、遊撃軍小瀬に至り、本陣を籌勝院(ちゅうしょういん)に置く。六月十四日「芸州口」開戦。芸州領木野村中津原に本陣を進め、大竹・小方・玖波を陥しいれる。彦根・高田藩軍敗走。六月十六日「石州口」開戦(大村益次郎指揮・津和野藩通過七月十八日浜田城陥落)、六月十七日「小倉口」開戦。
遊撃軍は六月十九日、二十五日、大野攻めで、紀州を主体とする仏式教練を受けた幕軍最強部隊と戦い苦戦。河瀬安四郎は十九日の報告に「維新団の働き目を驚かす事に御座候」と活躍を称える。三田尻の御堀耕助率いる御盾隊とその付属隊である「一心組」、その他の諸隊が前線に加わる。七月二十日、将軍家茂、大阪城で死去。八月七日、大野・宮内方面への再度の総攻撃で激戦、紀州が守備する大野方面は苦戦するが宮内・串戸の幕軍を一掃し宮内を占領、廿日市に迫る勢い。腹背に敵を受ける形となった大野の精鋭幕軍は八月九日全軍海路五日市以東に総退却。八月十二日広島藩との協約に基づき、長州軍自領内に退き、広島藩兵両軍の間に入り幕軍の進路を遮断。ここにおいて芸州口戦闘終息。九月二日幕吏勝安房、厳島の大願寺で長州藩士広沢兵助、井上聞多(馨)らと会見、休戦を協約。九月十九日、幕府、征長諸藩に撤兵を命じ、長州の勝利のうち四境戦争終わる。
慶応三年(1867)九月薩長両藩「倒幕出兵の密約」なる。十二月九日、王政復古の大号令。明治元年(1868)一月三日、鳥羽伏見の戦いで勝利するも遊撃隊参謀後藤深蔵(土佐浪士)ら戦死。小隊司令宮田半四郎(久留米浪士・後述)銃創を負い重症、のち三田尻の軍病院で死亡。遊撃隊高森に帰陣後、九月、天皇の東京行幸に供奉、先発として東京に赴く。十月、奥州鎮圧のため二本松に赴く。明治二年(1869)二月三日高森に帰陣。十一月山口藩、兵制改革に着手。この措置に諸隊特に遊撃隊の不満動揺最も激烈。十二月三日、諸隊脱退反乱騒動に発展し新政府にあった木戸孝允に鎮圧される。明治三年(1870)三月、遊撃軍解散。五月にかけて遊撃隊士三十人相次いで処刑さる。「遊撃軍隊士行進之図」馬上姿の新坂小太郎(土佐浪士)は、永牢舎の処罰を受ける。明治四年(1871)八月二十八日、太政官、「開放令」発布。(一部加筆)
高森と通化寺の中間にあたる久田の西はずれ、大梅山北東山麓(俗称向山)にある(廃)黄檗宗長命山円月寺境内墓地には、柱野で地雷火破裂し焼死の遊撃軍地光隊神靈碑三基や四境戦の無名戦士の墓がある。
三基のうち、左側が「游撃軍地光隊宮本多三郎則義神靈」、右側が「同、藤井貞吉英勝神靈」、少し手前に「游撃軍地光隊小使喜助神靈」がある。
宮本多三郎神霊左側面に「慶應二年歳次丙寅爰六月朔於柱野驛死享年廿才」。藤井貞吉神霊には「同、行年廿三才」とある。「小使喜助神霊」石柱は少し小振りで、台石も前者が二段に対し一段のみである。宮本多三郎ら地光隊士三名は高森へ護送中に死亡したため円月寺墓地に埋葬されたと思われる。傍らに永代地蔵を中心に小さな自然石墓が一列に並んでいるのが目を惹くが、姓名や身元が不明な維新団・一新組隊士三十六柱であるという。
別に開戦時本陣が置かれた小瀬の曹洞宗籌勝院にも柱野で焼死した「地光隊長小崎禎輔神靈」ら三名の神霊がある。小崎禎輔神霊右側面には辞世の歌が刻まれている。籌勝院の遊撃軍戦没者の神霊は、当初百基あまりもあったが順次遺族等に引き取られ、現在地光隊士を含め34柱が一箇所にまとめられ祀られている。下久原農出身「游撃軍大砲隊小使義助神靈」も同所にある。これも小振りである。士分の神霊石柱も微妙に高さと幅が違い、階級・身分の違いが判別できるが小崎隊長の神霊が一際目につく大きさである。。
宮田半四郎(小川佐吉・師人)の墓は円月寺墓地から西に少し離れた後山にある。宮田半四郎は久留米藩士で、通称小川佐吉で名を師人(もろと)(注)といい、のち宮田半四郎と改名。真木和泉に師事し尊王論に心酔し、天誅組の大和五条挙兵に参加、勘定奉行をつとめたが敗戦。長州に逃れ、元治元年、禁門の変で敗戦、再び長州に還り、大田・絵堂内訌戦で頭に刀傷を負うも部下を指揮。四境の役では遊撃隊司令兼参謀となり「苦の坂口」等で奮戦。明治元年、伏見の戦いで銃創、三田尻の病院に死。享年三十七。高森中市の熊野家(街道区間で後述)が縁あって遺骨を引き取り供養している。自然石の墓に「遊撃軍参謀宮田半四郎師人墓」。辞世「なきからはいつく(國)の野邊にさらすとも魂は都乃空に止めん」が正面横に刻まれている。
(注:田村哲夫編「防長維新関係者要覧」に師久とあるが、小川家、熊野家及び天誅組・叙勲関係文献は師人(もろと)。関係文書に人が久と見えるのではなかろうか。
久田の天野氏館跡(藤井宅前から写す) |
黄檗宗長命山円月寺は、歴代通化寺住職の隠居寺で、通化第四代活宗和尚によって創建。この地を知行した天野氏(安芸志芳堀天野氏・金明山天野氏)の菩提寺でもある。明治になって天野氏離郷の際、通化寺に併合、廃寺となる。円月寺墓地には、前述遊撃軍戦死者神靈のほかに、通化歴代和尚塔や天野氏歴代墓所がある。
(2015.07.20追加・前述部分と一部重複)
天野氏館(平城)跡は中山川右岸(東岸)の「都稲顕彰記念碑」のある旧久田集会所跡地付近から家臣藤井氏宅裏付近及び久田児童公園付近にかけての広い敷地を有していた。天野氏離郷前の邸宅跡(西長野中村に移築)は、その中心部柿の大木がある所で周囲の田に対し一段高台になっている。旧天野氏家臣藤井氏宅裏の畑には天野氏長屋跡の長い石積が今も残る。遊撃軍の通化寺本営設営にあたっては、天野氏の尽力によるところが大きかったと思われるが不詳。
明治になって久田を離れる天野正世(勢輔)は最後の旧領主天野嘉言(明治12年8月没・享年62・円月寺天野氏第二墓所に墓)の側室トキ嫡子。山口県史に、「元治元年(1864)福原又一を総督とする干城隊(大組隊)編成に3月23日天野勢輔以下164名入隊。干城隊は8月の四国艦隊馬関攻撃に出戦。慶応3年(1865)12月5日、前年の6月周防大島奪還に活躍の第二奇兵隊軍監仰付。第二奇兵隊は三田尻出港、上阪後12月第六中隊と改名。明治元年1月鳥羽伏見戦に出戦し、4月に中隊総督の記載文見。12月膺懲隊と合併し建武隊と名前を変え、天野勢輔総督差除。」とある。木戸孝允と親交、後に栃木裁判所長・宇都宮始審裁判所長・大分初審裁判所長歴任後、明治27年退官。明治28年4月周防大島の「第二奇兵隊参謀楢崎義綱(剛十郎)顕彰碑」に「不攘金剛」と題した撰文を寄せる。明治29年8月11日病没、享年59。号を周東と称す。正六位勲五等。長府功山寺墓地に正世と母トキ墓。
(注)天野嘉言(舎人)と正室タキの嫡子天野良信(虎太郎)は「防長維新関係者要覧」に「八組士舎人嫡子虎太郎 干城隊・ 故あり慶応2.3.20萩亨徳寺に賜死」。第二墓所埋葬を許されず近傍の円月寺向山中腹に「藤原良信之墓(遺髪墓)」がある。背面墓誌に「元治三歳次丙寅三月二十日於萩死 同月朔日埋髪殯於此行年二十有三」とある。また、「奇兵隊日記(慶応2年正月17日)」に「舎人庶子天野寅之助他二名(*二名氏名略)、御不審之趣有之、親兄弟へ御預ケ被仰付置候処、折柄令脱走、今以行衛不相知就て、・・・(*中略)・・・、万一潜伏等之様子相聞候節は、其趣早速政事堂へ届出候様被仰候事 別紙之通、山口会議処より申来候事」とある。逆算すれば正世(勢輔)は良信よりも6歳年上になる。
(廃)円月寺墓地の地光隊戦士神霊 背後に天野氏歴代墓所 |
(廃)円月寺墓地の無名戦士の墓三六柱 | 同、後山の遊撃軍参謀宮田半四郎師人墓 |
枩井(松井)神霊 |
民兵団のうち「垣之内」被差別部落民隊の結成を建議したのは松陰の教え子である吉田稔麿(としまろ・池田屋事変で自刃)で、馬関攘夷戦に先立ち建策された。三田尻宰判では「一新組」、熊毛宰判では「維新団」が結成され、新式銃による鉄砲隊として編成された。稔麿の「屠勇取立」策(以下、一部省略)は、真に部落の人々の解放を目的としたものではないが、幕末におけるすぐれた「開放」理論として、高く評価されてよい。彼らの兵士登用を最初に考えたのは、長州藩天保改革の中心人物の村田清風であったが、差別政策・意識の保持者であり、身分差を度外視して奇兵隊を創設した高杉晋作にしても、部落民を除外した民の編成であった。これに対し、「其の名を何とか改め、其格を本格より一層高くし目覚敷派手に装はせ、給金相応にあてがう」ことを条件とし、「穢多之名目被差除、平常一刀胴腹(服)」という開放の約束に、長い間重圧にあえいできた人たちが、勇躍して入隊していったのであり、それ故に、解放闘争の軍隊ということができる。当然、維新団の活躍は開放を求めるエネルギーの爆発であり、絶えず先頭に立って活躍し、戦況報告にも「驚くべき目覚しい活躍」とか、「初め、岩国では維新団のことを「八ケ間敷」、つまり差別的言辞を弄する者がいたが、勝利の後には丁寧に、繰り返し維新団のお陰で岩国港(新湊)が戦火を免れた」などと、言葉を尽くして感謝している。これこそ一時のものであるにせよ、命がけの戦いで勝ち取った「開放」そのものであった。戦後の論功行賞において、高森出身者で編成された維新団二番隊士四〇名の戦功に対し全員の士分取り立てか、あるいは共有財産として近傍の山林五町歩の二者択一の行賞に際し、各自の功績は捨て去って土地を希望している。土地を持つことは彼らの長い間の悲痛で血涙な願望であった。二番小隊ただ一人の戦死者、「松井神霊」が地区の小高い丘の墓地にある。
もはや、既存の社会形態に安住した権力者や武士階級ではことの成就は不可能とした松陰の「草莽崛起」(そうもうくっき)の思想は晋作や稔麿の考えに影響を与えたことは間違いないだろう。
他に、高森の明専寺に有志の者約百人が集まり、「励忠隊」を結成。松の木で大砲を作り、射撃訓練などを行う。
高杉晋作像(吉田清水山・東行庵) |
また、一部重複するが高杉晋作を中心とした動きとして
クーデター成功により武備恭順の藩意統一なった慶応元年三月、高杉晋作突然ヨーロッパ洋行を希望し(文久二年、当時の政務役であった周布政之助の計らいで幕府派遣の外国使節団の一員として上海視察を一度経験している。)、伊藤を洋行の連れに誘い、渡航費用一千両を持って長崎で英領事ラウダや英グラバー商会との折衝を行ったが、下関開港と英国との交易の方が急務と説得され、これを断念。西洋兵器の大量買付け調達等の必要から下関の直轄地化と開港を画策し、長府支藩の頑強な攘夷論者からなる暗殺団から命を狙われる。当時の藩にこれを抑え、彼らの安全をはかる力量はなく、井上聞多は別府、伊藤俊輔は対馬(機を失い下関)に潜伏、晋作は愛人「おうの」(晋作病死後、出家し梅処尼)と大阪経由四国讃岐へ逃れた。四月になって蛤御門の変以来、但馬出石に潜伏中の桂小五郎(木戸孝允)は、藩意統一なった藩当局から呼び戻されたが、事情を知った桂は直ちに長府藩家老に談じ込み、過激分子を抑えさせ六月には三人とも呼び戻させている。
慶応二年(1866)正月二十一日、坂本龍馬、西郷、桂等が京都で談合し薩長連合の密約が成立。薩長の和解により、長藩は薩藩名義で西洋兵器の大量輸入に乗り出す。こうした折、晋作は鹿児島で行われる薩英会盟に参加しようとし出発したが志ならず、長崎に留まり再び上海渡航を藩に要求し認められたが、再びグラバーに説得され、渡航断念後は独断で三万九千両で二百トンの汽船オテント号(丙寅丸・へいいんまる)購入契約を交わし、これに乗って下関に帰り藩当局を狼狽させ代金支払いをめぐり藩府と衝突するが、丙寅丸は後に幕軍相手に活躍することになる。晋作のこの頃の動きをみていると、なにかしら吉田松陰の化身のようにみえてくる。
話が前後するが、
吉田松陰(通称寅次郎、松陰は号名)は、嘉永四年(1851)三月藩主の参勤交代に従い江戸遊学。桜田藩邸に居住し勉学、佐久間象山に入門。十二月十四日宮部鼎蔵(肥後藩兵学者:嘉永三年の九州遊歴で知友となる)・南部の江帾五郎(えばた:江帾は獄死した兄の仇討ちのため途中白河まで同道、経緯等省略)との期日約束を優先し藩の「過書」(通行手形)交付を待たず脱藩し、満州・ロシアに近隣する沿岸部海防状況視察を目的に「東北行」(東北視察旅行)を行う。三人が約束の出発日は江帾仇討成就のため赤穂浪士討ち入りの日にあやかり十五日であったが、追っ手があった場合二人に迷惑が及ぶことを恐れ前日午前十時に桜田邸を出て水戸で落ち合う(「十四日、翳。巳時、桜田邸を亡命す。」)。水戸では後期水戸学を代表する学者、会沢正志斎、豊田天功らと出会い「皇国」との出会いを経験する。「身皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」(兄梅太郎宛手紙)。水戸に一月滞在、翌嘉永五年(1852)一月宮部鼎蔵と共に会津若松に向かい在住の学者らと意見交換、藩校日進館を訪ねている。ここから、極寒の北越に向ったのは二月六日、膝もかくれるような雪中行に難渋しながら新潟に着いたのは十日。新潟から蝦夷の松前に渡ろうとしたが、春の彼岸まで便がないことを知り、出雲崎から天候回復を二週間待ち佐渡に渡る。再び新潟から弘前(同、藩校稽古館)、小泊経由、竜飛岬から外国船出没の津軽海峡・蝦夷地松前を遠望したのは三月六日のことであった。翌七日盛岡へ向け出発。仙台(同、藩校養賢堂)、米沢経由四月一日日光東照宮、三日足利学校を訪ね、江戸の鳥山新三郎宅に着いたのは四月五日であった。この間百数十日、松陰の訪問した学者、友人は九〇余名に達した。(嘉永四年は二月が閏月で二回あった。)
(参考)付3:「吉田松陰全国遊歴略図」
「過書」を持たない「東北行」は脱藩の罪を問われ中間二名随伴の護送帰国。兵学師範を免ぜられ家禄没収、父杉百合助に預けられる身となるが、藩主敬親は「国の宝を失った」と松陰を惜しみ「一〇年間の諸国遊学」を許す。
嘉永六年(1853)正月二十六日萩を発ち、三田尻飯田行蔵宅泊、荒天続き出航の見込みがないため富海へ向い、富海飛船で海路讃岐経由畿内に入り、大和諸地学者を巡り佐久間象山師事を目的に東上。五月二十四日江戸烏山新三郎宅(経緯等省略)に入る。六月三日ペリー艦隊浦賀出現。翌四日桜田邸を訪ね、これを知り佐久間塾を訪ねるが象山は塾生一同らと浦賀へ行って不在。単身浦賀に赴き象山と再会共に事情調査、九日の歴史的九里浜会談も群衆の一人として見守る(松陰は一昨年宮部と浦賀の防備状況を視察している)。
この歴史的国難に直面し、象山に師事する一方で浪人の身でありながら江戸藩邸に次々と兵学者としての「急務策」を提出。土佐の漁夫萬次郎が十年間の米国滞在から嘉永四年正月送還され幕府から海外事情を聞く等異例の処置がとられたことから、象山と松陰は海外へ出る道が「漂流策」として開かれたと考えるようになる(「幽囚録」)。嘉永六年九月プチャーチン長崎来航を知り、松陰は長崎漂流策決行を決め九月十八日単身江戸を発つ。大阪から海路鶴崎、阿蘇の麓経由熊本で宮部と再会後長崎に向かい十月二十七日長崎到着するも露艦はクリミヤ戦争勃発のため二日前に急遽出航した後で目的を果たせなかった。長崎から熊本経由萩に帰り、十一月十六日後を追ってきた宮部と萩を出発、中仙道経由で十二月二十七日江戸に着く。このとき松陰二十四才。
安政元年(1854)一月七日宮部鼎蔵らと相模の海防警備状況視察。三月五日、弟子の金子重之助(重輔)とともに下田に向かい、再来航し下田停泊中のアメリカ軍艦に二十八日乗船するが密航を拒否され自首、傳馬町の獄に入れられる。(「下田踏海」)。「身柄は萩藩預け、在所に於いて蟄居」として、九月十八日麻布の藩邸に移り、同月二十三日唐丸駕籠にて江戸を出発、十月二十四日野山獄に入るが、入獄中も同囚のために講義。
翌安政二年(1856)正月十一日金子は岩倉獄中で病死。十二月十五日野山獄から実父杉百合之助宅蟄居(幽囚)を命じられる。松陰はこの杉家幽室で読書の傍ら私塾を開くが、塾生が次第に増えたため安政四年(1857)十一月、杉家の宅地内にある小舎を改修し、叔父玉木文之進が開いた私塾「松下村塾」を正式に継承主宰。門下生のうち久坂玄瑞と高杉晋作は「松門の双壁」といわれる英才であった。
翌五年(1858)六月幕府は無勅許で日米修好通商条約締結。七月これを知った松陰は藩主に趣意書を建白、さらに十月末には同志とともに老中首座間部詮勝(まなべ・あきかつ)要撃を計画し、勤皇の士で藩政改革の主導者であった周布政之助に内報し、武器と兵を要求する。周布は驚き憂え、松陰の身の上も案じ藩主に乞い厳囚を命じ、さらに十二月五日借牢の形で野山獄に入れるよう父に内命する。ここに二年余の間、藩校「明倫館」の教育を不満とした若き志士たちを情熱を持って教育した松陰主宰の「松下村塾」は閉鎖されることになったが、「・・・松下陋村(ろうそん)と雖も、誓って神国の幹たらん」と村塾の壁に留題し後を継ぐ者を期待する。また江戸遊学中の高杉・久坂ら松門五名も血判書をもって獄中の松陰に時期尚早として暴発を諌めるもその志堅く、失望感を深めながらも一時期絶食までしてその志を貫き変えることはなく、桂や知友、松門との葛藤、確執・苦悶も一時期深まる。
安政六年(1859)前年から安政の大獄始まり、獄中松陰と諸友らの確執もようやく癒えようとしていた五月十四日松陰東送の幕命が下る。奇しくも同日夕方には江戸から高杉・尾寺・飯田連名の激励の書簡も届く。獄司福川犀之進は久坂玄瑞の懇願を入れ独断で、幕命東送前日の五月二十四日夜、松陰を杉家に帰宅させ、家族・門人との訣別の機会を与えた。翌二十五日未明、一旦野山獄に引き上げ、腰縄を打たれ、錠前付きの網駕籠で梅雨の降りしきる中、萩を出発。このとき護送役人の人選には藩として格別の配意。松陰は東送の途中、多くの和歌や漢詩を詠んでいるが、筆や紙を与えられていないので中間としてもぐりこんでいる松陰実父杉百合之助(中間頭兼盗賊改方)の組下で、明倫館助教土屋蕭海の門下生でもあった和田小伝次、片野十郎の二名の者が口述を筆記している。野山獄中から家族・門人・知友に与えた詩文は「東行前日記」に収められ、東送途中に成った漢詩は「縛吾集」に、短歌は「涙松集(るいしょうしゅう)」に集められている。
萩の城下町を一望にみおろす大屋の「涙松」の地で護送役人は駕籠をとめ、戸をあけてくれた。
歸らじと思いさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな |
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「涙松の遺址」碑(萩市椿大屋) |
詠み終わると再び駕籠はあげられ、しとしと降る雨の中を東に進んだ。この日山口着。翌日福川着。五月二十七日呼坂小休止、寺嶋忠三郎と惜別の歌を交わし高森泊。五月二十八日芸防国境小瀬川を越える。六月十日大阪。六月二十四日江戸桜田藩邸到着。七月九日評定所から即日傳馬町の獄に入れられる。
江戸護送の前夜、司獄・福川犀之助は久坂玄瑞の懇願を入れ家族らとの訣別のため独断で松陰を杉家に帰らせている。
「歴史の道調査報告書 萩往還」(山口県教委)に、檻輿に付添った河村八郎聞取談話(大正十一年、八十三歳のとき)として、
「一、出発は、五月二十五日にて、杉家より出発せられたり、その日、余等は杉家に赴き、網乗物を仕立て、外に控へ居たる故、家中に何事ありしか知らず、唯内輪に暇乞の盃を取りかはしたる趣は、知られたり、さて皆式台まで送出で、吉田氏は、「これが御暇乞でござんす、どなたも御用心なされませ」といひ、玉木叔父へも、「をじさま御用心なされませ」弟の何とかいひて啞なる人の手を把りて、「おまへは物が言へぬが、決してぐちを起きぬように、万事堪忍が第一」と言はれ、余等には「皆御世話ぢや、頼みますぜ」といひて、乗物に入られ、今の午前九時頃に出発せり、門人等の見立は一人もなし、
一、網乗物は駕篭に網をかけたるなり、網は細引きにて作る、内には日光の通るやうにす、四人が二人宛前後に別れて舁くなり(護送者舁夫ばかりにてはあらざるべし、されど河村氏は唯四人といへり)、乗物の中にては緩く手を縛りて、食事を為し得るやうにせり、何やらん書物二冊を入れられたり、大屋にて「これが萩の見じまひなれば、一寸見せてくれ」と言はるる故、乗物の戸を開きて見せたり、「コレコレ忝い、これで大安心」といはる、是の日、朝より雨降る、夕方には雨止みたり、佐々並にて昼飯を進む、(吉田松陰全集別巻)」とある。
やがて、長門国阿武郡から周防国吉敷郡への国境旭村夏木原に至り、松陰は牢駕籠の中で次の七言絶句を詠む。
凄絶にして凛然とした松陰の決意、気迫が窺われる。萩往還夏木原キャンプ場入り口に岸信介揮毫の東送之碑がある。
縛吾題命致関東 対簿心期質鼓穹 夏木原頭天雨黒 満山杜宇血痕紅 |
吾を縛して台命もて関東に 簿に対し心に期す鼓穹に質すを |
私を捕縛して幕命で江戸に送る。 幕府の取調べに対しては天地神明にかけて 所信を述べようと決意している。 夏木原一帯は雨雲が黒く立ちこめ、 満山のつつじの紅は折から鳴いている杜宇(ほととぎす)が 吐く紅の血のようであり、 あたかも私の赤心を象徴しているかのようである。 (写真は2013.06.09撮影掲載) |
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夏木原の吉田松陰先生東送之碑 |
二十六日宮市(松崎)天満宮通過のとき牢駕籠の中から
(菅原道真公が筑紫の国に流された無念さは、江戸送りとなった私にはよくお察しできます)
二十七日呼坂宿馬建場で小休止のとき、人の陰から見送る寺嶋忠三郎と訣別の歌を交わす
「よそに見て別れゆくだに悲しきを 言にも出でば思いみだれん」 (忠三郎)
二十八日小瀬川を越え防長二州と最後の別れ
翌二十九日芸州玖波を出て四十八坂付近(推定)で
若桜小浜の志士梅田雲濱との密議等(省略)の直接の嫌疑は晴れたが間部老中要撃計画を明かし、幕府意見を目的に憂国の自説を主張する。
「至誠而不動者未之有也」
(至誠ニシテ動かざるハ未だ之れ有らざる也)
(東行前日記「小田村伊之助に與ふ」安政六年五月十八日)
*松陰は東送前小田村に決意書を送る。「至誠(真心)を尽くして自説を説明すれば必ず説得できる。もし説得できないのであれば、それは未だ自分の学問、真心が至らないからだ。学問を始めて20年、年齢は30歳、願わくはこの一語が本当かどうか関東ではこの一語を試してみたい。自分の死生のことはしばらく置く。」と結ぶ。そして白綿布にこれを書き写し、手拭に縫いつけ江戸へ携行する(留魂録第一節による)。
諫言・至誠は松陰の哲学であり、精神の根幹であったが、この至誠を以て幕府の非を説いてもこれを感悟せしめることはなかった。むしろ死を決定的なものにする。このころ、江戸遊学中の高杉晋作は幕獄の松陰と書簡の交換による師弟の交わりを深める。このとき獄中松陰から教唆された死生観「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」は、晋作の後の行動に絶えず重大な影響を与える。幕獄松陰と晋作の接触行動を知った父小忠太や藩府により晋作へ帰国命令。この頃、晋作は最悪遠島になると思っていたらしい。十月十七日晋作江戸を発つ。松陰は十月十六日口書き読み聞かせ頃から死罪になることを覚悟。父や家族あての遺書「永訣書」(十月二十日)冒頭には、「平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず、非常の変に立ち到り申し候。嘸々御愁傷遊ばさるべく拝察仕り候」とあり、「親思うこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」の断腸の歌につづく。そして、位牌や墓には「松陰二十一回猛士」とだけ誌してほしいと結んでいる。
また、門弟達に向けては「留魂録」(十月二十五・二十六日)の冒頭に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」の辞世の句を詠んでいる。松陰は死を以て後起を託したのである。
「留魂録」冒頭の和歌 身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂 十月念五日 二十一回猛士 (遺言本文「第一節~第十六節」のあと、文末に) かきつけ終わりて後 心なることの 呼びたしの聲まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな 討たれる吾をあはれと見ん人は君を崇めて 愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも (この歌は大河ドラマ「花燃ゆ」冒頭の混声合唱主題歌となる) 七たびも生きかへりつつ 十月二十六日 (留魂録:安政六年十月二十五日・二十六日) *留魂録は二通作られ、高杉・久保・久坂連名宛のものは、牢番から飯田正伯に託され、写本にて松門ら全員が目にすることになるが、現存していない。現存の留魂録は殺人罪で同囚の牢名主沼崎吉五郎に托され、沼崎は後三宅島に流罪、明治九年ごろ帰り松陰門下の神奈川県令野村靖に手交された。 |
絶筆(2010.09.20追加):十月二十七日正午ごろ処刑の呼び出しの声を聞き、松陰は懐紙を取り出し一首を書き留める。
(絶筆) 十月二十七日呼出しの聲をききて 矩方 けふきく 「至誠館」展示説明によれば、松陰は書き留めたあと第四句の字数が足りないことに気づいたが、 「く」のそばに「、」をうつだけで筆を置いた。何故か「矩之」とある。矩方(のりかた)は諱。 *この絶筆は牢番から、松陰死後の始末をした尾寺・飯田の二人の門人に渡された。この絶筆も二通作られ現存する。 ・写真は道の駅「萩往還公園」松陰記念館展示のもの (原本は山口県文書館蔵) 別に、松陰神社宝物殿「至誠館」にも常設展示。「至誠館」の方が原本に極似、軸装も立派。 |
安政六年十月二十七日、評定所に呼び出された松陰は死罪の判決を言い渡され、正午頃傳馬町の獄で斬首。三十年の生涯を終える。
時に、晋作は藩命帰国中で、江戸在の松門尾寺親之丞・飯田正伯と桂小五郎、伊藤利輔は松陰の遺骸を受け取り葬りたいと奔走するが許されず、二十九日になって飯田の陳情によって、その日の午後四人は小塚原の囘向院で四斗樽に収められた遺骸と対面。髪を束ね、血を洗い、飯田は黒羽二重の下衣を、桂は襦袢を脱いで裸の身体に覆い、伊藤は帯を解いてこれを結び、後日の検視を恐れた獄吏に接合を許されなかった首體をその上に置いて甕に修め、橋本左内の墓左に葬り、上に巨石を置いて去る。 尾寺・飯田の埋葬報告書には「此の時四人の憤恨遺憾御推察下さるべく候。」とある。
絶唱 (2014.01.08追加) :山口県教育会編「吉田松陰入門」最終頁は次の結びで終わる。
長州藩の代表者として判決に立ち会った小幡高政の談によると次のようである。「直ちに死罪申し渡しの讀み聞かせあり、『立ちませ』と即されて、松陰は起立し、小幡の方に向かい微笑を含んで一禮し、再び潜戸を出づ。その直後朗朗として吟誦の聲あり、曰く、『吾今爲国死。死不負君親。悠々天地事。鑑照在明神。』と。時に幕吏等なお座に在り、粛然襟を正して之を聞く。小幡は肺肝を抉らるるの思あり。護卒亦傍より制止するを忘れたるものの如く、朗誦終わりて我に歸り、狼狽して駕籠に入らしめ、傳馬町の獄に急ぐ。」と。八丁堀同心吉本平三郎は処刑の状況を、「さて死刑にのぞみて鼻をかみ候はんとて心しづかに用意してうたれけるなり。凡そ死刑に處せらるるもの是れ迄多しと雖も、かくまで從容たるは見ず。」と述べている。
吾今爲國死 死不負君親 悠々天地事 鑑照在明神 |
吾れ今國の爲に死す、 死して君親に負(そむ)かず。 悠々たり天地の事、 鑑照、明神に在り。 |
「松陰二十一回猛士」墓は東光寺近傍の萩市椿東椎原の吉田家墓地にある。門人二十名が遺髪を埋め百日祭を行い、墓は少し遅れて成る。裏に「姓吉田、稱寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」とある。墓前の水盤、花筒、燈篭には久坂・高杉ら多数の門人の氏名が刻まれている。直近背後には「東行暢夫之墓(遺髪墓)」や久坂玄瑞、吉田稔麿らの墓が寄り添うように師を見守っている。(注)東行暢夫(とうぎょうちょうふ)は、晋作の号名と字名。
松陰二十一回猛士墓(萩市椿東椎原) | 「東行暢夫之墓」(萩市椿東椎原) | 松陰と金子重之助の銅像(萩市椿東団子岩) |
高杉晋作は帰国するや師の悲報に接し慟哭激怒。江戸藩邸にあった重臣周布政之助にあてた書状(安政六年十一月二十六日)に「我師松陰之首、遂に幕吏の手にかけ候之由、防長恥辱、口外仕るも汗顔之至御座候・・・。実に私共も師弟の交わりを結び候程の事ゆえ、仇を報い候わで安心仕らず候。」とあり、さらに「明日二十七日は吾が師初命日ゆえ松下塾へ玄瑞と相合し、吾が師の文章なりとも讀み候らはんと約し候。」とある。久坂玄瑞も獄中入江に「先師の非命を悲しむこと無益なり、先師の志を墜さぬ様肝要なり」と告げ、はっきりと師松陰の志を継承することを宣言している。
萩に帰った晋作は翌年の安政七年(万延元年:1860)一月二十三日井上平右衛門の娘マサ(雅)と結婚する。三月三日桜田門外の変。このあと、四月航海術習得のため藩が建造した西洋帆走式軍艦丙辰丸(艦長松島剛蔵:小田村伊之助の兄)に乗船、江戸へ向い未熟な操船のためようやく六月下旬桜田藩邸に入り、桂、久坂らと再会。軍艦教練を放棄したため父小忠太はまたもや萩へ帰国命令を出さすが、これに反発し八月東北遊歴(「試撃行」)を藩に許され歴訪後、万延元年十月中旬山陽道経由萩に戻り明倫館舎長。翌文久元年(1861)二月世子定広(元徳・もとのり)の小姓役に抜擢される。七月十日には御番手として萩を出発、再び江戸に赴く。この文久元年は二月の露艦対馬占領事件が半年にわたり、三方を海に面し藩府萩が海に近接した萩藩にとって、外患と攘夷は喫緊の重大問題であった。
この時期江戸桜田藩邸には桂や旧松門系久坂玄瑞らを中心とした攘夷論の過激書生たちが多数滞在していた。晋作は公武一和・開国強国の「航海遠略策」を提唱しこれを藩論とした長井雅楽(うた:松陰幕命東送に応じた時の直目付でもある)が対幕閣入説のため京から江戸へくだった際、久坂、伊藤らと長井雅楽暗殺計画を主導するが、桂によって麻布藩邸の周布政之助の知ることとなり頓挫する(注:航海遠略策は久坂らの朝廷工作もあり却下、藩論「即今攘夷」となり失脚、長井雅楽は文久三年二月六日自宅において切腹。享年四五)。周布は晋作の暴挙を心配し翌年春の幕府の上海派遣使節団の各藩一名随行員に藩代表として送り込む。文久二年(1862)四月、幕府の蒸気船千歳丸で長崎を出航し上海洋行(このとき薩摩は蒸気船購入を目的に薩藩海軍副将五代才助を水夫として別枠でもぐりこます)。七月二十四日長崎帰港、蒸気船購入を独断手配し萩藩府へ購入許可を求めるが重臣たちの反対に合い、八月十二日萩へ帰るが本意を遂げることは出来なかった。上海洋行を終えて江戸在勤学習院御用掛を命ぜられていた晋作は八月十五日、早々と萩を出て富海から海路江戸桜田藩邸へ向う。途中、航海遠略策(のち即今攘夷)を以って京に滞在の藩主敬親に上海見聞を報告(父小忠太は長井の後任として直目付に昇進、藩主に随行京に在った)。閏八月、上海の見聞と私見を纏めた「形勢略記」を携え(衝動的に)脱藩し常陸の笠間に走り、「試撃行」のとき知った加藤有隣(加藤は翌年萩藩校明倫館に招かれる)を訪れるが諭され帰邸、桂は脱藩を内密に済ます。
この「上海海外見聞」は、清国政府の無能と植民地化されつつある清国の現状を目にし、幕府と清国政府を同列とみなした晋作にとって重大な出来事で、「割拠論」(長州独立割拠・富国強兵・倒幕革命)思想形成と松陰の死生観教唆(前述)によって、のちの行動に大きく影響し低狭攘夷論から訣別することになる。彼の攘夷思想と行動は幕府を困窮化させ、国論を倒幕革命戦争に誘導、列強に対応できる新体制を築くことにあり、そのためには長州藩壊滅も辞さない考えであった。そのため、開国・富国(藩)強兵の重要性を認識することになる。
薩藩の八月「生麦事件」偶発のあと、十一月晋作は横浜外国公使殺害計画を主導し、決行の前夜十二日横浜の旅館「下田屋」に久坂、志道聞多(井上 馨)、品川弥二郎、赤禰武人らが集まるが、当時江戸にあった世子定広(元徳)の知ることになり(注:久坂から同志として計画を明かされた武市半平太は暴挙に驚き土佐藩主山内容堂に報告、容堂は世子に暴挙を諌めるよう告げる)、下田屋にかけつけてきた世子に説諭され世田谷の大夫山に一同禁足させられる。このとき世子の説得に誓約し酒で慰労された土佐藩士を含む一同の宴席に参加した周布は酒に酔った勢いで山内容堂のことを罵倒したため土佐藩と険悪な状況となり、世子定広は土佐藩邸の山内容堂を訪ね陳謝し、ことをおさめる。このとき周布は麻田公輔と改名させられる。禁足が解けた十二月晋作は久坂、志道(井上)、赤禰、伊藤、寺嶋、堀真五郎ら同志十二名で品川御殿場に新築中の英国公使館焼き討ちを決行。
翌文久三年(1863)正月五日、前年の大赦令を受けて久坂、伊藤ら同志と小塚原の松陰遺骨を毛利氏抱屋敷であった世田谷の若林寺大夫山に改葬。このあと世子定弘や周布(麻田)は晋作の暴挙と幕府追捕を懸念し京都学習院御用掛に任じ、晋作三月一日江戸を発つ。この頃久坂ら主だった急進派も京都に移り朝廷への即今攘夷工作も活発化し長州藩の体外政治の舞台は京都に移る。江戸に残ったのは伊藤ぐらいである。
高杉晋作草庵跡地顕彰碑(萩市椿東団子岩) |
三月十一日孝明天皇賀茂神社攘夷祈願行幸に馬上随行の将軍家茂に「征夷大将軍!」の野次を飛ばす。周布(麻田)はこれを詰問、説教するが、この過程で晋作は十年間の腸暇を願い出、周布は藩にとりなし三月十五日これを許可される。古川薫はその著書「高杉晋作」のなかで、『麻田(周布)と晋作の間で、ある重大な黙契があったとみるべきである』と指摘している。翌十六日周布の前に現れた晋作は剃髪し、黒衣を着ていた。「西へ行く人を慕ふて東行く我心をば神や知るらむ」。(西へ行く人とは、西行法師のこと。)
(奇しくも吉田松陰は安政元年三月「下田踏海」の直後、「世の人はよしあしごともいはばいへ賎が誠は神ぞしるらん」と詠んでいる。)
四月二十一日将軍は、攘夷期限を文久三年五月十日と朝廷に奏上し、各藩に対し海防と外夷掃攘を布告するが、二人にとってこれは想定されていたことであった。剃髪し東行と号した晋作は、在京の久坂、血気の攘夷の浪士たちが早々と馬関に向かうなか、京に在って放蕩等で過ごす。四月下旬堀真五郎と共に室積上陸萩に帰り、萩の藩士が続々と下関へ向い城下の海防や藩府の山口移行等あわただしい周囲を尻目に、松陰誕生地直近の萩城下を見下ろす松本村団子岩の堀真五郎の庵に妻雅と隠棲する。蛤御門の変前の脱藩入獄蟄居を含め、この後長藩が迎える未曾有の難局に備えたと考えるべきであろう。この時期、あるいは後の晋作の不可思議な行動には、麻田(周布)や世子定広(元徳)の影が見え隠れするのである。このあと晋作は髪が延び始めた頭を剃髪することもなく「ざんぎり頭」で通すことになる。
攘夷期限五月十日、血気にはやる久坂玄瑞率いる浪士隊(光明寺党)らは、優柔の総奉行毛利能登(厚狭毛利氏)の下知を待たず庚申丸(艦長松島剛蔵)・癸亥丸(きがいまる)の二艦に乗船、関門海峡田ノ浦沖停泊中の米商船ペンブローグ号を砲撃し、馬関攘夷戦の幕が切って落とされる。このあと、長州藩はかって経験したことのない未曾有の難局に直面することになる(前述)。
再び、高杉晋作慶応二年後半の話に戻って、
慶応二年(1866)六月五日幕軍は長州藩に恭順の意思なしとみて、諸藩に長州総攻撃を命じる。六月六日晋作海陸軍参謀任命。六月七日、晋作が海軍総督を命じられた日、幕府の軍艦四隻による周防大島砲撃、上陸によって「四境の役」(第二次長州征伐)開戦。六月十二日深夜、晋作は丙寅丸(へいいんまる)に乗船、大島久賀沖に停泊中の四隻の幕艦を奇襲砲撃、蹂躙し、伊予松山藩に一時占拠された大島を第二奇兵隊が奪還する端緒となる。十六日大島奪還。六月十七日馬関口海陸軍参謀の晋作は奇兵隊、長府藩報国隊を率い海峡を渡って小倉口の戦いを指揮。上陸に先立ち、晋作は丙寅丸で帆船二隻を率い、坂本龍馬率いる亀山社中の面々は直前まで社用で借用していた長州藩桜島丸改め乙丑丸(いっちゅうまる)で帆船一隻をロープで牽引し、対岸田ノ浦・和布刈(めかり)東西の砲台、陣屋を砲撃してこれを制圧(姉乙女宛手紙)。上陸後は精鋭熊本兵、小倉兵と激戦。このころから結核の病状悪化するも病床から指揮。七月二十七日肥後藩との一戦で大敗するも八月一日将軍家茂夢去(七月二十日没)の情報に幕軍総指揮官小笠原壱岐守、富士山丸で長崎へ逃亡。戦意の無い肥後藩等諸藩もこれに追随、戦線を離脱。同日小倉藩みずから城に火を放つ。十月二十日病状悪化により軍務を免じられ佐世八十郎にゆずる。慶応三年一月小倉戦争に勝利。
・6/7幕艦周防大島砲撃、大島口開戦。伊予松山藩兵ら久賀・橘上陸占拠、 ・6/10晋作丙寅丸大島幕艦攻撃のため下関を発ち、三田尻、上関経由遠崎へ向う ・6/12晋作丙寅丸、大島久賀沖停泊中の幕艦四隻を夜襲蹂躙 ・6/14芸州口開戦・龍馬桜島丸下関入港、夜になって晋作帰関 ・6/15晋作と龍馬、明け方海峡に立つ(白石正一郎日記) ・6/16石州口開戦 ・6/17小倉口開戦、龍馬指揮亀山社中桜島丸(乙丑丸)で参戦
坂本龍馬は文久二年(1862)4月初旬28歳のとき澤村惣乃丞と土佐を脱藩。吉村虎太郎を追って下関へと走り、白石正一郎邸に入るが、吉村九州転出を知り後を追う。
慶応元年(1865)31歳。5月24日藩命で大宰府の五卿を訪ねた長府藩士時田小輔や萩藩士小田村素太郎(伊之助)と面談、薩長和解と提携の必要性を説き、両名は龍馬の紹介で薩摩藩士大山格之助らと会談、薩長和解の道を模索する。閏5月1日龍馬下関に入る。閏5月6日龍馬・土方久元、長藩桂小五郎、時田少輔が会談、薩長和解の途を模索する。閏5月21日中岡慎太郎来関し、龍馬と桂に西郷が直接上京したことを告げる(当初は下関来航予定で、桂は不信をつのらす)。同下旬に、桂は龍馬に対し長州藩のため薩摩藩名義借用による外国製銃器、艦船の購入を投げかける。10月には山口、下関に在って白石正一郎や長府藩士印藤聿(のぼる)、さらには晋作と面談している。この頃から阿弥陀寺町の東御本陣伊藤助太夫(久三)宅に寄宿していたと思われる。10月21日桂小五郎(この頃木戸貫次)と会談後京へ向い、12月3日船で下関帰港、19日薩摩藩士黒田了介とともに桂に会い西郷らとの会談のため上京することを促す。(この年5月が2回)
慶応二年(1866)1月長府藩士印藤聿(のぼる)から上京の同伴として槍の達人三吉慎蔵を紹介されるとともに高杉晋作から護身用ピストルを贈られる。1月10日三吉慎蔵らと下関出帆、18日大阪薩摩藩邸に到着。慎蔵は寺町地方で手槍を求める。19日慎蔵らと伏見の寺田屋へ入る。20日龍馬は単身京都薩摩藩邸に向う。1月21日桂・西郷会談成立、薩長同盟締結。23日寺田屋事件、手を負傷しピストルを失うが慎蔵に助けられ薩摩藩邸に逃れる。3月4日お龍を伴い薩摩藩船で西郷、小方帯刀、慎蔵らと西下、7日下関到着、慎蔵と別れ鹿児島へ向う。鹿児島でお龍と温泉で負傷治療、日本初の新婚旅行(姉乙女宛手紙)。6月7日幕艦周防大島砲撃松山藩兵上陸、四境戦開戦。6月17日小倉口開戦、龍馬率いる亀山社中は桜島丸(乙丑丸)で艦砲射撃に参戦(姉乙女宛手紙)。8月長藩勝利のうちに休戦協定結ぶも占領地回復を図る小倉藩は戦闘継続。
龍馬は2月薩摩藩名義で長州藩が購入したユニオン号(桜島丸・改め乙丑丸・いっちゅうまる)を借用していたが、四境戦で長藩が急ぎ必要となったため、長州藩から薩摩藩へ贈った兵糧米返却を積んで長崎から下関に向かい小倉戦争開戦の直前6月14日に到着。この日夜になって晋作は周防大島久賀沖停泊中の幕艦攻撃から三田尻経由帰関、龍馬と会談し6月17日の艦砲射撃参戦を依頼された模様。6月15日晋作と龍馬、明け方海峡に立つ(「白石正一郎日記」)。16日晋作書状をもった長府藩報国隊斥候兼応接係品川省吾と面会。のちの龍馬書状に「頼まれ候て拠ん所なく長州の軍艦を引きて戦争せし」(「12月4日付坂本権平、一同宛書状」)とある。17日小倉口開戦、龍馬率いる亀山社中桜島丸で参戦(姉乙女宛手紙)。
その後、木戸孝允と面談のため山口にいた龍馬は、7月3日に晋作軍が大里攻撃を開始したことを知り、「野次馬をさせて欲しい」と、3日夜から走り続け、4日の朝下関に到着するが戦闘は終わっていた(「木戸孝允宛書状」)。戦争が続くなか7月下旬に下関を離れ長崎へ向う。12月中旬に再び下関に入り伊藤家に寄宿。12月末には木戸(桂)の手配で下関居住の公認を得る。
慶応三年(1867)正月明けに伊藤家離れを自然堂(じねんどう)と名付け住居とする。阿弥陀寺町東の御本陣伊藤邸敷地は2000坪、部屋数20超、畳数200超の広大な邸宅であった。伊藤助太夫から久三への改名は龍馬が勧めたもの。1月長州藩小倉戦争勝利終結。1月9日下関を発し長崎へ向い、2月10日お龍を連れて下関に戻り、水入らずの夫婦生活を送る。お龍は龍馬遭難の悲報をここで聞くことになる。下関の夫婦生活では、稲荷町赤灯街での朝帰りにお龍の怒りをかい皿を投げられた夫婦喧嘩や二人でこっそり巌流島に渡り煙火(花火)を上げたことが逸話として残されている。
このあと、船の無い龍馬はポルトガル領事との仲介をして伊予大洲藩の「いろは丸」(旧薩摩藩所有小型蒸気船)購入を画策。慶応三年大洲藩購入の「いろは丸」を亀山社中改め海援隊使用契約。契約一ケ月後の4月19日長崎を出航した「いろは丸」は23日午後11時ごろ備中笠岡六島付近で紀州藩明光丸と衝突し備後鞆の浦へ曳航中、鞆の浦沖で沈没。紀州藩から巨額の賠償金を支払わす(いろは丸事件)。5月7日いろは丸談判で長崎へ向うに当たり三吉慎蔵にお龍の後事を託す遺書を送る。9月20日武力倒幕に備え、長崎で購入した小銃1200挺を芸州藩船で土佐へ運ぶ途中一ヶ月ぶりに下関に立ち寄り、伊藤博文と面談。9月22日土佐へ向けて出帆。お龍と永訣の日となる。11月13日には京に入り、11月15日伏見の醤油商「近江屋」で凶刃に斃れる。享年33
11月16日お龍は全身朱に染まり血刀を提げてしょんぼりと枕元に座った(あるいは立っている)龍馬の夢を見る(「千里駒後日譚」)。12月2日伊藤久三・三吉慎蔵・印藤聿ら龍馬訃報を受ける。3日慎蔵らがお龍に訃報を伝え、4日龍馬の葬儀が営まれた。慎蔵は龍馬の遺言に従いお龍とその妹を引き取る。長府藩は慎蔵に扶持米を下賜。翌年3月お龍は高知坂本家へ引き取られる。明治29年(1896)1月23日寺田屋事件満三十年記念と龍馬三十回忌を兼ねた祭典が長府江下の三吉慎蔵邸宅で執り行われる。日原素平やのち尊攘堂を設立する桂弥一ら旧長府藩士が集まる。慎蔵は遺影の前で宝蔵院流槍術演武を行う。この三十年祭に伊藤久三は明治29年43歳で早逝、印藤聿は多忙のため欠席。(本項、古城春樹著「龍馬とお龍の下関」から)
東行墓(吉田清水山)・「游撃軍建之」門柱 |
晋作は当初竹崎の白石正一郎邸で療養していたが正一郎の慰留を断り、かって奇兵隊の営所であった桜山招魂場下の粗末な小庵に移り東行庵と名付ける。慶応三年の初めには桜山から新地の酒造家林算九郎邸の離れに移り、二月妻雅の訪問をうけ(愛人おうのは当然晋作病床から去る)、四月十四日午前二時死去。享年二十九。四月十六日吉田清水山に埋葬。神祭にて葬儀。志士たちの庇護者兼、晋作の良き協力者であった回船問屋白石正一郎、これを取り仕切る。参列者数千人。墓の表に「東行墓」、裏に「谷潜蔵春風号東行慶応三年丁卯四月十四日病没 赤間関享年二十九」とある。功山寺決起から一年四ケ月、激しく短い生涯であった。
別に、萩市椿東の「松陰二十一回孟士墓」直ぐ真裏に「東行暢夫之墓」(遺髪墓)がある。
藩主敬親は晋作の病状悪化に伴ない慶応三年一月には見舞金二十両と五人扶持を、三月には薬料三両、四月には見舞金二両を、死去した際には香料として金十両を贈っている。さらに晋作重体の報に接した折には、「谷潜蔵」の名とともに新知百石を与え(それまで脱藩の罪で没収無禄のままであった)、これまでの功績に応え労をねぎらっているが、「香料下賜沙汰書」に藩主が晋作を如何に称え、寵愛し頼りにしていたかが伺える。
東行墓は玉垣に囲まれているが、頂部に宝珠をつくりだした左右の門柱には「游撃軍建之」・「奇兵隊建之」とある。遊撃軍の名はこのあと馬関や山口の地から忘れられて行くのだが...(前述)。この時期、晋作の必死の動きは、一分一秒を惜しむがごとく、伊藤が晋作を評したように、まさに『動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや・・・。』(吉田清水山・高杉晋作顕彰碑「贈正四位高杉君碑」)であった。(坂本竜馬「和布刈砲撃」の項はNHKTV「歴史秘話ヒストリア」・「姉乙女宛手紙」から)
病床の晋作を看病し、死後も「東行墓」を見守った愛人おうの(谷梅処尼)の墓「梅処尼首座」は、東行墓の前にある。「東行墓」後部高台には妻雅子(高杉家累代之墓)及び高杉家祖先歴代墓があり、東行墓と梅処尼墓を直線状に見下ろす。高杉家累代之墓は大正十一年妻雅子の死を契機に翌十二年に東京から当地に移されたと思われる。墓石背面に、「晋作妻雅子 大正十一年十一月五日」とある(七十九歳没)。ちなみに晋作の愛人おうの(谷梅処尼)は明治四十二年六十七歳没。
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時に予、家を桜山の下に移す 落花斜日恨み窮まりなし 自ら恥ず残骸晩風に 怪しむをやめよ家を華表の下に移せしを 暮朝廟前の紅を拂わんと欲す (桜山の招魂社下に住むことを奇異に思うな。 朝暮に墓前の落葉を拂ってやりたいのだ。) |
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高杉東行療養之地 (桜山奇兵隊営所跡) |
高杉東行終焉之地(林算九郎宅跡) | 東行墓を見守った梅処尼の東行庵 | 梅処尼墓「梅処尼首座」(背後に東行墓) |
東行墓背後の高杉家累代之墓(妻雅子墓)と後部に高杉家祖先歴代墓 | 奇兵隊・諸隊顕彰墓地の白石正一郎之墓 |
野村望東尼救出と三田尻:慶応二年九月、病床にあった晋作は筑前の藤 四郎(奇兵隊士)・*小藤四郎(長府報国隊士藤村六郎)等従僕6名を派遣し、福岡藩尊攘派弾圧により糸島郡姫島に流刑中の野村望東尼を救出・白石邸に迎える。望東尼は妻雅と共に晋作の死を看取る。死の数ヶ月前、晋作は「おもしろきこともなき世をおもしろく」とまで書き筆を落とす、望東尼はその後に「すみなすものは心なりけり」と続けた。
(注)小藤四郎(藤村六郎)は通化寺天野氏墓所の遊撃隊斥候「筑前藩士小柴三郎兵衛源勝忠墓」(小藤平蔵)の弟で、慶応3年12月~翌年1月の豊前日田事件(御許山騒動・花山院隊事件)により捕縛、慶応4年1月20日馬関阿弥陀寺に斬首。享年26。のち贈從五位。
野村望東尼墓(桑山) |
「歴史の道調査報告書 萩往還」に、「望東尼は救出後白石正一郎宅にいたが、慶応三年四月、晋作が死去すると山口の*小田村素太郎(伊之助)宅(楫取素彦:吉田松陰三人の妹のうち次女寿と結婚、死別後松陰末妹久坂玄瑞の未亡人文・美和子と結婚。のち群馬県令)に移る。同年九月十九日薩長間に倒幕の謀議が成立し連合軍が三田尻を出発と聞いた尼は、二十五日山口を出て宮市天満宮に参拝した後、三田尻中塚町の荒瀬百合子宅に入り、その「離れ」に寓居した。翌日から七日間、天満宮に参篭して断食潔斎し、皇道光被大願成就の祈願を行ったが、六十二才の老齢の身には余りに過酷であり、満願の日から病床につき、十一月六日死去。遺体は三田尻花浦桑山(くわのやま)の南麓、鞠生松原を見下ろす景勝の地に葬られた。終焉の宅となった「離れ」は、見学者の便のため大正年間に尼の墓所に近い桑山の東麓、曹洞宗大楽寺山門の真下に移築された。昭和四十一年、宅跡・宅および墓が一括されて県史跡に指定された。
十一月二十五日、右田毛利内匠を総督とする討幕軍は鞠生(まりふ)の小烏神社(八咫神社)に順次参拝し必勝を祈願。鞠生丸以下七隻の薩長艦船に分乗、京へ向かう。(鳥羽・伏見の戦い)」とある。
高杉の死から七カ月。王政復古大号令の一ケ月前のことである。望東尼にとって志半ばで先立った晋作への思い入れは誰よりも強かったであろう。
女流歌人でもあった辞世の一首に、
東行と望東、この両者の号名に不思議な絆を感じない人はいないだろう。
望東尼に心残りがあるとすれば、高杉が死んだとき棺に入れた歌(短冊)をあとで妻雅によってこっそりと取り出されたことであるが、雅の心情を思うとこれは仕方ないことであろう。「おくつきのもとにわがみはとどまれどわかれていぬる君をしぞおもふ」。
晋作の妻としては薄幸であった雅子及び高杉家の墓は、吉田清水山東行庵の「東行墓」とその前面「梅処尼首座」を直線状に見下ろす「東行墓」左後部にある。
(高杉晋作後段は、主として古川 薫著「高杉晋作」から引用)
*小田村伊之助(文助、素太郎、のち楫取素彦):萩藩医松島瑞蟠の次男、兄に松島剛蔵。儒学者小田村家の養子となり安政4年明倫館都講役兼助講となり吉田松陰と親交。松陰三姉妹の次女寿(久子)と結婚。松村塾閉鎖後は塾生を指導、四境戦では広島での正使山県半蔵(宍戸璣:たまき:交渉役として家老宍戸家の養子として宍戸備後助に改名、後正式に璣と名乗る)の副使となり、四境戦直前には一時期広島に拘束される。慶応3年(1867)9月奥番頭になり藩命により楫取素彦と改名、鳥羽・伏見の戦いには諸隊参謀として出征。明治以後杉民冶と共に松陰顕彰に尽力。明治7年熊谷県令(のち同9年群馬県令)。後、元老院議官・貴族院議員等を歴任。明治14年妻久子と死別、2年後の明治16年(1883)久坂玄瑞の未亡人文(松陰の末妹フミ:美和子)と再婚。晩年は妻美和子と三田尻(防府市三田尻)で過ごす。三田尻の野村望東尼墓建立に尽力。大正元年三田尻で84歳没。妻美和子は大正10年79歳没。素彦墓と美和子墓は三田尻桑山東麓大楽寺境内南方の楫取家墓地に併設。ちなみに、野村望東尼墓は桑山南麓。大楽寺境内には女優夏目雅子の墓もある。(巻末ルート図参照)
慶応三年(1867)・3/20岩国領主吉川経幹(監物)死去、喪を伏す ・4/14晋作逝去、望東尼白石邸から山口の小田村宅へ移る ・4/23いろは丸事件 ・9/19薩長倒幕密約成立 ・9/25望東尼三田尻へ ・10/14大政奉還 ・11/6望東尼逝去 ・11/15龍馬暗殺 ・11/25倒幕軍三田尻出港 ・12/9王政復古大号令 (三条実美大宰府にて官位を復す)
慶応四年・明治元年(1868)・1/3鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争緒戦)1/6徳川慶喜海路東走 ・3/13今田孫四郎太政官に出頭、吉川監物を長門宰相の末家となすべき沙汰書を受領(吉川氏大名引立) ・4/11江戸開城 ・閏4/19吉川経幹駿河守に任ぜられ従五位下に叙せらる ・閏4/21政体書布告(太政官制) ・6/9吉川駿河守を城主格になすべき奉書受領、7/21岩国藩横山館を城に改称 ・9/8明治改元 ・9/22会津藩降伏 ・9/24庄内藩降伏、9/28仙台藩降伏東北戦争終結 ・12/8吉川駿河守経幹隠居し経健(つねたけ)家督を継ぐ
明治二年(1869)・3/20吉川経幹死去公表 ・5/18函館戦争終結(戊辰戦争終結) ・6/17版籍奉還(知藩事の制・府藩県体制) ・9/4兵部大輔大村益次郎京都で襲われ11/5死去、享年46 ・11月山口藩兵制改革、諸隊脱退反乱騒動、新政府にあった木戸(桂)これを鎮圧
明治四年(1871)・7/14(1871/8/29)廃藩置県断行(木戸孝允主導による各知藩事、藩札の廃止。県令移行)・11/12岩倉使節団(木戸・大久保・伊藤ら)米・欧へ出発
明治六年(1873)・太陽暦採用 ・1/14全国城郭存廃令 ・9/13岩倉使節団帰国(この間、征韓論を唱える西郷・板垣・江藤・後藤・桐野らの留守政府組と確執) ・10/25征韓論政変(西郷ら下野)
明治九年(1876)・3/8廃刀令 ・8/5金禄公債発行条令、これを契機に士族の乱多発
明治十年(1877)・2/14西南戦争勃発 ・3/20田原坂最終戦 ・5/26木戸孝允病没、享年45 ・9/24西郷自決、享年49。西南戦争終結
野村望東尼終焉之地(三田尻) | 小烏神社(八咫神社)・鞠生松原一部残存 | 御舟蔵(海軍局)通堀跡(三田尻) |
この周防の東部にあって、吉田清水山(東行庵)のミニ版ともおもわれる維新の史跡が現存することを、ご存知の方は意外と少ない。通化寺や雪舟庭園とその借景も現在は荒れるにまかせられている。大黒山の巨岩・奇岩が散見される背後の借景は、吉田清水山の比ではない。惜しいかな、一人、通化寺窯が健闘しているのみである。
第九番 「法輪寺」 |
通化寺のその他の史跡として、四国八十八ケ所霊場石仏像が境内左側から右回りに大梅山麓を巡り設置されている。 本堂に向かって左側の石観音像が第一番「霊山寺」、右側が第八十八番「大窪寺」である。遊撃軍記念碑、招魂碑、雪舟庭園等はこれを巡る途中にある。春先の梅や桜、新緑の頃のツツジ、秋の紅葉等、多少荒れた感じの大梅山や大黒山の借景をめでながら雑木林を遍路するのも味がある。
左の写真は12月の撮影である。春になったら、第四十番付近の山道を大梅山から大黒山を目指してもいいだろう。
また、田村悟朗氏に案内してもらったが、通化寺窯建物右側横を大梅山方向に約20m進むと右手に苔むした自然石の石像、無縁墓碑群が七、八基並んでいるが、これは山陽自動車道建設時、西午王ノ内から相ノ見付近にかけて山陽古道「相ノ見越」沿いにあって支障となった石観音像や墓碑をこの地に移設したものだそうである。
近くに高さ約1.3mの細長い自然石の墓碑が一基ある。これは通化寺二十三代戒文禅師が高森下市の総持寺に隠居し、寺子屋を開き、学問の神として崇敬される菅原道真坐像を通化寺から麓山神社に移し高森天満宮となった際、土地の提供等の便宜、援助をした当時の下久原庄屋尾崎喜右衛門夫婦の墓だそうだ。碑陰に「尾崎喜右衛門夫婦」と陰刻されている。尾崎家累代の墓地は別の地にある。
この尾崎夫婦墓右横の一部沢道状の荒れた山道を約150m登ると左手に「大梅開山大和尚塔」と刻まれた墓碑がある。二段の台座に1.2mの自然石で、総高1.8mある。通化寺住職の話によると黄檗宗大梅山通化寺開祖で黄檗三傑の一人、長州出身慧極道明禅師(えごくどうみょうぜんじ)の墓だそうだ。建立年月は不明。
尾崎喜右衛門夫婦墓 | 大梅開山大和尚塔(黄檗宗大梅山開祖慧極道明禅師) |
ここで、街道を中心とした道中とは別に、山陽古道「相ノ見越」、「椎木峠越」、通化寺、(廃)円月寺跡墓地の脇道散策を提案しておきたい。
「相ノ見越」を歩くには二つのコースがある。
一つは、二王屋敷前から久原橋経由下給宗の古道を歩き(島田川左岸竹やぶは通行不可のため迂回)、神幡付近から通化寺経由で相ノ見峠・筏場から淡海道(後述)を辿るコース。
もう一つは高森駅から(廃)円月寺墓地・通化寺経由、相ノ見峠へ至るコースがある。勿論、二井寺山参道入口前から通化寺へ一旦戻って相ノ見峠へ向かえればそれにこしたことはことはないが...。乗用車を利用する場合は、通化寺と二井寺山頂100m手前の広場には駐車場があり、「相ノ見越」ルート(林道)は相ノ見峠の手前約500m付近の登山口まで車の進入可能で、広い駐車スペースがある。
「椎木峠越」は、全区間車の通行が可能。但し、普通車は通行可能とおもうが車離合場は少ない。この道は平坦でハイキングには打って付けである。「相ノ見越」と「椎木峠越」詳細は次項参照。
山代道と妙見道標 | 柳井道東側とスーパー建物南以遠は吉川領 |
山代道分岐の西側に、なまこ壁の白塀に囲まれた古風な屋敷があるが、ここは最近まで造り酒屋、中村酒造があった。杉玉のある酒屋の店先部分は平成二十一年五月に取り壊され駐車場になり、右半分の白塀部分と庭を残すのみとなっている。
中村酒屋のなまこ壁 | 杉玉のある店先は取り壊された |
酒屋に隣接した高森本陣は相川本陣と呼ばれ、脇本陣は前述のとおり受光寺と柳井道の山本家が勤めた。
文久元年(1861)十月五日、藩主敬親(たかちか)が「航海遠略策」をもって幕府と朝廷との周旋をするため江戸参観のとき、藩主以下近侍の者五二人は相川本陣でなく、山本脇本陣に止宿し、総勢八〇〇人の宿割りは一〇四件の街道沿い寺院や一般民家に及んでいる。
高森本陣は本藩領東端にあったため、四境の役では、藩政府の前線基地となって、政治折衝の檜舞台となった。慶応二年四月頃から彼我使節の往来激しく、領内が戦場となり早期終戦を希望する広島藩は七月使節の西本清助・植田乙次郎二名を山口に送る。これを知った、遊撃隊河瀬参謀と膺懲隊大田総督は後を追って高森で二名と会見、さらに三日後の七月二十日には、藩政府代表小田村素太郎(楫取素彦)・広沢兵助らも来着、事実上の休戦協定がこの本陣で成立している。これらの動きに本陣は大混乱を来たし、高森市の番所も混雑と人改めを厳重にするため、近郊の千束に移動し、明治二年三月に以前の位置に復帰したあと、翌年十一月に廃止されている。
天璋院篤姫は嘉永六年(1853)九月十日、将軍家御輿入のとき高森に宿泊し、翌日錦帯橋を折り返し玖波に泊まっているが、宿泊先は不明である。薩州島津候、江戸参観のとき宿泊の受光寺にしておこう。(前項、柱野思案橋の項参照。)
平成27年(2015)2月高森本陣の邸宅は取り壊され、玄関門と塀のみが残存することとなった。跡地は市営幼稚園になる予定である。
風雨のなか本陣前を東進する「街道てくてく旅」の早穂姫(’09.06.10) |
「吉田松陰高森宿泊の地」 ・松陰は前後三回高森に宿泊している。
第一回目は高森本陣の斜め西向かいに山口銀行高森支店があるが、ここは吉田松陰の親戚であった岩本家(岩本医院)があったところで、嘉永四年(1851)、藩主の参勤交代に従い兵学研究のため東遊した際、三月五日熊旛(ゆうはん:藩主の旗・行列)に先行し荷を運ぶ一隊と萩を発し山口泊、三月六日小郡経由三田尻。三月七日三田尻発、午後花岡到着。三月八日高森岩本宅に宿泊。翌朝、暁を破って熊旛に先発。関戸越しのとき長詩をものし、小瀬川を越え玖波泊。五月九日江戸に到着している。このとき松陰二二歳。当時の岩本家は醤油醸造販売を営んでいた。現在の岩本医院は高森の別地に移転している。銀行の駐車場傍らに「吉田松陰常宿の地」と刻まれた御影石の石碑がある。「常宿」と誇張されているが、親戚筋であったことの誇張表現か?正確には「吉田松陰先生東遊宿泊之地」である。
嘉永四年(1851)江戸遊学のとき、三月五日午前五時萩を
その年十二月江戸遊学中「過書」発行を待たず脱藩し親友の宮部鼎蔵と出発した東北諸国遊歴(前述)を罪に問われ嘉永五年五月帰国を命じられたルートは日程期間的に大阪から海路であったと思われるが詳細不明。帰国後脱藩の罪で兵学師範を免ぜられ、家禄没収、実父杉百合之助あずけとなる。
(注)前年の嘉永三年九州遊歴については、巻末「周防国西部~赤間関ルート図」吉田宿・小月市の赤間関街道メモ参照。
藩主敬親は「國の宝を失った」と松陰を惜しみ嘉永六年(1853)の一〇年間の諸国遊歴を認められた江戸再遊学では、正月二十六日午前六時家を出発、三田尻から海路大坂を目指す。午後六時過ぎには三田尻警固町の御船手役人(海軍の士官)飯田行蔵宅に着いている。前回と同じく強脚。翌、翌々日と荒天のため、諸士官宅を訪問しているが、船が出る気配がないため、三十日三田尻道(中の関道)を国衙で山陽道に合流、浮野経由富海へ。飯田行蔵は富海まで送る。ここの富海飛船は三田尻出港の船よりも小船で出港の融通は利くものの多少の危険を伴うものであった。翌二月一日午前十時頃ようやく富海を出帆したものの、風が強く大津島近江に急遽入港、船底で一夜を過ごす。船客八名嘔吐するもの多し。翌日は快晴、上関の室津で潮待ちの間上陸し台場を見学。大島小松経由津々(岩国通津)に深夜零時頃入港、船内泊か?。翌三日新湊(岩国新港)に入港。積荷陸揚げの間を利用して錦帯橋を見学し折り返す。ここで橋のたもとにあった岩国藩政に対する意見箱「諌櫃」(いさめびつ)をみて「甚だ好し」と感心している。おかげで錦帯橋について詩がないのは残念。このあと深夜宮島船内泊、翌朝上陸。大阪から大和等方々に立ち寄り、ようやく五月二十四日江戸着。六月三日ペリー率いる四隻の米国東インド艦隊浦賀沖に出現。直ちに浦賀に赴き実情調査。このとき松陰二四歳。(「癸丑遊歴日録」 ・吉田松陰全集第九巻)
嘉永六年長崎紀行は、来航中のロシア軍艦に乗り込もうと思い九月十八日江戸を立ち、大坂から海路九州へ。十月十六日鶴崎(大分市)から阿蘇の麓を通り十九日熊本着、肥後実学党の横井小楠と面談。二十七日長崎へ到着するが露艦はクリミヤ戦争勃発のため三日前急遽出航していたため目的を果たせず、熊本で嘉永三年九州遊歴で知友となった宮部鼎蔵と再会後馬関経由萩に十一月十三日一旦帰国。後を追ってきた宮部鼎蔵・野口直之允と合流、十一月二十四日萩を出発し、二十六日富海から海路大阪、中山道(中仙道)を江戸へ向う。 (松陰の親友であった宮部鼎蔵は、元冶元年(1864)池田屋事変で闘死。) (「長崎紀行」・「吉田松陰全集第九巻」)
第二回目は嘉永七年(安政元年・1854)、金子重輔(重之助)と下田踏海・萩護送のとき、十月二十日中市の亀屋市之助宅(現、善本氏宅)に宿泊。このとき本陣医(宿場医)三戸玄庵は重病の金子を診察している。旧亀屋宅は宇野千代文学碑入口の斜め西向かい浄泉寺入り口右側にあって「史跡標柱」がある。翌日、花岡宿泊。宮市(防府市)へ向う。
嘉永七年(安政元年1854)三月二十八日下田踏海に失敗、自首。萩へ護送となり九月二十三日江戸を唐丸駕籠で出発。十月二十四日萩到着、野山獄に入れられる。十月二十日小瀬川を越え柱野で昼食、高森着。二十一日高森発花岡着(昼食呼坂) ・二十二日花岡発宮市着(昼食福川) ・二十三日萩往還明木市泊 ・二十四日昼前萩着(*「護送日記」)
*「護送日記」は松陰と金子を江戸から駕籠で護送した武弘太兵衛が記載したもので、武弘家は花岡本陣を勤めた。護送日記は現在も当家に保存されている。
第三回目は安政六年(1859)、東送の幕命により護送駕籠で五月二十五日、萩を出発。同二十七日に呼坂宿で寺嶋忠三郎と惜別の歌を交わし、高森に宿泊しているがその宿泊先は不明である。護送の手勢達と民家に分宿したのかもしれない。翌二十八日昼ごろ関戸宿東家脇本陣で昼休みをとり、小瀬川を越える。このとき松陰二十九歳。
「ブック資料館 周東」に、柳井市在、川口健治氏(故人)の昭和初期の家屋スケッチがあるので紹介する。
巻末西方面ルート図に付3:「吉田松陰全国遊歴略図」を掲載したので参照されたい。
松陰常宿之地 ・岩本氏宅跡(現、山口銀行高森支店)・嘉永四年「江戸遊学」 | |
中市の松陰宿泊之地 ・亀屋宅跡(現、善本氏宅)・安政元年「下田踏海」、萩護送 |
浄土真宗明専寺 |
山口銀行(旧岩本宅)の西隣に浄土真宗明専寺がある。四境戦争の際、地元有志の者約百名がここに集まり「励忠隊」を結成。松の木で大砲を作り、射撃訓練などを行う。(前述)
別に高森農兵隊二百名が熊毛宰判管下のもと、室積等に行進、各種訓練を行い非常時に備える。
山口銀行高森支店(旧岩本家跡)から約100m西に北へ小路があるが、ここからが現在の中市になる。小路の北西角に古い看板を持つ熊野天真堂薬局(自宅・天真庵と蔵は街道を挟んで真向かい)がある。主人の話によると、現在は漢方薬の調合販売をしているが、昔は卸し販売をしていて、創業は文政年間だそうだからかなり古い。昔はかなり広域的に商売をしていたそうで、広島の中国新聞創刊号(明治二十五年五月五日)の広告頁に大きく載っている。
高森市には薬種、砂糖類の問屋一カ所の開業が認められ、普通には禁制とされた漢方薬の人参の商売も許されている。享保五年(1720)十一月の布令に山口に二ケ所、高森・宮市(防府)・吉田・長門瀬戸崎に各一ケ所が認められ、人柄吟味をしたうえ報告するよう命じている。享保といえば相当古いが、熊野家もこれに関係したのかもしれない。
熊野家について特筆すべきは、遊撃軍参謀宮田半四郎(小川師人:もろと・前述)がこの薬局の裏にあった別棟に寄寓し、ここから毎朝遊撃軍の本営があった通化寺に軍馬で通っていたことで、新式銃隊維新団結成や芸州口の戦いで奮戦ののち、元冶元年鳥羽・伏見の戦いで銃創を負い三田尻の軍事病院で亡くなったあと、熊野家が遺骨を引き取り(廃)円月寺墓地隣接の後山に「遊激軍参謀宮田半四郎師人墓」を建立し当家で永く供養されている。熊野家との関わりは、三丘領主宍戸備前に赴任挨拶のとき、宍戸氏臣福間義種から義種の兄である高森中市の熊野正造宅を紹介される。薬局主人の祖母が幼少のころ、半四郎の軍馬によく乗せてもらって遊んでくれていたようで、優しい小父ちゃんだったそうだ。筑紫の小川家と熊野家の親睦は今も続く。熊野家伝承に、出自は毛利元就尼子氏攻略戦の過程で毛利方三刀屋氏・三沢氏に降伏する出雲要害山熊野城主熊野久忠の庶流といわれるが史料等無く不詳。熊野氏嫡流末裔は大阪府豊中市に健在。前述通化寺境内墓地に墓がある出雲熊野城代天野隆重五男元嘉は長野と久原の内給領主となるが、関ケ原の戦いのときには備後奴可郡(甲奴郡)西城の大冨山城代であり、繁澤元氏に従い久原に入封したのではないかと推察するが不詳。ちなみに繁澤元氏創建の浄念寺(浄泉寺)と天眞庵は隣接しており、浄念寺家紋と熊野家家紋印は同じ「丸に抱き花杏葉」である。
昭和初期の中央に用水と並木を配した美しい高森市の風景は、宇野千代文学碑前付近から東方面を眺めたもので左に熊野天真堂薬局の看板が、街道を挟んだ真向かいには山縣呉服店(今は無い)の東隣りに熊野家自宅・天真庵と蔵を確認できる。電信柱と電力柱は昔のままの占用位置で、電信柱の八線用腕木が懐かしい。街道東方面突き当りの山は玖珂の塔ケ森で、左手の低い山は千束の天王山(須佐神社・千足山狼煙場)である。(拡大図はトップページ参照)
森下仁丹謹製看板 | 昭和初期と現在の高森市(中市から上市方向を望む) 左(北)熊野天真堂薬局、 右(南)熊野家自宅天真庵と蔵 |
中市の報明寺の隣に宇野千代先生文学碑案内看板がある。街道入口は駐車場となっているが、この奥左手に文学碑がある。この地は造り酒屋宇野家のあったところで、宇野千代は造り酒屋の次男で岩国川西に住んだ俊次の長女である。明治三十年十一月二十八日の生まれで、生後一年半で生母と死別、しばらくの間高森の実家に預けられた。
「宇野千代文学碑」は、当時の周東町文化協会長吉山美夫氏らの尽力により建立された。除幕式は、平成六年十月十五日。宇野本家三姉妹が除幕した。文学碑には「ある一人の女の物語」の一節と美しい往時の高森の町並みのスケッチがはめ込んである。碑石は「いろり山賊」社長の高橋氏が夫婦岩として購入していたものを寄贈したものである。
傍らの「淡墨桜」(薄墨桜)二本は、女史が岐阜県根尾村を訪れた際、昭和三十四年の伊勢湾台風で被害を受け、枯死寸前の樹齢1500年といわれる古木を目にし、存命に尽力した原木の苗木を植えたもので、建立の一年後に女史から寄贈され植樹された。川西の生家にも同じものがある。染井吉野に比べ開花時期が少し早く、白い花が散り際に淡い墨色になることから淡墨桜(うすずみざくら)と名付けられている。
敷地の奥に酒蔵や長屋風の酒造り場の一部が残っているが、現在は一部に人が住んでいるようだ。
中市の浄泉寺 |
宇野千代文学碑の街道を挟んで南側に浄土宗浄泉寺がある。慶長年間(1596~1615)、阿川毛利氏祖、吉川元氏(繁沢元氏)の援助により創建された。初めは清心院と称したが、のち浄念寺と改め、明治三年(1870)に差川村の宗泉寺を合併し、浄泉寺と改めた。元氏の墓は通化寺にあるが、位牌は当寺に安置されている。
浄泉寺の参道入口西に「吉田松陰先生宿泊之地」と刻まれた石碑があるが、ここは吉田松陰が「下田踏海」に失敗し、萩送りとなったとき宿泊した旧亀屋市之助宅跡があったところである(前述)。
JR周防高森駅前交差点南側街道沿いに浄土真宗正蓮寺があったが、新道が設けられたため平成元年正月下市に移転した。正蓮寺所蔵の遊撃軍隊士行進の図(前述)は、当寺の屏風の内張りから発見されている。通化寺の駐屯施設が整うまで狙撃隊が一時分駐していた。
高森駅前交差点から西60m付近に南へ小路があるが、ここからが下市である。この先、街道の北側に立派な門構えの家があるが、ここは宿場専属医を代々勤めた三戸家の屋敷である。貞享二年(1685)三戸養元が宿場専属医を命ぜられたあと、代々専属医を勤め、宝暦十二年(1762)には二代目玄庵が本陣医を命ぜられ、「四境戦」のときには受光寺に置かれた高森軍事病院専属医を三戸玄庵が勤めた。
JR周防高森駅 | 下市の本陣医三戸家 |
高森市のはずれ、市尻に高森天満宮(麓山神社)がある。古くは当地に大島郡より総持寺を引寺。嘉永年間には本郷村より、麓山神社をこの地に遷した。明治初年に通化寺二十三代戒文禅師が総持寺に隠居し、寺子屋を開き、学問の神として崇敬される菅原道真坐像を通化寺から麓山神社に移したといわれる。主神は大山祇神で現在の社殿は昭和三十六年の改築である。境内右に天満宮創立者戒文禅師の碑(かいもんぜんじ)と総持寺開山活宗外和尚塔がある。防府、遠石と並ぶ周防三天神の一つで、秋季例祭「天神祭」には近郷から多くの参拝者がある。上市付近から天満宮まで街道両脇には露店が長く並び、この地方では最大の賑わいである。(柱野二軒屋の項参照)
高森天満宮 | 秋季例祭 | 天満宮創立者戒文禅師之碑 |
天神橋と城山 |
高森天満宮の近く、島田川にかかる天神橋を渡ったところが用田と中曽根の境で、村境中央の山が用田の城山(しろやま)である。城山は源平屋島の戦いの後、義経が平家を追討して下向する際布陣したと伝えられるが、これは極めて疑わしい。義経は四国方面の責任者で、屋島、その他の戦いで平氏を撃破し兵船調達後、周防大島津から壇ノ浦を目指している。山陽道沿いに西下したのは九州方面攻略責任者である範頼で、二井寺などを宿陣としたようである。このとき利用した道は「相ノ見越」か「鳴川道(成川道)」であったかもしれない。山名からこの地に何らかの城があったことを推定するのみである。頂上には招魂碑がある。
毎年夏の盆時期には天神橋の島田川河畔で花火大会が行われ、露店も並び賑わう。
一時期、山陽道として利用された「椎木峠越」は、この付近から少し下流を徒渡りか船渡りして城山の北山麓を上中曽根から大黒山西山麓の椎木峠を越えて周南市(旧熊毛町)小松原筏場で山陽古道「相ノ見越」と合流する。これに対し、高森から、掛ノ坂、中山峠を経由して呼坂へ至る街道は「新道越」と呼ばれる。(詳細は次ページで後述。)
高森天満宮から街道を西へ200m進めば、島田川通船発着場跡である。天神橋から桜並木の川土手を西下すれば、川土手堤防擁壁が川敷きへ向けて斜めに下っているので判断できる。街道を西下した場合は、シーパーツ会社三階建てビルの真向かい付近になる。左側にはカーブミラーがある。ここから島田川口の浅江(光市)に、穀類、味噌、炭等の産物を運んでいた。この付近一帯は竹薮であったそうである。
天神橋から桜並木川土手を西下 | 島田川通船発着場跡付近と天神橋 | 街道北側、シーパーツ会社ビル |
高森天満宮前からこの先約1Kmの米川橋までは島田川の桜並木川土手を進むのが推奨コース。ただし、この先の「鳴川道」起点を見失しわないよう注意しなければならない。(次項参照)
シーパーツ会社ビルから約200m弱西下すると、島田川に注ぐ小川があるが、ここが藩政期の久原村と長野村の境である。
高森天満宮から中山峠間は、容量オーバーぎみのため、当初の予定を変更し、山陽古道「相ノ見越」詳細を含め、次ページ以降の記載とします。