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四境の役150年記念
芸州口の戦い
小瀬川口~芸州大野・宮内
(吉田松陰の足跡と遊撃軍戦跡を訪ねて)

■総括広域図(松ケ原戦跡含む) ・四境の役要図
①小瀬・和木~芸州木野・大竹
②芸州苦の坂~小方間宿
③玖波宿~大野  ・別に③松ケ原含む3D広域図
④大野~宮内(一)
⑤大野~宮内(二)

■その他 「芸州口の戦い付属史料(適宜追加予定)

付1:遊撃隊殉難関係者一覧
付2:幕末・芸州口の戦い関連年表
付3:吉田松陰と道
付4:長州軍の地雷火について
:追記2017.11.12
付5:河瀬安四郎・眞孝(石川小五郎)と河瀬 眞
付6:河瀬安四郎・幕末維新の動向(年譜) :追記2023.09.10
  
 (東大歴史編纂所 河瀬眞孝データーベース、その他史料から作成)


     
(注)来嶋又兵衛創建の
遊撃軍は禁門の変に壊滅的打撃を受け、
一時期解散状態となるが
河瀬安四郎はこの再建に尽力。
   藩府は一部の小隊を分離・改編し
遊撃隊として正式に再建するが、
隊士の間や巷では
遊撃軍として好んで呼称される。

以下の掲載図等は、四境の役150年遊撃軍慰霊祭の際、「芸州口の戦い」展示パネルとして作成したものです。
注1:文中適宜、遊撃軍・遊撃隊と標記します。「遊撃軍」・「遊撃隊」標記については特にこだわっていません。
注2:A4またはA3エクセルシートを画像変換しているので特殊フォントは一部変形・解像度が落ちます。印刷は85%程度の縮小印刷が推奨。
注3:A4・A3判のため文中記事欄スペースに限りがあり、追加・追記事項等を欄外に補記する事があります。
注4:街道ルート案内は、原則上方(広島側)からの記載となります。津和野街道は宮内村明石(明石峠)以西の峠村・津田方面除く。
注5:参考文献等は総括図参照。

四境の役芸州口の戦い150年遊撃軍慰霊祭(通化寺)はここからリンク


「小瀬川口緒戦・幕軍使番竹原七郎平渡渉」ストーンアート記念碑(JR大竹駅前ロータリー)


大和橋から竹原七郎平渡渉地点を見る
瀬田八幡山(瀬田八幡宮・台場跡)から大和橋・大竹・小方を見る


(鍋倉山東麓間道は中世の頃からあった山道。顕徳寺付近から立戸へ向けては車の通行可能)
四番銃隊(指令士宮田半四郎)・七番(同 新坂小太郎)の二小隊は小瀬川沿いに間道を下り大竹口に向かい、
六番銃隊(八谷弥四郎)・維新団二小隊は大竹の山から油見の山へ散開しながら側面から幕軍を攻撃する。
一方、西国街道苦の坂口方面は、二番半隊は往還を進み苦の坂を、同半隊・三番隊・維新団二小隊・地光隊は
中津原山間部へよじ登り、尾根伝いに苦の坂峠、さらに立戸山へ進み、一番・五番銃隊(後藤深蔵)は
小瀬村小原から左翼防鹿側山間部を進み、三方向から苦の坂峠集結の高田軍を挟撃する。

出師檄(小方 厳神社蔵)
来野・大竹・小方・玖波に掲げる
出師檄読み下し文(厳神社蔵)



八坂・宮浜温泉二丁目付近から大野四十八坂・経小屋山を見る。       
経小屋山八合目付近から大野瀬戸・四十八坂を見る。


③松ケ原含む3D広域図

「河瀬眞孝維新前履歴書」 (八月二日の幕軍総攻撃について)
其後(*小瀬川口勝利後)敵軍大野ニ屯シ攻争数度ニ及フト雖勝敗更ニ見ル可キモノナカリシカ其然ル所以ノモノハ小潟以東ノ地ハ総シテ我軍ノ左翼ニ迫リ高山連峰崖阪地ヲナシ右翼海ニ接シテ海山ノ間餘地ヲ存セス僅カニ岸上ノ一線路有スルノミナルニ敵は艦舩多數を有シ又海陸ニ新式施條砲ノ備ヘアリ之ニ反シテ我ニ一ノ艦舩ナク陸上僅ニフレンチボードナル銅製ノ小砲アルモ弾丸ノ飛揚五六丁ニ止マリ砲争ノナス可カラサルヲ以テ常ニ銃争突進ヲ主用シタレ共敵ノ砲艦我ヲ横撃シテ百事徒為ニ属セシメタレハナリ、詼戰爭中尤激烈ナリシハ八月二日之戰ニテ同日ハ開戰以来始メテ敵ノ進撃ヲ受ケタリシカ其ノ午前十時ノ候ヨリ敵軍四十八阪ヲ進軍シ来タリ我先鋒ノ玖波以東ニアル者ト戰ヲ交ヘ數時ノ後我兵退テ玖波駅ノ南ニ接スル髙臺ニ備エシ砲塁ニ依リ玖波駅ヲ隔テゝ防戰夜二入り午夜ノ候敵軍遂ニ能ク為スヿナキヲ以テ詼駅ヲ火シテ去レリ、此戰ヤ開戰以来ノ激争ニテ敵軍ハ紀州并ニ歩兵組、大垣彦根等我ニ数倍スルノ軍ヲ以テ突進シ其左翼ヨリハ砲艦三四隻ノ援撃スルアリテ殆我ニ施ス可キ策ナク幸ニシテ我砲塁ノ地形敵艦ノ砲撃ヲ遮断セシカ為メ僅カニ能ク敵人ヲシテ目的ヲ達スルヲ得サラシメタリ、詼戰爭數日前太田市之進其御楯隊ヲ率ヒ来リ援スルニ會セシカ折節御楯隊ハ大野ニ至ル間道ニ出軍シ玖波以北高山ヲ隔テ二里許ノ谿谷ニアル松ケ原村ニアリ遊撃隊ト気脉通シ易カラサリシニ敵軍ハ一隊ヲ分テ松ケ原ニ向ハシメ以テ自軍後背ノ備ニ當テ精ヲを尽シテ四十八阪ヲ進軍シ遂ニ玖波駅ヲ以テ両軍ノ争場トセシカ為我松ケ原ヘノ通路全ク断絶シ苦悶云フ可カラサルヲ致セシカ其翌三日市之進ノ軍ヲ舉ケテ歸リ来ルニ會シ始メテ其無事ナリシヲ知レリ、右耕戰後藩公ヨリ使者アリ安四郎ニ賞詞アリ次テ新刀一ト振りヲ受領セリ、   (*アト略・太田市之進は河瀬の盟友)                                                    






付1:遊撃隊殉難関係者一覧
        (元治元年京変戦関係者除く)

「防長維新関係者要覧」(田村哲雄 編)による。(一応、3回チェックしてます。)

                      遊撃隊殉難者要覧                 防長維新関係者要覧(田村哲夫 編)引用         
                             (元治元年京変戦関係者除く)                             2016.02:徒然草独歩
氏     名 場所 ○内訌戦  ●四境役  △鳥羽伏見  □戊辰  ●脱退騒動  *陣中病没  
1 相木岡四郎師純 伏見 高森農兵蔵兄 ・明治1.1.3伏見に戦死(25)
3 芥川五郎重義 芸州     熊毛郡大河内農和兵衛倅 ・明治1.閏4.25芸州出陣中に病死32)
4 安部作蔵 佐波郡串農安右衛門二男  ・明治3.4.18徳地に誅伐梟首(22) 
6 有田要輔利成 鳴川 遊撃隊伍長   ・豊浦郡神田農甚左衛門倅 ・慶応2.8.2芸州鳴川に戦死(45)
6 粟屋九朗泰信 (高森) 遊撃隊司令  八組士山介弟 ・慶應2.10・20高森に病死(22)
11 伊澄十郎 (高森) 肥後藩士・三番銃隊 ・慶應1.7.11病死          (注:高森に病死か)
12 市川十郎          ・明治3.5.6熊毛郡上関に誅伐梟首
14 井上勝之進 佐波郡串農与一郎三男  ・明治3.4.18徳地に誅伐梟首
15 井上三郎 徳地上村農虎之助二男竹之進  ・明治3.8.6三田尻に誅伐梟首(23)  
17 岩井友作 熊毛郡曾祢農清九郎倅       ・明治3.5.6上関に誅伐梟首(22)
17 岩佐三郎槌重敬 伏見      ・慶応1.7.21京都滞陣中に病死         
19 宇佐川熊蔵忠次 伏見 萩濁淵農   ・慶応1.1.3伏見に戦死(20) 
20 宇山卯作守貞 大野      美祢郡長田農文治三男   ・慶応2.6.19芸州大野に戦死(24)  
22 蓬島一介(おおしま) 書記補  ・宮市町人堀江孫八倅七之助 ・明治3.3.18萩大谷刑場斬首(27) 
25 岡 道助真政 柱野 地光隊  ・慶応2.6.1玖珂郡柱島に地雷火破裂し焼死(18)    (注:柱野)
27 岡本松右衛門義富 大野 .伍長 ・大島郡小松農富松二男   ・慶応2.6.25芸州大野に戦死(25)  
27 小崎禎補至義(尾崎) 柱野 地光隊長  ・長崎人 ・慶応2.6.1玖珂郡柱野に事故死(39)
29 香川 糺(僧 巌城) 響導  ・厚狭郡妻崎西方寺弟子  ・明治3.3.18萩大谷刑場に斬首(27) 
30 片山折蔵 奥州 人夫  ・熊毛郡呼坂農 ・明治1.12.25会津より帰国中一ノの谷に病死 
33 兼安松之助弘久 東京       熊毛郡呼坂農 ・明治1.11.19東京に病死
36 菊池十郎□則 大野     熊毛郡下久原農清一長男  ・慶応2.6.25芸州大野に戦死(18)
36 木田浅吉信高 大野     大島郡久賀農助次郎二男  ・慶応2.8.7芸州大野に戦死(24)
37 木下谷五郎知則 玖波     豊浦郡小月農橋本今蔵倅   ・慶応2.8.2芸州玖波に戦死(22)
喜助 柱野 地光隊小使 ・慶応2.6.1岩国柱野に地雷火破裂焼傷を受け高森病院護送中死  
義助 (大野) 大砲隊小使(籌勝院神霊碑刻)  ・下久原農    
39 国弘忠伍 斥候 ・八組士 ・慶応1.3  ・美祢郡大田戦後病死
40 蔵田十郎左衛門 芸州     長府人善右衛門弟  ・慶応3.7芸州口出陣後病死
41 桑原義之助政伸 砲隊司令 ・土佐楠島の人 ・慶応2.1山口病院に病死(25) 従五
42 河野知太郎友太郎 大砲隊 ・大津郡地吉地下医俊作二男 ・明治2.11.17俵山に誅伐梟首(22)
44 後藤深蔵正則或則正 伏見 参謀 土佐藩士、玖珂郡高森住   ・明治1.1.3伏見に戦死(26) 正五
45 小林真一郎一義 柱野 地光隊    ・慶応2.6.1玖珂郡柱野に地雷火破裂のため焼死(17)
45 小藤平蔵勝忠(小柴三郎兵衛) 高森 福岡藩卒平吉倅斥候 慶応1.5.12玖珂郡高森頓営中間諜の疑いを受け自殺(27)從五
48 佐久間佐輔佐助 玖波 銃隊補助長官 八組士  ・慶応2.9.28芸州玖波負傷後死
才吉 (大野) 遊撃隊付 維新団    (注:枩井神霊と同一人か)
49 佐田 誠 三田尻商人七右衛門倅  ・明治3.11.27脱退兵として斬首(22) 
54 新庄種吉 奥州 夫卒 ・熊毛郡宿井村農 ・明治1.9.15羽後仙北郡境村戦死
57 砂田佐吉 熊毛郡小国農    ・明治3.5.6熊毛郡上関に誅伐梟首(22)
57 角田又左衛門 大野 本陣小使 ・熊毛郡呼坂農 ・慶応2.6.25芸州四十八坂戦に敵に捕らえられ斬殺 
59 十川晋太郎 奥州 小隊長       ・明治1.10病死
60 高田熊四郎 玖珂郡中山農九兵衛倅 ・明治3.9.26柊長者原に誅伐梟首(31)
61 高本勝之進 大島郡久賀農三平三男  ・明治3 斬首(24)
63 田代三之進義孝政行 伏見 祢郡大嶺農清五郎三男  ・明治1.4.24伏見に負傷後山口病院に死(33)
65 田原寛助 芸州    萩浜崎町商人   ・慶応1.7芸州出陣後病死
65 玉田勝之進 佐波郡串農与一郎二男  ・明治3.4.18徳地に誅伐梟首(28)
66 田村常之助照 (小瀬)    佐波郡佐野農亀次郎倅 ・慶応2.9.18玖珂郡小瀬に病死(19)
69 徳永卯一郎 伏見 好義隊下関伊崎商人小倉屋勝三弟 ・慶応3.12山代粟生光明寺頓集中病死
71 永井平之進 書記  ・陸軍歩兵中佐  ・西南の役に戦死 従五
73 中谷国次 佐波郡串農忠五郎二男  ・明治3.4.18徳地に誅伐梟首
74 仲子守之助正俊盛之進 柱野 地光隊 ・慶応2.6.1玖珂郡*柱島に地雷火破裂のため焼死(18) (*注:柱野)
74 中村栄太郎 大野 大砲隊 ・萩安楽寺弟子常行の子 ・慶応2.8.25芸州芸州大野に火傷死
76 中村和輔或和介 吉敷郡氷上真光院臣 ・明治4.7.28萩大島に遠島中病死(23)
81 野村庄之進光次 大野     萩椿村青海清右衛門甥 ・慶応2.8.25芸州大野に戦死(26)
83 林十七五三(宮野政助) 本陣詰 ・吉敷郡宮野庄屋徳田亀太郎弟・明治3.8.2柊長者原に誅伐梟首(31)
85 原川金蔵保邦 伏見 美祢郡青景農政平兄 ・明治1.1.4山代伏見に戦死(20)
85 原田粂之進義固 伏見 佐波郡植松農 ・精兵隊響導  ・明治1.2.12山城伏見負傷後死(23)
86 平井豊之進  伏見 大和人      ・狙撃隊響導  ・明治1伏見に負傷後病死
(大野) 大砲隊小使
88 深水澄江(澄蔵) 佐波郡宮市西念寺弟子澄道  ・明治3.3.18萩大谷刑場に斬首
90 福原千代蔵 佐波郡串農謙吉二男      ・明治3.4.18徳地に誅伐梟首(21)
福松 (大野) 夫卒  ・室積農
90 藤井伊三郎正盛 (高森) 玖珂郡秋掛農    ・明治2.7.18玖珂郡高森陣営に病死(22)
91 藤井貞吉英勝 柱野 地光隊  ・慶応2.6.1岩国柱野に地雷火破裂焼傷を受け高森病院護送中死(23)  
91 藤井太一郎正義 大野 狙撃隊  ・佐波郡仁井令農武吉二男 ・慶応2.6.25芸州大野に戦死(29)
91 藤井忠吉道次 玖波 狙撃隊伍長  ・都濃郡末武中村農  ・芸州玖波負傷後死(22)
92 藤田村之進義冶 (高森) 玖珂郡久原農  ・明治2.5.10陣中に病死(26)  
久次郎 (大野) 遊撃隊夫卒か(ママ)   ・小周防村農
96 益田幾次郎義政 柱野 地光隊 ・慶応2.6.1岩国柱野に地雷火破裂のため焼死(30)          
97 松岡仙次郎      ・玖珂郡獺越農記二郎倅 ・明治3.4.24玖珂郡本郷に誅伐梟首
97 松田亀吉 大野 夫卒  ・熊毛郡室積農       ・慶応2.8.7芸州大野に戦死
99 松本勝三郎 毛利能登臣左右輔弟訥蔵      ・明治3.3.18萩大谷刑場に斬首(19)
99 松本近蔵 佐波郡串農良蔵倅          ・明治3.4.18徳地に誅伐梟首(22)
99 鞠生次郎(横田義太郎) 三田尻浜方農平吉弟         ・明治3.12.17三田尻浜方に誅伐梟首(26)
103 宮田半四郎師人(小川師人) 伏見 参謀兼隊長・久留米藩士 ・明治1.3.11伏見戦に負傷後三田尻病院に死(37) 正五
103 宮本多三郎則義 柱野 地光隊  ・玖珂郡柱野に地雷火破裂焼傷を受け高森護送中死(20) 
103 三吉八郎 三好 熊毛郡平生農新蔵倅   ・明治3.5.6熊毛郡上関に誅伐梟首(21)
104 村上清駒 吉敷郡氷上農清三郎倅 ・明治3.3.2柊長者原に誅伐梟首(25)
105 村田善助 熊毛郡平生農       ・明治3.5.6熊毛郡上関に誅伐梟首(24)
105 村橋栄蔵                 ・明治3.4.18佐波郡徳地に誅伐梟首(25)
105 村橋清十郎 芸州    御細工人半兵衛倅 ・明治2  ・芸州出陣後病死
106 毛利幾之進・親直(英国留学後、上野五郎) 遊激軍総督 ・陸軍幕僚参謀 ・明治10.5.18西南役、熊本県椿山戦死(26)
      慶応3年(1867)福原芳山、河瀬安四郎と共に藩命英国留学。明治5年帰国。明治7年(1874)病を理由に離籍上野五郎と改名。
108 森田榊之助 玖珂郡中山農 ・明治3脱退騒動の再挙を起こし誅伐さる(27)
108 森田忠助 玖珂郡本郷村農平八二男 ・明治3.4.24山代本郷引地峠に誅伐梟首
108 森永梅吉 大野 小使  ・熊毛郡宿井農  ・慶応2.10.6芸州大野に負傷後死
111 山下 翠貞政 伏見 熊毛郡河上農鹿之介兄  ・明治1.1.4山城伏見に戦死(22) 
113 山村清二郎 佐波郡串農         ・明治3.4.18佐波郡徳地に誅伐梟首(25)
114 山本栄吉 佐波郡串農弥吉二男   ・明治3.4.18佐波郡徳地に誅伐梟首(23) 
117 吉田四郎 佐波郡山畑農真之充倅  ・明治3.4.18佐波郡徳地に誅伐梟首 
120 和田百合熊 熊毛郡大野農常吉二男  ・明治3.5.6熊毛郡上関に誅伐梟首(21)
121 渡辺節三・拙蔵 響導 防府国分寺臣国本巌雄育 毛利筑前臣舟人 ・明治3.3.18萩大谷刑場に斬首(32)
総計89名内訳:○内訌戦:2名 ●四境役:34名 △鳥羽伏見:11名 □戊辰:6名 ●脱退騒動:33名 ・西南役:2名 ・他1名
注1:頁欄  は「防長維新関係者要覧」に記載がないが、「諸隊の雄遊激軍」(周東町教育委員会編)に記載のある者。
   これらは「喜助」を除き戦死場所未記載不詳のため、激戦地(大野)として掲載。
注2:地光隊小使喜助は両文献一覧に記載がないが、(廃)円月寺に神霊碑があることから柱野焼死地光隊士と同列記載。
   正面:「游撃軍地光隊小使喜助神靈」、陰面:「慶応二年丙寅爰六月朔於柱野驛」とある。
注3:小藤平蔵勝忠(小柴三郎兵衛)遊撃隊斥候受光寺頓駐のとき父(周東町史)の病君見舞いに帰郷、帰隊僅かに遅れ間諜の疑いで、
     東河原に処刑(切腹)。通化寺に墓。その他扱い。母の病気見舞いが正解(佐川貫一覚書・辞世)
 *参考:同45頁に弟の小藤四郎勝定(藤村六郎)は「 明治1.1.20幕史に捕えられ江戸斬首(26) 從五」 とあるが、
       筑前浪士小藤四郎(長府報国隊士)は高杉晋作の命で筑前姫島流刑の野村望東尼を藤 四郎らと救出。
       慶応3年12月~翌年1月の豊前日田事件(御許山騒動・花山院隊事件)により捕縛、馬関阿弥陀寺に斬首。
注4:土佐浪士新坂小太郎は、要覧に記載がないが脱退騒動で永牢舎。のちの推移不詳・未確認。一覧に未計上とした。
注5:元治元年京変戦関係者(氏名等省略 ・三家老勢及び浪士隊等除く :「諸隊の雄遊激軍」引用 )
   総督来嶋又兵衛政久以下68名戦死   
その他参考:円月寺向山の「藤原信良之墓」について
5 天野虎太郎 八組士舎人嫡子  干城隊  ・慶応2.3.20 訳あり萩亨徳寺に賜死
 注:天野虎太郎は長野・久田の給領主大組士天野嘉言と正室タキの嫡子信良。
 *円月寺向山の「藤原信良之墓」陰面墓誌:「元治三歳次丙寅三月二十日於萩死  同月晦日埋髪殯於此行年二十有三」 
 *奇兵隊日記(慶応二年正月17日):舎人庶子天野寅之助他二名(二名略)、御不審之趣有之、親兄弟へ御預ケ被仰付置候処、折柄令脱走、
                   今以行衛不相知就て、---(中略)---、万一潜伏等之様子相聞候節は、其趣早速政事堂へ届出候様被仰候事。
                   別紙之通、山口会議処より申来候事。                                       
 *天野正世(勢輔)は嘉言と側室トキの嫡子。 正世(勢輔)は信良より6才年上異母兄。 ・明治29.8.11病没(59)
      長府功山寺墓地に從五位勳五等天野正世墓と母トキの墓


付2:幕末・芸州口の戦い関連年表


付3: 吉田松陰と道(「芸州口の戦い展」付属資料)


付:4 長州軍の地雷火

    前半部分は、「長州藩における瓦爾発尼機地雷火等火術の導入と展開」(桑原邦彦「山口県地方史研究 VOl98」を引用。


付:5  河瀬安四郎・眞孝(石川小五郎)と河瀬 眞

注:河瀬眞孝の英国留学帰朝日について
    ・「維新前履歴書」:明治4年6月帰朝
    ・河瀬眞孝回顧談(松菊公逸話・妻木忠太著)
               :明治4年7月15日帰朝
                   上記内容を補足して木戸孝允日記16日の條を紹介、
                 「河瀬安四郎昨日英国より帰朝、今日来て終日相談話、昨年の新聞書二冊を余に贈れり」とある。
                  公の推薦に因って、是月23日工部少輔に任官。
                「維新前履歴書」と乖離大きく、長崎着、或いは山口経由、また横浜港直接帰着か不詳。
   

付6: 河瀬安四郎・幕末維新の動向(年譜)
備考: 維新史料綱要「河瀬眞孝」データーベース(東大歴史編纂所)    朝陽丸事件関係    ・(*)は山﨑注釈補記 
・「河瀬眞孝維新前履歴書」  ・「河瀬眞孝談話」(山口金太郎速記編)  ・「木戸松菊公逸話」(妻木忠太)一部引用補記 
*エクセルシートをそのまま張り付けしているので罫線等にに若干の齟齬有り

文久 3 4/21 幕府、攘夷期限を5/10と定め朝廷に奏上
4/26 萩藩士太田市之進「直方・後御堀耕助」・同石川小五郎「真孝・後安四郎・後河瀬」・同入江九一「弘毅」・同山県小輔「有朋・後狂輔」・同久坂玄瑞・同赤根武人・同山縣小輔・(*中略)・水戸浪士高橋熊太郎(*以下割愛)等攘夷の期迫るを以て、請うて京より山口に帰る。是日藩庁玄瑞等三十人を下関に派遣。   (*石川小五郎含む)
5/10~ 馬関攘夷戦緒戦 5/10米商船砲撃。6/1米艦報復に海軍壊滅。6/5仏艦二隻前田砲台一時占拠。
6/ 7 奇兵隊結成(高杉晋作・白石正一郎邸)
6/25 幕府詰問使下関入港・吉田稔麿主導奇兵隊朝陽丸拿捕。小倉藩士2名自害、深夜秘かに水葬。
7/28 幕吏中根一行、小郡へ向かい三原屋に宿泊・7/29小郡にて郡奉行刺賀佐兵衛に糾問書渡す。
8/16 世嗣定広、壇之浦、前田砲台巡見。教法寺事件晋作総督罷免。幕吏不在朝陽丸拿捕訓練続く
8/13世嗣定広、馬関に入る。8/16壇之浦、前田砲台巡見、奇兵隊幹部と面談激励酒を振舞。同夜、教法寺事件。8/19定広、吉田稔麿を伴い山口に向かう「奇兵隊日記」・同夜壮士、小郡駐在幕吏襲撃。
8/19 小郡駐在幕吏襲撃(三原屋)・8/22 同 中根市之亟殺害(中関西泊沖)奇兵隊壮士等4,5名
奇兵隊野村稔麿談:脱退之徒5人・修史家中原邦平講演:犯人4人 (*以下判明の実行犯及び「根拠」) ①石川小五郎(河瀬安四郎):八組(大組)撰鋒隊。「小郡町史(旧)」 「幽蘭略記」 「大湊君墓誌銘」     有馬幸次(彦七・彦二郎・大湊緩):八組(大組)当時奇兵隊・宍戸備前臣。「幽蘭略記」「大湊君墓誌銘」 京摂に亡命天誅組に参加敗れ帰藩。芸口開戦時遊撃隊客分として宮島に間諜偵察。脱退騒動に賜死。  藤村求馬(六郎)(小藤四郎):報国隊 筑前卒 御許山事件(花山院隊事件)に長藩捕縛処刑。遊撃隊斥候 小柴三郎兵衛(小藤平蔵勝忠)の弟。「小郡町史(旧)」「小倉藩攘夷記」                児玉百助:奇兵隊 京摂に亡命浪遊に名を没収し勘兵衛。送還野山獄に入獄後遠流。(のち許され遊撃隊か) 慶應元年5/12夜萩奥玉江出宿に高森在遊撃隊数名に暴動斬殺。・「野山獄中高杉晋作の百助賦詩」に「此日同獄児玉百助被處遠流、臨別賦小詩送之、百助嘗在奇兵隊中、斬幕府使官而亡命、其後浪游京摂間、有失士道之罪、困下獄云 元治元年四月十九日 在野山獄 (*晋作6/21まで在獄)」及び「小倉藩攘夷記」                                         藤村幾之進:奇兵隊「奇兵隊日記」・以後諸隊遍歴転々    ⑥田村省:(★不詳・無関係か)「小倉藩攘夷記」                                                    「中根市之亟物語」(石田恭一):①~⑤                                                      「中根市之亟暗殺一件」(岡﨑鎮生):①~⑤                                                                        
8/23 8.18政変の報、山口藩府に届く。
9/3吉田稔麿DB 萩藩主毛利慶親「大膳大夫」藩士吉田稔麿「秀実」を下関碇泊の幕府軍艦朝陽丸に遣し、幕府の使番中根一之丞「正聖」等遭難の顛末を弁明し、同艦の江戸回航を求む。尋で、稔麿を江戸に遣り、更に分疏せしむ。       「吉田稔麿データーベース」
9/4 吉田稔麿引率、奇兵隊主隊を朝陽丸で小郡へ転陣。朝陽丸小郡に解放、四国沖経由江戸へ向かう。
10/23 遊撃軍結成(総督木嶋又兵衛:宮市大専坊)・のち京変戦時石川小五郎副督(*石田恭一文献)
元治元 3/29 高杉晋作脱藩上京の罪に家禄没収野山獄収監(木嶋上京阻止に失敗)  ・6/21出獄座敷牢の命
7/19 禁門の変(京変戦)長藩敗北、遊撃軍蛤御門に壊滅。長藩朝敵となる。
8/1 第一次征長令勅許
8/5 四国艦隊17隻馬関攻撃  ・8/8馬関各砲台粉砕彦島占拠・長藩完敗  ・8/14第3回和議、締結
10/4 俗論派政権掌握(椋梨藤太)・益田親施・福原越後元僴・国司親相三家老切腹。正義派弾圧
10/25 石川小五郎、晋作と萩脱走を内談の処、晋作に先行萩を脱し山口に出莽  「河瀬談話」    ・10/25晋作、萩を脱し山口湯田に井上を見舞い、馬関経由筑前に尊攘派糾合不調、望東尼平尾山荘に潜伏。  のち五卿を警衛し小五郎ら諸隊、山口から長府転出。この頃御堀耕助(太田市之進)の御楯隊等に寄食。           「河瀬眞孝維新前履歴書」
12/15 功山寺挙兵・翌未明新地会所襲撃。河瀬安四郎遊撃軍残士60名が主力、伊藤好義隊4名他80名
河瀬、現状打破を帰馬関(長府)晋作に促す、返答「ム!」。晋作挙兵決し、不参加諸隊会議所(長府)へ決起の断りを河瀬に頼む。奇兵隊幹部ら黙礼するのみ。河瀬、遊撃軍残士(隊)を率い晋作の元へ。遊撃隊を先に、二番煎じ依頼した状況に盟友御堀耕助御楯隊と齟齬、決起に参加せず、後耕助と和解。晋作決起当日馬関在伊藤への決起連絡を依頼。馬関新地進軍は陸路。「河瀬談話」 (*河瀬、山口在から長府挙兵まで御楯隊等諸隊寄食。この頃河瀬安四郎に改名。     「維新前履歴書」)
12/16 払暁、萩藩士高杉和助、藩論を恢復せんと欲し、同藩遊撃隊総督石川小五郎「後河瀬安四郎」・力士隊総督伊藤俊輔等と共に、下関新地会所「萩藩支配」を襲うて之を占拠す。尋で和助、同志十余人(*河瀬含む14名)を率いて三田尻に至り、癸亥・丙辰の二藩船を奪ひ、下関に帰航す。  
慶応元 1/4 征長軍攻撃中止第一次長州征討終結          
1/ 7 内訌戦(大田絵堂の戦い)山縣奇兵隊等諸隊、絵堂の藩政府軍本陣奇襲
1/16 正義派内訌戦に勝利:高杉晋作・河瀬安四郎遊撃隊を主力に正義派諸隊赤村の戦いに勝利。
1/27 1/27付孝明天皇詣旨「・・・長門宰相ノ暴臣ノゴトキ、ソノ主ヲ愚弄シ、故モナク夷舶ヲ砲撃シ、幕吏ヲ暗殺シ、ヒソカニ実美(*三条卿)ラヲ本国ニ誘引ス、カクノ如キ狂暴ノ輩、必罰セズンバアルベカラズ」  長藩の非道、将軍・幕閣のみならず全国諸大名の知るところとなる。 
2/22 藩論武備恭順・倒幕路線・2/27藩主敬親恭順の萩から山口に移る。この頃高杉晋作諸隊の統理
*山口にて晋作多忙に付き河瀬に諸隊の統理を頼むが、河瀬、之を身分不相応と断る。        「河瀬眞孝維新前履歴書」             (*この頃遊撃隊吉敷駐屯。)
3/ 7 3/ 8     萩藩主毛利敬親、支藩主毛利元周・同毛利元純と共に諸隊会議所「湯田高田邸」に莅み、諸隊兵を召して慰諭す。明日、藩府、元政府員椋梨藤太「景治」・中川宇右衛門等十九人を老臣預と為し、藩士井上聞多「馨・本人並親類預」・石川小五郎「河瀬真孝・親類預」・山県狂介「有朋・同上」等の罪を釈す。
3月 3月頃から遊撃隊須々万から逐次高森駐屯。・5/27各隊一斉通化寺移駐(総督河瀬安四郎)
4/12 幕府、彦根藩以下に長州再征出兵を発令
4/26 木戸孝允但馬から下関に帰着。・5/14 山口に至り藩主敬親に謁し上方の情勢を報じ藩要路に。 「木戸孝允データーベース」
5/12 児玉勘兵衛(児玉百助)斬殺。12日夜萩奥玉江出宿に高森在遊撃隊数名に暴動斬殺。
児玉勘兵衛殺害:慶応元年5/14付高森陣屋総督石川小五郎(*河瀬)宛に飛脚便、暴動犯遊撃隊士風聞に付、他行隊士の有無調査依頼。河瀬15日付返書:「当隊中には左様之儀無之様験兼兼申付候事故、今日に到り可有事とは存不申候へとも、其内隊内篤く取調可致候間、此段御承知可被成下候、尤勘兵衛儀は兼々諸隊より恨も有之儀付、隊中之大罪人に付、万一諸隊より右之暴動有之候は、能々御取糾可被成遺候様御頼致候由、」同月十五日之日付を以申来候事。 (*のち隊士3名判明するも対処等不詳。)                                            ー県史6資料編 
5/25 幕軍諸藩広島頓集。幕兵・彦根・高田・大垣藩兵等1万2千7百余名。
6/12 萩藩、家老毛利出雲「元潔」・藩士桂小五郎「孝允・後木戸準一郎・変名桂大隅」・同山県半蔵「宍戸璣」・同佐伯太郎右衛門等を広島藩に遣し、嘆願書を致し、闔藩恭順の情を陳じ、再征を受くる理由なきを弁ぜしむ。明日、出雲を罷め、小五郎を中老雇と為して正使たらしむ。既にして小五郎を罷め、半蔵を岩国に遣り、時期を量り広島に赴かしむ。尋で「二十四日」半蔵、江波に到り、広島藩士立野一郎等と会見す。(*「出雲」では事の重大性に其の対応困難。公に先立ち岩国に赴いた半蔵(宍戸備後助)は、吉川監物に面談するも、前年幕府糾問に桂、高杉等所在不明と回答のため公の出?正使不可を唱える。この間、桂は山県半蔵岩国から帰る迄名を桂大隅と改め高森宿泊。この時河瀬は藩府に帰る途中、高森に向かう槍持ちを従え騎乗の桂小五郎と花岡ですれ違い初面談す。本人は気付かなかったが桂に「オイ!河瀬」と呼びかけられる。ヒョイと見ると公であった。「これから吉川公の処へいくが、俺の吉川公面談は良くない。ワシが同道するから貴様代わってくれんか」           「木戸松菊公逸話」)   
8/6 萩藩士石川小五郎「後河瀬真孝・変名梅田三郎」・同野村靖之助「靖」・同松本鼎三等、無断広島に抵り萩藩士民の名を以て嘆願書を提出し、藩主毛利敬親父子の冤枉を訴へ、斡旋を請ふ。
11/16 糾問使大目付永井主水正尚志( なおむね)広島着。20日から長藩代表宍戸備後助等糾問開始。
11/18 萩藩、藩士河瀬安四郎「真孝・石川小五郎」・同井原小七郎・同野村靖之助「靖・入江嘉伝次」を諸隊代表と為し、広島に遣して幕府の糺問に応ぜしむ。是日、藩主毛利敬親、安四郎等を召見し、訓戒する所あり。 (*護衛銃隊2、30人帯同して広島へ向かう。国泰寺で床に上がった所で長刃を、次の間で小刃を取外し奥の間で主水正に対座。「諸隊物騒ならしいがどうか」と問われる。*アト返答等割愛。「河瀬談話」)
12/11 大目付永井尚志等、審問了るを以て、萩藩使者宍戸備後助「璣」・同木梨彦右衛門「椙原治人」等に帰藩を命ず。明日、備後助・彦右衛門、なほ滞在して幕府の裁決を待たんと請ひ、藩士河瀬安四郎「真孝」等三人を帰らしむ。尋で「十三日」尚志等、其滞留を許す。
慶応2 1/21 薩長盟約成立(木戸・西郷)
2/7 老中小笠原長行長州処分伝達のため広島着
2/11 幕府歩兵隊、大挙広島到着
4/5 第二奇兵隊100余名石城山脱走。 4/10倉敷代官所襲撃(首領立石孫一郎)倉敷浅尾騒動
5/21 萩藩家老宍戸備前「親基」、藩士河瀬安四郎「真孝」等を従へ、辺境の地理を巡見し、岩国に至る。是日、備前等、支族吉川経幹に謁す。
6/5 征長先鋒総督紀州徳川茂承(もちつぐ)広島着(国泰寺)
6/12  遊撃軍今度ノ先鋒に高森垣内穢多ヲ集メ、百人一隊トナシ(隊長ハ萩人某)用ユルトノ事風聞アリ、経幹公之を聞かれ、防長正義ヲ立ル為今広島ニ向フナリ、穢多ヲ先手ト為コト甚不宜ナリ、如何ナル訳カ問糾ス可トテ、十二日ニ藤田浪江関戸ニ居シ故呼出サレ、此事遊撃隊長ニ逢テ趣旨聞帰ル可シト命ゼラル、隊長川瀬安四郎此時関戸宿セリ、浪江因テ其宿ニ往テ此ヲ問フ、川瀬答フ、是ハ決テ先鋒ニ用ユルニ非ズ、彼ハ命ヲ惜マヌ者ユヘ敵近ク斥候セシメ、又戦死ノ者アレバ取片付ニ用ユルナリ、此ノ人数維新団ト唱フ、験シ旗ハ黄色ヲ用ユルナリ、此訳ヲ能々公ニ申上呉ヨト云ヘリ、因テ反命ス                                                            「小瀬川口戦争私記」
6/14 芸州口開戦:6/13本陣を多田村から小瀬村籌勝院に進める。6/15本陣を小方村に進める。
6/25 副総監本荘(松平)宗秀独断にて拘留の宍戸備後助・小田村素太郎を岩国新湊に放還。
7/6 将軍家茂、松平(本荘)宗秀(丹後宮津藩主)の副総督・老中職を罷免し大阪帰還を下命。
7/13 広島藩士植田乙次郎、書を萩藩遊撃軍総管取扱河瀬安四郎に致して、幕兵の大野村を撤退し、広島藩兵の代りて駐屯すべき内議あるを告げ、其進戦を緩うせんことを求む。
安四郎、幕意公表なきを以て、輙く応じがたきを答へ、明日、状を藩要路に告げ、急遽廿日市に進出するの決意を告ぐ。尋で「十六日」要路、幕議の輙くべからざるを以て、時機を失せず、進軍すべきを答ふ。
7/14 幕軍大野村撤兵し一時止戦状態。
7/16 広島藩、藩士西本清介・同植田乙次郎を萩藩に遣し、老中本荘宗秀の帰藩を報じ、且幕軍と停戦せん事を謀らしむ。是日、清介等、岩国に到り、情を告げ、明日、山口に向ふ。
萩藩士河瀬安四郎・同太田市之進、清介等と高森駅に会し、其山口に赴くを止め、藩要路広沢兵助・小田村素太郎の来会を促し、清介等と協議せしむ。
7/20 将軍家茂大阪城に薨去
7/21 殿様(*吉川経幹)御忍二て御馬上関戸口、小瀬村へ御出、御本家遊撃隊総督毛利幾之進様御宿御本陣籌勝院へ御立寄暫御滞、夫より和木村へ御罷り御帰還也      「芥川國友陣中日記」
7/24 御本家若殿長門守様(*毛利元徳)、今日極御忍二て当所へ御上下八九人二て御出、一応庄屋嘉屋喜左衛門方へ御落付暫御休息被成、無程惣督御宿本陣籌勝院へ御出、今晩御止宿ニ付、当家へ宿致し候、遊撃四番之隊長宮田半四郎も罷り出、厚御意有之候大略左に  此間ハ不要意伏戦苦労□不失候事由二て、御盃頂戴し□□□候事也。御夜具御所持無之故、当家之新キ四ツ時夜具蒲団御用ニ相也候事       「芥川國友陣中日記」 (*芥川國友は吉川家老小瀬村領主香川氏陪臣:四番銃隊宮田半四郎宿舎)     
7/25 長門守様今朝籌勝院御出馬二て、横山御館へ御立寄被遊、暫御滞二て夕七ツ過、岩国横山御出馬二て高森ヘ御帰陣被遊候事                                         「芥川國友陣中日記」            
8/2    其後(*小瀬川口勝利後)敵軍大野ニ屯シ攻争数度ニ及フト雖勝敗更ニ見ル可キモノナカリシカ其然ル所以ノモノハ小潟以東ノ地ハ総シテ我軍ノ左翼ニ迫リ高山連峰崖阪地ヲナシ右翼海ニ接シテ海山ノ間餘地ヲ存セス僅カニ岸上ノ一線路有スルノミナルニ敵は艦舩多數を有シ又海陸ニ新式施條砲ノ備ヘアリ之ニ反シテ我ニ一ノ艦舩ナク陸上僅ニフレンチボードナル銅製ノ小砲アルモ弾丸ノ飛揚五六丁ニ止マリ砲争ノナス可カラサルヲ以テ常ニ銃争突進ヲ主用シタレ共敵ノ砲艦我ヲ横撃シテ百事徒為ニ属セシメタレハナリ、詼戰爭中尤激烈ナリシハ八月二日之戰ニテ同日ハ開戰以来始メテ敵ノ進撃ヲ受ケタリシカ其ノ午前十時ノ候ヨリ敵軍四十八阪ヲ進軍シ来タリ我先鋒ノ玖波以東ニアル者ト戰ヲ交ヘ數時ノ後我兵退テ玖波駅ノ南ニ接スル髙臺ニ備エシ砲塁ニ依リ玖波駅ヲ隔テゝ防戰夜二入り午夜ノ候敵軍遂ニ能ク為ス?ナキヲ以テ詼駅ヲ火シテ去レリ、此戰ヤ開戰以来ノ激争ニテ敵軍ハ紀州并ニ歩兵組、大垣彦根等我ニ数倍スルノ軍ヲ以テ突進シ其左翼ヨリハ砲艦三四隻ノ援撃スルアリテ殆我ニ施ス可キ策ナク幸ニシテ我砲塁ノ地形敵艦ノ砲撃ヲ遮断セシカ為メ僅カニ能ク敵人ヲシテ目的ヲ達スルヲ得サラシメタリ、詼戰爭數日前太田市之進其御楯隊ヲ率ヒ来リ援スルニ會セシカ折節御楯隊ハ大野ニ至ル間道ニ出軍シ玖波以北高山ヲ隔テ二里許ノ谿谷ニアル松ケ原村ニアリ遊撃隊ト気脉通シ易カラサリシニ敵軍ハ一隊ヲ分テ松ケ原ニ向ハシメ以テ自軍後背ノ備ニ當テ精ヲを尽シテ四十八阪ヲ進軍シ遂ニ玖波駅ヲ以テ両軍ノ争場トセシカ為我松ケ原ヘノ通路全ク断絶シ苦悶云フ可カラサルヲ致セシカ其翌三日市之進ノ軍ヲ舉ケテ歸リ来ルニ會シ始メテ其無事ナリシヲ知レリ、右耕戰後藩公ヨリ使者アリ安四郎ニ賞詞アリ次テ新刀一ト振りヲ受領セリ、(*アト略・太田市之進は河瀬の盟友)                           「河瀬眞孝維新前履歴書」
8/7 長軍玖波・松ケ原・明石の三道から総攻撃。・8/9大野村幕軍総退却、広島城下等に撤退。
8/11 鹿児島藩士西郷信吾「従道」(*つぐみち)広島を発し、山口に赴く。明日、岩国に抵り、萩藩士広沢兵助・同井原小七郎・同河瀬安四郎「真孝」等と会談す。尋で、信吾、山口を経て太宰府に至る。
9/2 芸州口停戦協約締結。広沢兵助・井上聞多・河瀬安四郎・太田市之進 / 勝安房(宮島大願寺)
9/2 今夕過、川瀬安四郎殿当家部屋ヘ御引移り被成、小遣い壱人上下二人二て御滞宿被成候事、御膳道具其余小道具不残本陣より御仕出御□兵糧等は時々本陣より持参      「芥川國友陣中日記」 
9/4 9/4紀伊総督広島出立帰国、以後9/17までに諸藩各隊大阪または本国へ向け広島出立する。松本、高遠、竜野の諸藩と一部の幕軍は当座広島残留。松本藩主残留の不当を閣老に意見具申。松本藩出兵支出約8万両。
9/5 御本陣総督毛利幾之進様当家部屋へ御入来、暫御滞幅(ママ)督川瀬安四郎、段々御申合有之、無程御帰り被成候事、其後追々御役人方御集り二て御密用談有之、夜中九ツ(0時)前御開被成候事                                           「芥川國友陣中日記」
9/11 副督川瀬安四郎殿五ツ前より当家出立二て御用ニ付、御楯隊太田市之允(ママ)同道二て当新湊より乗船二て大嶋え□渡海、直様馬関ヘ御越、山口迄御出之模様二て御越、暫御滞之由、御留守部屋えは少々小道具御残り置被成、跡は縮切ニ致置候事。 遊撃軍四番銃隊(*宮田半四郎)之内 書損自□戦反古見当り写置候 「六月十二日早朝、欽明路出陣二て八ツ時(14時)多田相着、夜四ツ時(22時)出立、同十四日暁頃迄関戸峠下二て休み、六ツ時(6時頃)小瀬川渡船ノ事(中略)」 (*14日早暁開戦前の遊撃隊の動きが刻銘に分かる。芥川宅は宮田半四郎宿舎。この時河瀬安四郎は6/12関戸泊。)                                               「芥川國友陣中日記」                         
9/29 松本藩広島殿の任終わり松本藩主以下海路大阪に出立。10/14大阪に帰着。10月末頃から藩兵松本に帰藩。
10/9 川瀬安四郎様山口より御帰り、当家部屋へ御帰宅被成、御滞留被成候事    「芥川國友陣中日記」 
10/20 河瀬の今廿日迄の借部屋代支払について輜重方頭人榊原金吾という者が芥川宅を訪問。「芥川國友陣中日記」 (*この日をもって小瀬川口陣営を離れたか?「将軍薨去ニ依リ止戦ノ談成ルヤ、参政山田宇右衛門ノ斡旋ヲ以テ藩費洋行ノ命ニ接シ、小瀬川陣営ヨリ直チニ馬関ニ出テ次テ長崎ニ至リ、(此際ノ事木戸孝允ノ周旋ニヨル) ・・・ 」       「維新前履歴書」)
11/3 毛利幾之進免総督  ・ 11/4河瀬安四郎免総督後見。
11/9 萩藩士木戸準一郎「孝允」、書を同藩士広沢兵助「真臣」に寄せ、闔藩士気緊粛の要を述べ、藩士河瀬安四郎等の上海・香港留学に斡旋を求む。(*慶應元年内訌戦鎮定山口在の時、参政首座山田宇右衛門に、諸隊は彼の情實を確かめず攘夷を主張するが態をなすためには彼の状況把握が必要で、明日の命も分からない中、もし諸般勝利成就し命を永らえていたなら是非洋行したいと懇請していた。芸口停戦確定後、直ちに山口に向かい、山田宇翁(宇右衛門)宅で木戸公を交え面談。この時、洋行を再び請願、宇翁之を快諾。元来、私は政事にうとく維新前の公との関係は、花岡出会いと之の二度で特に深い関係があった訳ではない。「木戸松菊公逸話」)「河瀬維新前履歴書」「河瀬談話」「芥川國友陣中日記:9/11山口出向の項」(*河瀬と二太夫の洋行内定慶応三年正月十二日。紛議あるも最終許可三月朔日。4月藩主反対するも命を待たず長崎出帆上海経由英国へ向かう。木戸は渡航船手配に尽力。   「木戸松菊公逸話」 ・「広沢真臣、木戸宛書簡」)
慶応3 1/23 第二次長州征討終結(幕府解兵の令布告)・2月遊撃隊高森へ帰陣
4/ー 河瀬安四郎、毛利幾之進、鈴尾五郎藩主の命を待たず藩命英国留学長崎出帆。
10/14 大政奉還・12/9王政復古の大号令
明治元 1868 ・1/3鳥羽伏見の戦い ・4/11江戸開城 ・9/8明治改元(1868/10/23)
明治2 1869 ・5/18戊辰戦争終結 ・6/17版籍奉還 ・12/7遊撃隊等諸隊脱退騒動
明治3 1870 3月遊撃隊解散・3/5②有馬幸次三丘に賜死(28)・3/18~5月脱退遊撃隊士30余名処刑梟首
明治4 1871 6月河瀬、毛利幾之進英国から帰朝・7/14廃藩置県断行・11/12岩倉使節団米欧に向け出航   
(*「維新前履歴書」6月帰朝。「木戸松菊公逸話」では著者(妻木忠太)の「木戸日記7/16河瀬帰朝後公宅訪問・前日帰朝」の引用補足記載あるが、履歴書6月帰朝との乖離解析不詳。) 
(*補記)   小郡駐在幕吏 襲撃事件 *文久3年8月19日小郡駐在幕吏襲撃事件:長門國攘夷褒勅使「正親町公薫旅中記」に吉田稔麿の報告として、「八月廿日 奇兵隊吉田稔麿  右者幕府使節小郡上陸之處昨夜同所ニテ何者カ致梟首候由御咄申上且 奇兵隊之内ヨリ脱之徒五人有之候由ニ付探索之由申候事」              
「小倉藩幕末維新史料:攘夷記」 当時奇兵隊に在隊の豊前小倉藩領田川郡高野村農伝三郎が帰郷後小倉藩に拘束され糾問に供述。(前段、奇兵隊入隊経緯等省略)  一、山口ニ赴キクル幕吏ハ小郡ノ旅館ニ宿セシニ、幕府ノ文書中ニ夷国人ヲ打撃セス云々ノ語アルヲ以テ太守大ニ怒リ、其夜児玉百助・有馬彦七・藤村求馬・田村省(*不詳)等其旅館ニ入リ五人ヲ斬殺シ(*三原屋3人殺)*奴隷ハ之ヲ小瀬川ニ送出セリ(*国境送出の下僕吉五郎・安五郎の2名は1ケ月後幕府に事の顛末を報告)    「小倉藩攘夷記:岡﨑鎮生氏所蔵資料典拠」
「幕吏殉難者」  ・津市三原屋 :鈴木八五郎・長谷川勇助・千原 栄 3名       ・中関平根沖 :中根市之亟・浅野林右衛門・坂部彦兵衛3名(この内、浅野、坂部の何れか波多瀬(幡瀬)付近に殺):計6名   (注:波多瀬(幡瀬)は藤尾の渡し(現周防大橋)北方の岩礁付近。           
小郡駐在幕吏襲撃事件関係文献 ①~⑤実行者 「小郡町史(旧)」昭和8年発行①③ 「幽蘭略記」明治22年4月10日発行  「大湊君墓誌銘」明治43年3月建立①②  「秋穂二島史」昭和44年11月①③  「小倉藩幕末維新史料:攘夷記」H12年①~⑤     「中根市之亟物語及び防府日報連載」(石田恭一)H17年①~⑤     「中根市之亟暗殺一件」(岡﨑鎮生)H24年9月①~⑤    (*〇数字氏名は文久3/8/9の項参照) 中原邦平:大正10年没(69)毛利家編輯所員 明治44年維新資料編纂会委員「忠正公勤王事績述」明治44復刻。中根殺害場所を調査。大正2年秋良朝之介(塩田経営者)ら有志と中根市之亟墓建立、50年祭執行。