周防国の街道・古道一人旅
山陽道
小瀬の渡し場~関戸

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冒頭から更新・追加掲載である。木野川渡し場の「ごじんじ」について、NHKTV「街道てくてく旅。 山陽道」で、「神事場」と放映されたため、大竹市教育委員会に詳細を問い合わせていたところ、回答を得たからである。領域外であるが、芸州木野川の渡し場について、少しふれてみたい。苦の坂から街道を下り、いきなり両国橋を渡り防長路へ向かう旅人もいるようだが、ここは、渡し場周辺の史跡や旧木野村中津原の古い町並みを訪ねておく必要がある。

両国橋左岸の250m下流に「市指定史跡 旧山陽道木野川渡し場跡入り口」の史跡標石がある。ここから斜めに沖原河原に下ると、右手に治水対策として築かれた小林三角和久(こばやしさんかくわく)があり、ここから下流の渡し場まで続くまき石護岸(藩主福島正則のとき築かれたため福島堤防ともいう)の遺構をみることができる。渡し場の沖原河原広場には御駕籠を置いた「ごじんじ」(後述)がある。「ごじんじ」は、台風で一時流失していたが、近年周辺を「水辺の樂校」として整備公園化した際、復元された。


現地案内説明板 まき石護岸と上流に小林三角和久 ごじんじ

懇切丁寧な現地案内板に、「ごじんじ」は駕籠置場に使用されたとある。大竹市教育委員会からの回答は、「諸説あるが、元々は街道の駕籠立場として「御陣地」であったものが、中津原の氏神「氏野大明神」(のちに厳島神社と改称)の秋祭りの際に神輿を迎える地としての「御神場」(ごじんじ)と字があてられたものと思われる。神輿は、昭和20年代に金具を全部盗まれたため、「ごじんじ」への行幸はできなくなった。現在、地元の人はこの場所を「ごじんじ」と呼んでいる。」とのことであった。
郵送されて来た添付資料
「佐伯郡廿カ村郷邑記(にじっかそんごうゆうき)」文化三年(1806)に、「中津原の氏神、氏野大明神の九月九日秋祭に、神輿が沖原河原へ行幸ス」とあり、渡場繢石之事(つなぎ石・まき石?)に「---御駕籠立御境---(省略)---。渡場打廻シ神事場下迄石垣土手出来之由」」とある。さらに「小林三角石和久 元禄十三年出来、其後度々繕ひ有とある。「ごじんじ」のある場所を「御駕籠立」あるいは「神事場」と表現しているようだ。渡船之事には毛利様領との船作(岩国藩が今津で船作)、維持分担関係等が記載されているが割愛する。
本陣を勤めたK氏の話では、現在の秋祭りは10月第2日曜日に行われ、子供神輿が「ごじんじ」に鎮座する。

木野村は江戸末期から明治にかけて和紙の生産で栄えたところ。今でも当時の問屋や商家、酒屋(津屋)が軒を並べ、往時の町並みを彷彿とさせる。今まで土手道(県道)しか通行したことがなかったので驚いた。木野の石州街道は道幅も狭く車の通行がほとんどないため、玖珂や高森の旧山陽道筋とは趣が違い、古風で落ち着いた町並みが続く。
旧街路から小路を少し山裾へ入ったところに中津原の
御茶屋(津屋:K氏宅)がある。当時の門と建物が現存する。立派な門は本陣門と呼ばれ、座敷も当時のまま保存されているそうだ。ここは、休息所や川止めの時の宿泊施設として使われた。

 天璋院篤姫は、江戸城へ向かう途中、この御茶屋で休息している。
「岩邑年代記」嘉永六年(1853)九月十一日の部分に「薩州姫君様、昨夜高森にて、今日橋御廻り。児玉屋ぇ御小休。今晩玖波御泊の由。---御案内御使者有之候に付、御客屋ぇ御使内坂左門。」とある。文面から錦帯橋東詰に児玉屋と呼ばれる御客屋があったと思っていた。津屋は別名、児玉屋とも呼ばれていた。「大橋」とは錦帯橋のことである。
(本項:2010.10.10追加。)
詳細は、この先「多田~欽明路」の柱野思案橋付近、及び巻末「日々是見聞録」(2010.10.10)参照。

「訂正」: 児玉屋は、錦帯橋東詰の錦見土手町にあった旅館「児玉屋」が正解で、津屋の別名とは違うようだ。文面を曲解した経緯は「是日々見聞録2010.10.10」参照。(2012.06.11訂正)

中津原の御茶屋(津屋)と本陣門 木野村中津原の町並み 厳島神社(氏野大明神)

渡し場周辺や詳細な現地案内板をじっくり見てから、津屋周辺を巡り両国橋へ折り返すには最短3、40分はかかるだろう。

(注)四境戦「芸州口の戦い」において、遊撃隊(軍)は慶応二年六月十三日本陣を小瀬の籌勝院に進め、主力は川を渡り中津原の庄屋宅を先鋒部隊本陣としている。後日、中津原の御茶屋には、総督右田毛利世子幾之進と副総督河瀬安四郎が宿陣している。翌十四日の芸州口緒戦の主戦場は、ここを本拠とした遊撃隊が往還筋を「苦の坂口」に、間道を「大竹口」に兵を進め、木野村は戦場にならなかったため、大竹市域のうち木野村だけが家屋類の消失をまぬがれる。木野村の村民は庄屋等一部の代表者を残し全員三ツ石・谷和方面に逃避していた。



ここから山陽道防長路に入ります。

小瀬川(木野川)に架かる両国橋を渡り、川沿いを店口方向へ下がると右前方遠くに小瀬峠と右手前に高圧線鉄塔のある尾根がみえてくる。この尾根が「防長の山陽道陸路狼煙場」最東端の小瀬川米山之内籾ノ子狼煙場があった「五人代山」である(詳細後述)。小瀬峠の直ぐ東側の山が関戸峠とう谷狼煙場であるが小瀬川米山之内籾ノ子狼煙場と関戸峠とう谷狼煙場の位置関係は、ここからしか視認できないので見過ごさないようにしたい。

両国橋 小瀬峠(関戸峠)を遠望 店口の渡し場から対岸をみる。


両国橋の250m下流に
小瀬の渡り場店口の渡り場ともいう)がありここが防長に入った山陽道の起点になる。小瀬川排水樋門のある河川敷の桜並木中央付近の桜木の隙間、ここが渡し場で、対岸の木野村中津原河川敷に木野川(このがわ)の渡し場「ごじんじ」(御陣地?)が小さく見える。対岸の説明板によると、この上に御駕籠を置いたそうだ。渡し場へのスロープも確認できる。 当初、「御陣地」と勝手に推察していたが、その後、NHKTV番組・「街道てくてく旅。山陽道」(2009年6月12日放映)で、「神事場」と説明されている。)
(注)河川名「小瀬川」・「木野川」は、昭和43年4月20日二級河川から一級河川指定のとき、右岸の呼び名小瀬川に統一される。

(追記):「ごじんじ」について、現地案内板では「駕籠立場に使用」と説明があるので、TV放映後大竹図書館で文献類を調べるが不明で、大竹市教育委員会に照会したところ回答を得たので冒頭に記載することにした。苦の坂を越えてから木野川渡し場に立ち寄ることなく、いきなり両国橋を渡り、店口の渡し場から対岸を眺める旅人もいるようなので、注意喚起を含め丁度いいだろう。

後述、店口の藤本氏によると、対岸の「ごじんじ」は洪水で一時流失したものの幼少の頃から現位置のままだそうで、再建されたためか石垣から大理石に変わり低く平坦になっている。幾多の洪水による破壊と流失にもめげず、大きく迂回して流れる中津原の河川敷に鎮座しているのを見ると、「平成の架け替え工事」を終えた錦帯橋のように人間の英知と忍耐と努力には驚かされる。

小瀬川の渡り場は、「渡し守」は昼夜二人詰で、双方村より一人ずつ出し共同運営され、かち渡りまたは船渡りで、「渡し賃」は町人百姓は、当初米壱合、のち二文、牛馬は四文、武士は無料であった。近代になって両国橋は大正6年5月、両村組合によって少し上流に立派な「一銭橋」(有料橋)が架けられ、洪水による度重なる流失にもめげず、その都度架け替えられたそうである。昭和29年7月に近代的鉄筋橋梁に改められて長く使われていたが、奇しくもこの一銭橋のあった付近には「新橋」が建設中で、平成29年(2017)3月に「両国橋」として開通予定で、旧橋は撤去される予定である。

「追記」:後述長門彰男氏談によると「店口」の俗称地名は、往時の狭い街道筋には、紙すき用のとろろ販売店・酒屋・鍛冶屋・豆腐屋・米屋・醤油屋・蚕のまゆ仲買商・髪結い屋・紺屋等多数の店が集中していたため、「店口」と呼ばれていたそうである。現在の情景では想像も出来ない賑やかさだ。(2015.0914追記)

「吉田松陰歌碑」は、小瀬川畔の花崗岩を使用し、揮毫は岸信介元首相、建碑委員長は岩国誌談会長 庄司 忠、除幕式は昭和44年11月30日、松陰護送駕籠を担いだ人の曾孫によって除幕された。松陰は二十二歳の時、藩主の江戸行きに従って兵学を学ぶため、前日に高森で一泊し、嘉永四年(1851)三月九日この地を通過しているが、次に駕籠で護送されてここを通過したのは、安政六年(1859)五月二十八日のことで、三十歳であった。揮毫の歌は防長二州と最後の別れをするために詠んだものである。



                         

夢路にもかへらぬ關を打ち越えて          今をかぎりと渡る小瀬川

         「涙松集」・「吉田松陰全集第七巻」」-

松陰の防長二州への惜別の念は、決して俗人の情と涙を誘っているわけではない。国境を「今をかぎりと打ち越え」、芸州入りした翌二十九日も、「安藝の國昔ながらの山川にはづかしからむますらをの旅」と詠む。萩往還涙松の和歌夏木原の東送詩(後述)と同様、彼の決意は揺らぐことはないのである。また、嘉永七年(安政元年)の「下田踏海」萩護送の途中にも、「四十また八坂、升降、人馬難しむ。與窓、時に独り笑ふ、見得たり周防の山。」と詠み、さらに明木橋を過ぎ、萩を目前にして「・・・今日檻輿(かんよ)の返、是れ吾が晝錦(ちゅうきん)の行。」とまで詠むのである。俗人はこの松陰の実直一途、純真、毅然とした憂国の激情「卓然自立し、俗流を顧みず」(東北遊日記)に感動するのである。

この歌碑のある街道沿いの角の空き地に
小瀬川端の一里塚があった。ここには口屋番所と船守固屋が置かれていたが昔の面影はない。「岩国市史」に、防長路岩国領の一里塚は当初は棒木で元治元年(1864)に常緑木に改めた際、榎木の苗が入手できず、槻(つき)を植えたとある。塚木書付は、「周防国一里塚初。安芸境より是迄二十間。下関(後に赤間関に改め)より是迄三十六里。」であった。山陽道防長路はここを起点に小瀬峠へと向かう。         

松陰の心情はいかばかりであったかと思いをはせながらしばらく進むと、右手に風情のある門構えの白色の塀が見えてくる。ここが昭和五十四年に土豪嘉屋氏の子孫(小倉在)によって再建された小瀬の茶屋である。格子戸の玄関門は施錠され、付近の民家が管理を委託されている。 
近くの民家を訪ね紹介された古老の藤本氏(屋号は酒屋
の話によると、小川(店口の水)が昭和の大型台風による水害の後、水筋が邸内の街道筋近くに変わったため、街道筋から水筋の裏手に移動し再建されたそうである。庭の管理も行き届き、品のよい風情である。私設とはいえ一般の茶屋とは違い、休息所に当てられたのに何故、茶屋と呼ばれなかったのか疑問に思った。岩国藩自体使用頻度少なく官営でないからか?財政逼迫の岩国藩らしい?ここも中津原の茶屋と同じく、大名の休息所や川止めの時の宿泊施設として使われた。

(注)岩国領吉川氏(きっかわ)念願の大名引立は、大政奉還後の慶応四年三月(明治元年・1868)であるが、それまでの呼称は適宜、岩国藩と記載します。
巻末掲載の付:4「長州藩領内略図」参照。
(店口の水に入り撮影したもの)


小瀬川米山之内籾ノ子狼煙場(岩国領)は米山団地背後の「五人代山(ごじんしろやま)」(249.2)の尾根にあった。「慶応の岩国領内全図」(以下、「岩国領内全図」と略すことがある)に、尾根に向って左側(西側)の浴が「米山」、右側の小瀬集落に連なる広い浴が「モミノ木迫」とある。現在、この尾根には中国電力高圧線鉄塔が建っている。
この尾根は小瀬茶屋を少し過ぎた付近から右前方に見えてくるが、米山団地入り口付近からは、団地の背後真正面に「五人代山」の尾根と鉄塔を確認できる。調査文献(後述)では高度40mとあり、高圧線鉄塔のある場所が150mなので、これより相当低い。狼煙場は団地背後竹薮付近のピークであったか? ここから小瀬渡し場と中津原、街道越しに小瀬峠を見渡す。

小瀬集落の端れからみる 米山団地入り口からみる
小瀬川米山之内籾ノ子狼煙場(岩国領) ・高度40m
「歴史の道調査報告書」に記載の周防国東部の「山陽道陸路狼煙場」は、三件のみで部分的な記載に留められているため前後の狼煙場や位置関係も不明であった。このため、「大河内村之内 弓矢か迫山」狼煙場は場所を特定するのに苦労した。幸いなことに、「益田家文書」海陸狼煙場一覧に基づき実地調査した井上佑氏の文献「防長の山陽道陸地狼煙場-小瀬川から高尾山迄-」を見つけ、これに基づき記載しているが添付地図がなく、古地名、俗称名の記載が多いため難解であったが、「国土地理院1/25000地形図」と岩国徴古館蔵の「慶応の岩国領内全図」(非常に精度が高く、現代の地図を基に絵図を書いたような感じ)記載の地名を参考に特定。
 「調査報告書」によれば、他見不可とされる「益田家文書」の陸路狼煙場表記は、「一、(岩国領) 小瀬川米山之内籾ノ子  拾弐三町程 一、() 関戸垰とう谷  壱里半余  一、()御庄市西山栢ノ木 (以下省略)」と、区間距離とともに箇条書きされているが、該当領域については井上佑氏文献に準じて( )表記。
「防長の山陽道陸路狼煙場」の要旨は中山峠北ノ方狼煙場(熊毛宰判)の項参照。
付2:「益田家文書」記載の山陽道陸路狼煙場一覧

小瀬関門跡廃養豚舎後方付近)

集落を抜け米山団地入り口を過ぎてしばらく進むと、ヘアピンカーブ手前の「店口の水」の西側、雑草が生い茂った中に(廃)養豚舎が見えてくる。この背後付近が小瀬関門跡で幕末の第二次長州征伐、「四境の役」のとき砲台が築かれ軍勢が駐屯していたところである。
小瀬関門は元冶元年七月蛤御門の変の一ケ月前六月十日に起工し、八月三日から警固を始める。「慶応の岩国領内全図」によると、関門は土塁と環濠のようなもので固められている。これが小瀬関門の最終形態であったと思われる。その他の軍事用絵図「小瀬ヨリ和木ニ到ル図」(岩国徴古館蔵)では、同様の形態のほかに、山陽道入口の防衛拠点としてこれを守るように両側山間部の高台に砲台が築かれ、各所の砲台から対向する要地や対岸木野村の要地へ向けては直線と共に距離が記載され、万全の備えであったことがよくわかる。(略図参照)

関門の手前(現在の米山団地入り口付近?)には道の両側に嘉屋氏が提供した木で大柵を築き、関門を過ぎて街道に対向する谷側山間部の一部には敵を狙撃するための「隠し道」が設けられていた。(2012.04.10追記)
  関連事項「徒然草独歩の写日記」参照。   

 関戸   隠し道         関門          大柵   大竹  
「岩国沿革志(小瀬口戦争私記)」 岩国徴古館蔵(「幕末の動乱と岩国」展から)

ここで少し横道にそれるが、この先、二軒屋、玖珂、高森等で民兵団に関することが登場するので少し補足してみる。

籌勝院の遊撃軍隊士の神霊

山口では第二次長州征伐・幕長戦争のことを四境の役(四境戦争)ということが多い。大島口・芸州口・石州口・小倉口の四方で開戦したからである。
芸防国境の守備に着いていた主力は岩国藩の士隊で、所定の陣地を離れて進撃することは禁じられていた。芸州口の戦いは、慶応二年(1886)六月十四日早朝、小瀬川の戦いから始まり、、八月上旬まで二か月間主として玖波、大野方面で激戦があったことは、芸州を旅してきた人々がその史蹟でよくご存知であろうと思う。小瀬川周辺での戦いで各所の砲台がどの程度の活躍をしたかは知らないが、開戦時、小瀬の
籌勝院に本陣を進め芸州深く侵入して戦ったのは、長州の遊撃隊(高森通化寺に本営:遊激軍ともいう)と付属の維新団が主力でこれに岩国藩の民兵団が援助している。曹洞宗喜本山籌勝院(ちゅうしょういん)は、吉川藩家老香川氏の菩提寺で初代家老香川春継開基の墓も同所にある。


     
・大島口 6/7  ・芸州口 6/14  ・石州口 6/16  ・小倉口 6/17(注:小倉口の戦いは小倉戦争と呼ばれることが多い。)


岩国の民兵団については、桂 芳樹氏執筆の「岩国の歴史散歩」に、「戢翼団(オサメル・しゅうよくだん)神社浪人の混成団(100人)藩兵に先立って和木村に進駐し、小瀬川の緒戦に輝かしい戦功を立てた。武揚団:大畠・日積の農兵団(50人)玖波・大野に出撃して活躍。敢従団:城下近辺の農兵団(73人)開戦後、大野を攻撃。電撃団:真宗僧侶で編成した砲兵団(40人)士隊に従って和木村を守った。・賈勇団(アキナウ・こゆうだん?):城下町の町人の兵団(50人)町奉行の指揮下に町内の警備。神機団:城下近辺の農商の兵団(100人)地雷火を敷設する特殊部隊。芸州出陣はなかったらしい。義勇団:和木村農民の村境自衛の一団(100人)。八月に神鋭団とともに大高良山へ進駐。北門団:坂上撫育方管下の農兵団(275人)浅原口より出撃の長州兵団を援助し、しばしば幕軍側面を攻撃。輯光団(しゅうこうだん)城下近辺の農兵団(260人)多田に駐屯。神鋭団:河内地区の農兵団(225人)八月に芸州に進駐。就義団:玖珂組代官管下の農兵団(617人)予備兵団として訓練待機。忠果団:由宇組代官管下の農兵団(481人)予備兵団。勁武団:柳井町奉行兼代官管下の農商兵団(245人)予備兵団。」とある。まさに必死の体制である。(遊撃軍・維新団詳細については高森通化寺の項参照。)


さて、脇街道はこれぐらいにして往還に戻って、古老藤本氏は、わざわざ
小瀬関門跡まで旧道の案内をしてくださった。それによると、昭和四、五年頃に小瀬側と関戸側で「救済道路工事」(正式名は不明)が計画され、小瀬側では嘉屋氏の茶屋を過ぎた辺りから東側山を削り拡幅、関門跡を過ぎた付近からヘアピンカーブを新設し、現在の旧道との合流点まで新道付替えを(地図上で約500m)、関戸側では小瀬側の工事完成後、間もなくして現在の合流点から同じく峠方向へ約200m、新道付替え工事が行われた。二年ほどで工事は完成し、ほぼ現在の道の元形態が出来たそうである。救済工事のため工事従事者は小瀬・関戸村の村民に限られ、他地区のものは従事できなかったそうだ。小瀬村は平地に乏しく岩国藩の政策により製紙業が盛んで藩は潤ったのであるが、店口(みせぐち)地区についていえば、現代になっても田を持った農家は一件のみで、他は全ての家が大なり小なり紙の製造を生業とするだけの寒村であったらしい。

米山団地受水槽付近

小瀬から米山団地にかけての旧道は、東側の山の斜面を削り、その残土で高上げ拡幅されている。当時はツルハシ一丁の人力で工事は大変だったようである。山の斜面を削る際、転落死亡事故が一件発生し、戸板に乗せられて運ばれるのを見たそうだ。拡幅前の旧道は新道の法面の端、俗称「店口の水」(藤本氏談))に沿っていて平坦になっているので容易に視認できる。水沿いの杉の生え際が当時の道のレベルを物語るそうだ。
米山団地入口を過ぎて、
団地用受水糟(正確には受水池・ち・)のある受水場(受水池)敷地横の店口の水に注ぐ渓流南側に切り石4本程度の石橋が直角に架かっていたが今はない。水幅は現在の半分程度だったそうである。石橋を渡ってから再び急角度でカーブし、(廃)養豚舎裏(関門跡)付近を真っ直ぐに谷筋の西側を小瀬峠へ向けて上っていたが、救済工事で作られたヘアピンカーブ新道が横断している。L型カーブ二箇所の説明は、「慶応の岩国領内全図」とも合致している。幕末期の危機的状況のなか、元冶元年八月小瀬関門設置のときL型カーブになったのではないかと推察するのだが...。

小瀬関門跡廃養豚舎の後方付近) (廃)養豚舎背後の旧道筋

旧道はヘアピンカーブ手前の「歴史の道 山陽道跡」と書かれた白色の木製標柱を左折し、閑静な山道を約200m登ると本道(街道)に合流する。この道は土地所有者が利用するだけの道のためか当時の往還の雰囲気を味わえる唯一の箇所である。途中で出会った所有者の話では、本道に合流する箇所は伐採状況によっては通行できない時もあるそうだ。合流点にはガードレールに切れ目がある。
小瀬峠側から逆に下ってきた場合は、峠から約500m下ると左山手に車離合場所があって広くなっているので判断できそうだ。この車離合場は小瀬峠からみて二つ目の離合場になる。ゴミ不法投棄禁止の看板が傍らにある。ここから山手方向は浴状になって少し先に砂防壁がみえる。この広場(浴)は「岩国領内全図」に「柿木乃浴」とある場所と思われる。旧道入口のガードレールの切れ目はここから約20m小瀬方面に下ったところにある。

ガードレール切れ目の旧道合流点には平成24年3月「岩国地旅の会」によって標識杭が設置された。これで、西国の旅人が迷うことはないだろう。(2012.05.17追記)

ヘアピンカーブ手前の旧道入口 新道のガードの切れ目が見えてくる
小瀬峠側からみた離合場と
20m先のガード切れ目(旧道合流点)
 ガードレール切れ目に新設された標識
2012.05.17撮影

小瀬峠と「山陽道跡」標柱

小瀬峠(145m)は小瀬から約1.3km。小瀬~関戸のほぼ中間点に当たる。峠の約10m手前、右側に二つ目の「歴史の道山陽道跡」標柱がある。標柱の手前から斜めに上がる脇道があるが、これは一山越えた上迫方面への山道で、「百街道一歩」さんが暗闇と冷たい雨の中、迷走された道である。初めて当地を訪れる旧道にこだわる方々が迷うのも当然だと私には思える。脇道に入って途中から左(西)へ向けて道筋らしいものがあるが途中から雑草や中小の雑木・竹が繁茂していて道筋は確認できない。旧道かどうかも不明である。関戸側からの間道とも思われる。
頂上付近に堀割のコンクリート擁壁があるとはいえ、何故この位置に建てられているのかと思ったが、標柱から峠の頂上の間は地図で見る限り和木町区域になっているためではなかろうか? この白色塗装の標柱は岩国市教育委員会によって建てられている。前述藤本氏の話では、この分かれ道の直ぐ手前に
小さく粗末な藁葺の茶屋があったそうだ。頂上付近は当時のコースのままで拡幅され擁壁付近から掘割(切通し)になったそうで、3、4m程度低くなっている。


(追記)平成二十八年の遊撃軍四境戦争百五十周年記念事業(仮称:於通化寺)協力のため芸州側を踏破調査し、元大竹市文化財審議会委員長・長門彰男氏宅を訪問した際の話では、昔の小瀬峠頂上部は現在の擁壁頂上部よりも高く、従って7m前後堀下げているそうである。峠の左側(東側:関ケ浜側)の杉林に平地があり御駕籠立場があった。杉林は今は無く、竹林に変わっている。岩国に向う途中、御駕籠立場跡でくつろぐ全員着物姿の家族写真を見せてもらった。高齢の長門氏(旧姓岩田氏)は小瀬村店口の出身で、四境戦(芸州口の戦い)の際、小瀬川を挟んで和木村に対向する「大竹口」の戦場となった旧大竹村沖新開(三軒家)に住む。遊撃軍は苦の坂口の越後高田軍を攻める一方、中津原から石州街道を下り大竹村沖新開に進み、由見・立戸の山間部に銃隊散開遊撃し、大竹口に布陣する彦根軍を攻撃する。鎧冑に槍・刀が主装備の彦根・高田軍は総崩れ、家屋に火を放ちながら小方・玖波の港や大野四十八坂を越え、広島・海田市(高田軍本陣)まで逃走する。このため大竹村沖新開地区の家屋類は全焼し、蔵が三軒焼け残ったことから三軒家と呼ばれた。大竹村沖新開(おきしんがい)は現在の大竹市南栄1~2丁目・新町2~3丁目に該当する。また、高齢の長門氏は店口の古老藤本氏と親戚の方で、道理で声質と顔がよく似ていると思った。まるで同一人と話しているようだ。前述藤本氏は最近逝去されている。今回大竹以外の玖波・松ケ原・大野でも素晴らしい出会いがあり、どうしてこんな出会いがあるのか不思議に思う。小瀬峠頂部が小瀬・関戸・関ケ浜(和木町)の三村区界に複雑に入り組んでいるのは小瀬峠が山陽道の岩国へと続く重要な峠で、三村に峠道普請を担当させるためであったそうである。これは今回の出会いで一番の収穫。(本項、H27年・2015.09.14追記)


小瀬峠頂上の「歴史の道山陽道跡」標柱は、岩国徴古館M学芸員が建立したことが後になって判明したが、頂上のコンクリート擁壁を避けただけで、別に意味があるわけではないそうだ。上迫方面脇道へ入り込まないよう注意

平成24年3月小瀬峠頂上の上迫方面山道の一部が「岩国地旅の会」メンバーによって旧道として整備された。本件は、ヘアピンカーブ方面のガードレール切れ目に新設された案内標識杭設置の件で、「岩国地旅の会」会長、杉山さんに連絡を取ったところ判明したものである。ただ、この小瀬峠頂上部旧道については、当サイトでは現在の掘割切通しルートを往還筋と判断している(詳細後述)。
小瀬峠の「山陽道跡」標柱から、上迫方面山道に入ると約30m先に簡易標識杭があるので、ここを鋭角左折すれば、約20m先が峠の頂上。頂上を過ぎて上迫への山道二又を標識杭に従って直進して下れば、本道の沢に堰堤橋を架けて右から左に急カーブする大曲り(火打岩ノ浴)の手前で合流する。合流地点にも標識杭が設置されている。ルート図詳細は次の「小瀬峠~関戸の旧道略図」参照。 (本項2012.05.27現地確認追記)

(脇道へ入って50m先標識を左折) (頂上付近二又を直進し下る。)
右は上迫への山道。左側に標識
(本道の大曲り堰堤橋手前で合流。)
合流点に標識(関戸側から撮影

「追記」 :今回、「岩国地旅の会」によって旧道として整備された小瀬峠頂部山道については、略図に注意書きしたとおり、「関戸村図」(享保増補村記附図)の白描及び着色図「慶応の岩国領内全図」及び前述藤本氏の話によって、現在の掘割り切り通し峠越え道が江戸往還と判断し、踏査時一部確認できた山道は上迫への間道で、峠を挟んだ両村からの入会い道と判断した経緯がある。
参考に「慶応の岩国領内全図」の往還筋について掲載許可を得ているので本項に掲載しておく。「関戸村図(享保増補村記附図)」も類似の地形図である。また、小瀬関門の形態についても本図を参照されたい。(本項、上記と同時期追記)

小瀬垰から西へ延びる細い赤線は上迫への山道。これに一部重複する赤点線は小瀬、関戸村境界線。小瀬垰部分は関ケ浜村(和木町)の境界赤点線内になっているが、この村界線は現在の和木町(関ケ浜)・岩国市(小瀬・関戸)境界線と合致。
峠頂上部の現状掘割切通しは、「岩国領内全図」往還道に対し、ほぼ中心線を維持したまま両側に直線状に拡幅されたと判断。これは現状道と岩国市(小瀬・関戸)・和木町(関ケ浜)行政区界の関係からも納得できる。「岩国領全図」も同様に峠頂上付近の三村区境が複雑に入り組んでいる。

現状の上迫方面山道は峠の手前から斜めに向っているが、藤本氏の話ではこの付近に藁葺茶屋(店)があり、掘割のため本道が極端に低くなり、山道分岐点が急勾配となったため、手前から斜め状になったと推察。岩国市教育委員会の「歴史の道 山陽道跡」標柱(平成十年十一月)は擁壁を避け、斜め状になった山道の際に立っている。
また、峠頂上部にも道松(往還松
が整然と植えられているではないか
小瀬峠頂上部略図(2012.06.09追記) 東側擁壁部分から拡幅掘割(切通し)になったと推定。
小瀬峠頂上部擁壁区間平面図は全て実測作成



関戸峠とう谷狼煙場(岩国領)は、小瀬峠の直ぐ東側の山にあった。正しくは「小瀬峠とう谷」である。この位置は小瀬(店口)と関ケ浜集落の中間に小瀬川に注ぐ谷があり、「岩国領内全図」に「遠谷口」とあるが、谷の源流部小瀬峠の直ぐ東の山が「とう谷山」である。2005年開通の県道一号線「関々新道」は、この谷に沿って走っている。この「関々新道」開通に伴い、旧山陽道は県道から市道となった。

大曲りを過ぎた付近の孟宗竹の藪

小瀬峠の頂上が拡幅掘割(切通し)になった時期は、記憶に定かではないが昭和四十年前後で、それまでの峠越え付近はかなりの急勾配で、ここから関戸へ向けて沢沿いの旧道を岩国錦見の高等小学校に通っていたF氏は毎日大変だったそうだ。大正九年生まれの藤本氏が高小を卒業されたのは昭和九年だそうだ。峠を過ぎて大曲りから関戸側の救済工事取り付きまでの拡幅された旧道を含む新道は戦前には出来ていたが時期は記憶に定かでないとのことであった。(小瀬地区の商業圏は和木・大竹市方面で、通行する人は少ない。藤本氏は広島県大野で会社を経営。)

峠を過ぎて直ぐに、
沢に堰堤橋を架けて右から左に急カーブする大曲り(岩国領内全図に「火打岩ノ浴」とある)があるが、旧道はこの大曲りを過ぎて右へ大きく曲がりきる少し手前から谷沿いを沢に沿って関戸へ直線状に下っていた。

(私事になるが、この道を知ったのが昭和四十六年頃だったと思う。広島に在勤中、岩国、山口・下関方面への車出張は海岸沿いの広島・岩国間国道二号線大渋滞のためよく利用したが、峠頂上の左側掘割擁壁が完成して間のない感じで、今は色あせ苔むしているが白色の化粧したようなコンクリート角柱をボルトで交互に組み合わせていて、当時としては珍しく豪華で、さすが山口の県道はすごいと思った記憶がある。この先の孟宗竹の藪が両側にある箇所は対向車のいないことを祈りながら通行したものだ。当時の市販道路地図にはこの付近に
×があり、大雨による路肩崩壊で交通止めになることが多く、小瀬の入口まで来ていながら通行止め看板を見てUターンしたことを数回経験している。これぞまさしく往還だ。)

ここから太字で説明している箇所は関戸側旧道探査に関係しているので注意しながら歩いてください。このうち「石灰工場跡」は関戸側から旧道探査した後判明したのですが、記述が複雑になるので一括して記載しています。

石灰工場跡の赤い鉄柵と二つ目の沢渡り

大曲り(火打岩ノ浴)を過ぎると両側に孟宗竹が林立する美しい景色が続く。「調査報告書」の区間執筆者で「岩国市史」編纂委員でもあった大岡 昇氏は、地元新聞への寄稿「山陽道」(1~10回)のなかで「峠を下って左手には旧道の一部分が見られる。それはまさに鬼道である。」と述べておられる。峠と関戸の中間付近まで下るとを渡りながら大きく左に曲がる箇所がある。この沢は峠から数えて二つ目の沢になる。関戸側からの旧道踏査で分かったことだが、この沢渡りの左手(谷側)、小瀬側に雑木・雑草に覆われた小さな平地があるが、ここは石灰工場跡で、近くの山で採った石灰石を焼いて粉にしていたところである。
工場跡の道路わきには赤色塗装の鉄柵があり、沢側と谷側は石垣
になっている。この辺りから谷方向の竹藪が杉林に変わるが、この杉林を過ぎた辺りから再び竹薮になる。気を付けて竹藪の下を覗き込むと旧道らしき細い道筋が所々に散見される。さらに下ると、左手谷側に広い車離合場があり、目の前が開けて岩国城のある御城山が遠望できるようになる。この離合場路肩に近接して古びた小さなトタン小屋の屋根が左下に見える。さらに下ると関戸の取り付きに三つ目の「山陽道跡」標柱が左手に見えてくる。標柱の左手に舗装された小道が合流しているが、ここが関戸側の旧道との合流点だ。

ここから逆に折り返し、旧道をたどり小瀬峠を目指すことにした。

石灰工場跡沢側の石垣と沢の下 車離合場とトタン屋根(左下) 関戸側旧道合流点と標柱。正面は城山
            

関戸側旧道から小瀬峠へ
 

関戸側旧道を小瀬峠へ向かう(200m付近

関戸側の「歴史の道山陽道跡」標柱から舗装された旧道を新道に沿って約100m北上し、関戸墓地への道を横断したところから舗装が途切れ、雑草荒地の道筋を進むようになる。この付近の勾配は比較的緩やかで直線的に峠に向かっている。100mほど進むと左手上方に新道の黄色ガードレールが直ぐ横に見えてきた。距離はあまりない。直ぐ真上横だ。新道法面の直ぐ下を進む。関戸側の「救済工事」はこの辺りまでだったのだろう。(注:この雑草荒地は伐採状況によっては羊歯や蔓等が群生し、足元が見えないことがあるので注意。)この付近から道は荒地から竹薮に変わる。何故か新しい犬の糞(野良犬?猪?)が多い。「猪罠注意」の表示は見当たらないが、足元と周囲に気をつけながら竹薮を進む。竹藪を100m進むと二又があるが、古老に言われたとおり、極力沢に近い竹薮道筋を進む。新道のガードレールが左山側方向に見え隠れするが、進むにつれて新道との間隔が離れていく感じだ。新道路肩と道筋の間には高さ約1~1.5m位いの石垣が所々見える。この石垣は所によっては一、ニ段ある(古老藤本氏によると、この石垣のある箇所は全て桑畑だったそうだ。)。やがて枯れた倒竹や放置された伐採竹が多くなり道を阻むが、道筋は判断できるので、さらに進むと左上方にトタン小屋が見えてくる。やがて竹やぶは杉林に変わるが、林の中は薄暗く、所々で苔むした倒木が行く手を阻むが、木立の間を縫うように道筋を進むと落石が所々に散見されるようになった。

   
竹藪の中は暗い トタン小屋が左上に見える 竹藪から杉林へ・非常に暗い
   

道筋らしきものは判断できるので、しばらく進むと小さな沢にぶつかった。ここは谷底なのか非常に暗い。「ちょろ、ちょろ」と沢水の音が左手山方向から聞こえてくる。沢水の音に混じって犬のほえ声が遠くに聞こえてくる。暗闇に目を慣らしてから目を凝らして見ると沢は細く、水も少ないため飛び石伝いに渡ることは可能だが、前方約5m先に高い石垣があり、その右後方にさらにもう一段石垣が見えて、行く手を阻んでいる。その右斜め前方遠くに砂防堰堤が見える。この堰堤の左側付近が沢と並行する孟宗竹が両側にある道筋と思われるが雑木に加え、蔓や背の高い雑草で覆われ道筋らしいものは確認できない。これから先はまさしく鬼道だ。これをやみくもに進んでも踏破の価値はない。ここでUターンすることにした。竹やぶ入口からここまでの踏破区間は約400m。勾配は緩やかであった。(ここで写真を10数枚撮ったが、フラッシュをたけばお先真っ暗、露光不足や手ブレで使える写真は一枚もなかった。三脚が必要だ。晴天の午前中にもかかわらず、それほど暗かったということ。)

後で新道からこの場所を特定するためにさらに詳しく周囲を見ると、左上方向に、暗くて黄色は判別出来ないが杉の葉の間に苔むしたガードレールらしきものが見える。ここから直線距離で約12、3m。高さ10m程度だ。「左45度上方。距離13米に新道らしきもの発見!」。沢水の音はこの辺りから聞こえてくるようだ。道路方向に少し登って見上げるとガードレールの少し下に大きく丸いパイプがあり、ここから沢水が落ちる音が聞こえているようだ。どうやら新道の沢渡り部分は堰堤橋になっているらしい。ここから無理をして新道へ上がろうとしたが急勾配と足元が湿っていて滑りやすく、杉の木立の間隔が広すぎて木を掴むことができない。おまけに不法投棄のゴミがやたらと多い。万一、滑って「デジ一」が汚れでもしたら嫌だ。
やむなくトタン小屋まで引き返すことにしたが、途中道に迷ったらしく、石垣の上に入ってしまって道筋が途絶え、もう一度元へ戻らなければならなかった。100m程戻るとトタン小屋が右上方に見えたので、道なき斜面を足を滑らしながら斜めに登り、トタン小屋にたどり着くことができた。この場所は新道から2m弱低いので車離合場へ上がることができない。15m程南に離合場へ上がる兎道を見つけることができた。ここにも犬の糞らしきものがある。   

新道に出てから、沢水のある箇所と石垣のあった場所を確認するため小瀬峠方向に進むと、運よく沢渡りのカーブに軽四トラックが駐車していて、運転席には老人が見える。発進しようとしているのであわてて呼び止め、行き止まりとなった石垣のある場所は昔、付近の山で採れる石灰石を焼いて粉にしていた場所であったと、教えていただいた。耳を澄ますと同じ沢水の音がする。行き止まりの箇所は間違いなくこの下だ。話し込んでいる最中も犬のほえ声が時々沢の山手方向から聞こえやかましい。(当方)「あの犬の鳴き声は何ですか?」(先方)「ありゃあ、猪狩りの猟犬がほえちょる。11月から3月まで、この辺をうろちょろしとったら猪と間違えられるぜぇ。猪の糞はもう少し丸っこい」。竹やぶで見た糞は猟犬の糞だったのだ。獣道と鬼道の探査はここで終了することにした。(ここでガードを三脚替わりに沢下と石垣を撮った写真が、「石灰工場跡の石垣と沢下」と題したものです。F:3.5/S:0.67・ISO600なので実際はもっと暗い。)

この後、小瀬店口の藤本氏は探索後行った数回にわたる聞き取りや作成資料の検証、さらには車で小瀬峠の頂上まで同行願ったり、全てに快く応じてくださった。旧道筋に並行する山側の一、二段ある石垣上の竹や杉が群生している荒地は全て桑畑だったそうだ。彼との出会いがなかったら旧道探索は中途半端に終わっていただろう。

小瀬峠から関戸方向への旧道歩きのポイントは、
沢下りを強行してもよいが、これは危険。トタン小屋の真上にある「車離合広場」付近から下るのが無難で推奨コース。
兎道を5、6m下り、ここから斜面を小瀬峠方向に戻る感じで北東方向に斜めに下りながら道筋を見つける。
間違えて、石垣の上(桑畑跡の荒地)を歩かない。
猟犬の糞に気をつける。 以上の4点がポイントだ。

 この旧道筋は「岩国地旅の会」によって平成24年3月整備、開通した。
(今回標識杭を設置されたトタン小屋に近いルートは猪狩り等生活道に使われ、徒然草独歩が踏破した古老F氏が通学に利用した沢筋に近いルートは、通行に使われる頻度は少ない感じで荒れている。杉林を石灰工場跡手前の沢まで通行可能であるが、ここから新道へあがることは出来ない。) 

トタン小屋屋根を谷側下に見る車離合場(広場)の少し峠寄りから標識杭に従って法面を下り、竹薮を関戸方向へ20M進むとトタン小屋の真下。さらにここから40M進むと沢にコンクリートが架かっている。この先の二又の左側(谷側)竹薮を標識杭に従って約150M進めば、関戸側からの二又分岐点に合流する。ここにも標識を孟宗竹に打ち付けてある。(関戸側から進入した場合は、この二又分岐点左山側の竹薮を進むことになる。谷側のルートは前回踏破したルート。)この二又点をさらに進み竹薮を抜けると前方左に「関々新道」の高架橋が見えてくる。この付近は新道の直ぐ真下付近で、この先、雑草荒地の道筋を進み、「関戸墓地」への道を横断すれば、舗装された旧道に合流する。雑草荒地の区間は、夏場の伐採状況によっては蔓が群生し、道筋が見えないため歩行困難な時期があるかもしれない。この場合は竹薮が切れた付近の旧道筋に直近する右上の新道法面をよじ登ればいいだろう。ただ、下から見て分かるとおり、新道のガードレールは跨がざるを得ない。(この場合、関戸側から東行する旅人は、新道から竹薮の端部を確認したところからガードレールを跨いで法面を旧道筋へ降りる。雑草区間を除き、竹薮の中の道筋は常時確認できる。)この雑草荒地で蔓等が群生して足元が見えないときは、新道へよじ登った方がいい。短距離平地とはいえ、万一足を挫くと後の行程がご破算になるからだ。各ポイントには標識杭が設置されている。
「岩国地旅の会」によって、新たに整備開通した旧道については、「小瀬峠~関戸の旧道」略図に追加掲載したので参考にされたい。

(本項2012.05.27追記)

離合広場手前の標識から降りる 10m下った箇所にも標識 20m竹藪を進むと右上にトタン小屋 小屋から40m先の橋(沢)を渡る
橋(沢)から10m先の二又を左へ 約150m先で二又分岐点に合流(関戸側から峠方向をみる)
・谷側のルート(緑線)は前回踏破した杉林沢へのルート
竹薮を抜けると前方左に関々新道
・右上に新道のガードレール

<小瀬関係・後書き>
「調査報告書」添付1/25000地図の岩国山西麓へプロットされている
関ケ浜口は、文中に説明がないので意味不明である。関ケ浜から大内迫への山越え古道を意味しているものと思われる。前述、大岡昇氏は「小瀬から山越えで関戸に行く道は近世になって出来たものらしく、古い時代には関ケ浜(ここまで入海し、船から税をとっていた)から大内迫に向かう旧道がおそらく利用されたのではないかと思われる。小方-苦ノ坂-中津原-小瀬川-関ケ浜大内迫-関戸-多田-という山陽道の工程がとられたことは疑う余地がない。」と述べておられる。機会があれば、この古道にも挑戦したいものだ。
       



関戸宿は古代「大宝令」により、駅家が置かれていたところで、当時の山陽道は畿内から大宰府に至る唯一の最重要幹線・大路(おおじ)であったので各駅の駅馬は二十疋であった。播磨国明石駅から長門国臨門駅まで、四十六の駅があったが、周防国内には九駅、石国(関戸)・野口・周防(小周防・又は呼坂)・生屋(生野屋)・平野・勝間・大前・八千・賀宝の各駅家があった。関戸は室町時代私設の関があったことからこの名が付いた。

市頭にあった俗称、背戸川左岸の
芝居固屋跡は、2005年11月開通の「関々新道」(県道1号線)の関係もあり確認できなかった。当初、こんなところに芝居固屋が?と思ったが、この地に削封された吉川氏の錦見城下町の経営において、安芸境小瀬より下関に通じる往還筋を直接城下に導くことをせず、商業地区は各々元地から商人を移住させた柳井町、玖珂町等町政地区に限定され(注)、厳しい統制のもと、このような地に芝居固屋があったことは当然うなづける。

(注)岩国町奉行支配下:玖珂町・柳井町・米屋町・塩町・材木町・魚町・豆腐町(のち登富町)の錦見七町。のち新小路・川西等含め十二町。他に柳井町奉行支配下の柳井津の各町(柳井市)があり、この二町以外の商業は禁じられた。


後述本陣跡の手前(峠方向)40m東側に脇本陣(東家:ひがしや)があったが、現在は更地となってブロック塀とトタン塀で囲われている。敷地は結構広い。ここは幕命東送となった吉田松陰を乗せた護送駕籠が安政六年五月二十八日昼休みをとったところ。東家「安政六年御通行方萬控・東御本陣」によると萩より騎馬五人、家来三三人他、物々しい一団であった。ここは岩国領東端、即ち防長東端辺境の宿。この後、いよいよ小瀬の国境へ。八年前には希望に胸を膨らませ、城山山麓を囲む竹林と御庄川、錦川の美しい水態に感動して長詩をものした関戸越えである。護送駕籠が地を離れたとき、心境はいかばかりであったろうか。涙を禁じえない。

訂正:ここは当初、重富脇本陣と記載していましたが、東家脇本陣と訂正します。重富氏は後の入居。(2014.02.01訂正)



関戸の村尾本陣跡は土塀の一部を残すのみであるが、客(まろうど)神社参道を挟んで吉田松陰先生東遊記念碑がある。昭和四十二年三月に関戸の有志により建てられた。嘉永四年三月九日江戸遊学の途中、同行の中谷松三郎と藩主行列に先じて暁を破って高森を発し、九時ごろ関戸に到着、食事をとり、関戸越えにあたり詠んだ長詩の最初の四句が碑陰に刻まれている。このとき、松陰二二歳。

松陰先生東遊記念碑と本陣跡土塀

奔流滔々扼巨川

 奔(ほん)流滔(とう)々として巨川を扼(やく)し
畳山複嶺高衝天  畳山複嶺(じょうざんふくれい)高く天を衝く
美哉山河是国宝  美なる哉山河是国の宝
何以守之親與賢  何を以って之を守らん親と賢を
(この國の宝を守るに仁政と賢聖の道が基本で、これ以外ない。)


松陰は、この美しい国の宝というべき国土を守るに宗家本藩と岩国藩が一致和合し、仁政と聖賢の道を行う以外にないと考えているのである。


ここに何故、「吉田松陰先生東遊記念碑」があるのか?
それはこの先、柱野西氏の思案橋付近で説明することにするが、それには「(まろうど)神社」に参詣し境内から御城山とそれを取り巻く景観を遠望しておいて欲しい。
「美哉山河是国宝」現在ではこの境内と御庄橋、思案橋、一ノ瀬付近からしか味わえない。


松陰先生東遊記念碑の傍らに「旧山陽道と関戸本陣跡」と題した説明看板があり、「安芸国遠管(おか・大竹市小方)の駅家を過ぎ、小瀬川を渡って周防国小瀬に入り、山道を越えて石国駅家に至る道であった。」とある。「小瀬峠」でなく「山道を越えて」の表現が何か意味ありげに思えるのだが...。

この付近から街道北方面を見れば、小瀬峠と
関戸峠とう谷狼煙場(岩国領)を遠望できる。

松陰東遊記念碑と旧山陽道案内板 客神社 小瀬峠と関戸峠とう谷狼煙場を遠望


本陣跡の斜め向かいに
関戸の庄屋屋敷(村尾家が往時の姿をとどめている。軒柱を支えるように屈曲した杭状の飾り柱が珍しい。庄屋屋敷の裏には但馬の山名氏支流村尾氏開祖の宗清寺がある。さらに進むと左手に立派な門構えの家がある。この家の奥さんの話では脇本陣として使われていたそうだ。屋敷の中は当時のままだそうだが、外装がアルミサッシ等で一部改装されている。白い塀は台風による冠水被害で新しく塗装換えしたそうだ。吹き付け新塗装材?のためか、コンクリート塀のような感じだが中身は当時のままの土だそうだ。関戸宿は本陣一、脇本陣二であった。

関戸の庄屋屋敷(村尾家) 牧野脇本陣

平成十七年(2005)九月の雨台風14号は、鹿児島東南海上付近で数日停滞し、九州地方縦断に4、5日かかりもっと長かったかもしれない)、九州東岸に甚大な水害をもたらしながら非常にゆっくりと北上し、高千穂鉄道が廃止の憂き目にあったことは記憶に新しい。当地においても、豪雨と錦川上流のダム(夏場の渇水が多い)放水により2004年3月「平成の架け替工事」で完成して間もない「錦帯橋」の第一橋の橋脚二つが流失し、錦川沿線各地に冠水等の被害をもたらした。特に上流南桑地区の被害が大きかった。翌朝のニュースでこのことを知り歯軋りしたものだ。以前にもダム放水による小規模な冠水があり、連日のTVや新聞を注視したが、被害状況と復旧のことばかり、二十一世紀、平成の世の水害原因と対策を報道し、ダム放水管理について問題提起しだしたのは十日以上も経ってからだったようにおもう。台風一過豪雨型の典型的な台風は一週間も前から災害を予告しながら近づいて来たというのに...。事前放水等の総合的な危機管理が出来なかったのかどうか。毎年の様に夏場の渇水期には工業用水の節水報道で賑わうダムなのだ。

この地においても庄屋屋敷北隣の旧商家の窓ガラスや玄関横の白壁に約1mの高さで水害の痕跡を確認できる。牧野脇本陣の辺りは土塀の屋根が冠水で見えなくなったそうだ。

市のはずれに
高札場があり、駄賃札ほか七枚の幕府の高札が掲示してあった。大岡 昇氏は「玖珂郡志」にある札数八枚は、「田畑・毒薬・切支丹・捨馬・忠孝・駄賃・伴天連・添札であるようだ。」と述べておられる。

ここで街道は国道二号線と合流するが
ここから街道は「岩国往来」(石州街道)と重なっている。即ち、左折すれば錦帯橋のある岩国城下、錦見(にしみ)、領府(藩府)のあった横山へ(早足25分)、右折すれば山陽道、多田村である。

お急ぎでない旅人はここから
錦果楼(にしきかろう)で御城山を間近に眺めながらお茶でも飲んで休憩し、錦帯橋を渡り、横山の吉香公園、岩国城、川西の宇野千代生家辺りを散策し、一泊されては如何?

客神社から見た関戸宿と御城山、右後方は御庄
(まろうど)神社(きゃく大明神)は、秋祭りに「奴道中」が奉納される。(毎年10月第3日曜日)
ここから、関戸の家並みと御城山を遠望できる。
御城山の麓、錦川右岸川敷には、藩が河川改修の都度、堤防防護のため奨励した孟宗竹が群生しているのが見られる。
西側御庄方向が途切れたように見えるが、これは錦川が城山にぶつかり大きく屈曲、迂回しているためである。群生域は錦帯橋付近の桜並木の先から御庄の渡り場付近まで約3km続き、さらに上流、杭名の錦橋付近まで続いている

                            
錦果楼 錦果楼から見た御城山